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第31話
14.
雨がしとしとと降っていた。教会の墓地には、傘を差したほんの少しの喪服の参列者。牧師の読み上げる祈祷書の一節が寂しく響き渡る。
「We therefore commit her body to the ground ; earth to earth, ashes to ashes, dust to dust―今その屍を地に委ね、土を土に、灰を灰に、塵を塵に帰すべし」
俺はただ黙って、母の棺の上に土がかけられるのを見ていた。
どこか虚ろで現実味がない光景だった。もしかしたらこれは夢で、いつものように目が覚めると母が温かい朝食を用意して、キッチンで笑顔で待っているのではないか、と思った。自分が決して良い息子ではなかったことはよく理解している。それでも自分にとっては大切な母であり、たった一人の肉親だった。母への愛情は誰に向けたものよりも深く、誠実なものだった。
肩に置かれた手の感触で、現実に意識が引き戻される。気が付くと、いつの間にか母との別れの儀式は終わっていた。
「何か話したいことがあれば、いつでも教会へ来なさい」
牧師だった。
彼が自宅のキッチンで倒れていた母を見つけて、救急車を呼んでくれた。残念ながら間に合うことはなかった。彼が見つけた時点で、すでに母は亡くなっていたのだ。
そして大学の寮にいた俺に連絡をくれて、葬式の手続き等の一切合切を引き受けてくれた。彼がいなかったら、俺はどうしていいのか分からなかったので、本当に感謝していた。
彼がそこまでしてくれたのは、きっと母がこの教会でボランティアとしてずっと賛美歌を歌っていたからだろう。彼女は美しいその容姿と歌声で、教区の人たちからはまるで神から使わされた天使だ、と言われていた。
教会で歌う母はとても美しく、どこか神々しささえ感じて、子供心にも近寄りがたい存在に思えた。人々が賞賛するのも理解できた。
俺は11歳で家を離れて寄宿舎学校へ入り、その後は休みの度に帰郷するものの、忙しい母に負担をかけたくなくて、友人の家を泊まり歩いたりして、あまり家にいなかった。今思えば、母に寂しい思いをさせてしまったと後悔する。
母はずっと一人で働いて、俺を育ててくれた。
言い訳がましいが、小さい頃からその苦労を間近で見て知っていたから、自分が原因で彼女に余計な苦労をこれ以上かけさせたくなかった。
母は美しい金髪と深い蒼い瞳の持ち主だった。それは俺も受け継いでいる。鏡を見る度に、俺は母を思い出す。いつもどこか悲しい顔をしていた。決してその訳は話してくれなかった。時折寂しい顔をして「あなたのお父様はとても素敵な方だったの」と言っていた。だが、俺の父親が誰なのかは、死ぬまで一言も明かしてはくれなかった。だから今も俺は自分の父親が誰なのかは知らない。
母の体が弱いことは知っていた。だが彼女はいつも何でもないように、元気に振る舞っていた。そう、一人で苦労を抱え込むような人だったんだ。俺には何も言わずに、一人で全てを解決しようとする人だった。
俺が希望する大学へ入れた時、彼女は誰よりも喜んでくれた。家から通うのが無理なので、また一人にしてしまうと詫びると「そんなのはいいの。心配しないで。自分の夢を叶えるために、しっかり勉強するのよ」と励ましてくれた。いつも元気な声で相手を励ますのを美徳とする人だった。
俺は降りしきる雨の中、ぼんやりと母の棺が埋められた場所を見つめていた。
独りぼっちでキッチンの床に倒れていた母。その様子を想像すると、胸が張り裂けそうだった。だが、涙は一滴も流れなかった。
教会に安置された棺の中で眠る、冷たくなった母の遺体と面会した時、今にも彼女が「良かった、元気そうね」と笑いながら起き上がるんじゃないかと思っていた。
俺は母のたった一人の息子なのに、実の母親が死んでも涙することなく、ただぼんやりと成り行きに身を任せることしか出来なかった。周囲の人間はそんな俺を冷淡だと思っているだろうか。泣くことすら出来ないぐらい薄情な人間だと?
いつか母のために泣ける日が来るのだろうか?
その時、俺は木の陰からこちらをじっと見つめる人物に気付いた。
遠目なので顔がはっきりとよく見えないが、傘を目深に差して黒いスーツを着たその男性は、すらりと背が高く茶色の髪を綺麗に撫で付けていた。俺がその人を見ているのに向こうも気付いたらしく、慌ててくるりと背を向けると、早足で教会の敷地の外へ出てしまった。
母の知り合いだろうか? どこか見覚えのあるその人を見ながら、俺はそう思っていた。
それから間もなくだった。彼女が俺の目の前に現れたのは。
彼女は母の古い知り合いの秘書だ、と名乗った。
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