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第32話

 母は存命中、自分について何一つ語ろうとしなかったので、彼女が一体どんな人生を過去に送っていたのかを、俺はまったく知らなかった。だから当然、母の古い知り合いなんて誰も知らなかった。  自分の母親のことなのに知らないなんて冷たい息子だ、と責められても仕方がない。  だが母は意識して、俺が彼女の過去に触れないよう常に気を配っていた。多分過去の話をすると、必然的に俺の出生について、そして父親の話題に触れずにはいられないので、それならば最初から話さずにおこう、と決めていたのだろう。  そしてまたその過去は、同時に彼女自身を深く傷つけていたに違いない。そうでなければ、あれほど頑なに俺の父親と、彼女の過去について口を閉ざした理由が分からない。  俺の家には、俺が生まれてからの写真しかなかった。  俺が生まれる以前の写真は一枚もなかった。当然そこには俺の父親であろう人物の写真もなかった。だから父親が誰かも、顔も知らない。  でも俺はそれでも良かった。母がいてくれたから。  それなのに、俺はそんな優しい母からわざと離れるような真似をしてしまった。  だからある日突然、母の古い知り合いの秘書と名乗る女性から連絡があった時、胡散臭いとは思ったが、それが母への償いになるのならと会う決意をしたのだ。  大学の近くのカフェで、彼女とは初めて会った。  茶色の髪を肩の下まで伸ばし緩く巻いていて、とても知性的な表情をした美しい人だった。普段大学構内や周辺で見かけるのとはまったく違った雰囲気の女性だったので、彼女を目の前にして、俺はかなり緊張していた。俺はそわそわとしながら、周囲の目が気になって見回してみる。カジュアルな服装の学生ばかりのカフェの中で、濃紺のスーツをスタイル良く着こなしている彼女は一際目立つ存在だった。  誰か知り合いにでも見られていたら、後でからかわれそうだな、といらぬ心配が頭をよぎる。 「リチャード・ジョーンズさんですね。初めまして、フローレンス・ブレイクです。あなたのお母様、エレノア・ジョーンズさんがギルドホール音楽学院に在籍時の同窓生、ジェレミー・カークランドの秘書をしています」  彼女はそう言うと、すっとテーブルの上にビジネスカードを載せた。白くて細長い綺麗な指をしていた。 「……カークランドさん、というお名前は初めて聞きます」 「エレノアさんは、あなたに学生時代のお話をされたことはありませんか?」 「母は存命中、何一つ自分の過去について語りませんでしたから……」 「それでは、彼女がエレノア・クリフォードという名前だったのもご存知ありませんか?」 「……ジョーンズではなかったのですか?」 「ジョーンズは、エレノアさんのお母さま、つまりあなたのお祖母さまの結婚前の苗字です。彼女の本当の名前は、エレノア・クリフォードです」  俺は愕然とした。母の本当の苗字すら知らなかったなんて。  そしてもう一つの疑問が頭に浮かんだ。何故、母は祖母の旧姓を名乗っていたのだ? まるで自分の存在を隠すかのように、苗字を変えて住んでいたなんて……まさか犯罪にでも関わっていたのだろうか?  俺は彼女の話を聞きつつ、急に不安になってくる。 「……どうして母が本当の苗字を名乗らなかったのか、ご存知ですか?」 「さあ……それは私も分かりかねます」 「あの……まさかと思うんですけど、犯罪に関わっていたなんてことは……?」 「それはありません。もしそうだとしたら、ご自分の素性とはまったく関係のない苗字を選ぶ筈じゃありませんか? どう考えても、自分の母親の旧姓を名乗るような真似はしないでしょう?」  フローレンスは、はっきりと断言した。どうやら、彼女はその辺りの事情は知っているようだ。それならば……と、別の質問をしてみた。 「俺の父親については、何か知りませんか?」 「いえ、ごめんなさい。それは知らないんです。彼女があなたを生んだのは、ギルドホール音楽学院を卒業して、しばらく経ってからなんです。カークランドがエレノアさんと親しくしていたのは、彼女が学校にいた間だけなので、その後についてはほとんど知らないんですよ」  フローレンスは申し訳なさそうに言った。 「……そうですか。でも何でカークランドさんの秘書のあなたが、わざわざ俺と会ってくれたんですか?」  俺は疑問を口にする。母が生きている時ならばまだ分かるが、何故死んでからコンタクトを取ってくる? もしも遺産目当てに騙すつもりにしても、俺にはそんな財産なんて何一つない。遺産と呼べるようなものは、母が残していったわずかな品物……衣類、家具、身の回りの物。それだけだ。 「カークランドはあなたを援助したい、と言っています」 「……え? どういう意味ですか?」 「あなたはご存知ないかもしれないのですが、カークランドは慈善事業の一環で、これからの有望な若い人たちを対象に援助をしているんです。これまでにも、何人もの人たちを援助して、彼らは今現在社会で立派に働いています。カークランドは、あなたのお母さまであるエレノアさんが亡くなったのを人伝てに聞いて、ぜひ援助させて欲しいと申し出ることにしました」 「……そう、なんですか」  俺は突然の話に驚いて、何も言えずに俯いた。 「カークランドは、現在ではテノール歌手として世界的に成功しています。そんな彼が、学生時代に一緒に学んでいたエレノアさんの優秀な息子さんを助けたい、と思うのは自然な成り行きです。エレノアさんは当時、その美貌と才能で学院一のソプラノ歌手として名を馳せていました。彼女に憧れる生徒たちは大勢いたんです。カークランドもそんな信奉者の一人だった、と言えば支援したいという彼の気持ちを理解して頂けるかしら?」  母がオペラ歌手……俺は子供の頃に見た、教会で歌う母を思い出していた。とても美しい歌声だった。人々が天上の歌声と褒めちぎっていた訳が、ようやく分かった。 「あの……援助って具体的には……?」 「主に金銭面です。大学の学費は無料ですけど、生活費が掛かりますよね。あなたには学業に専念して頂きたいので、生活面でのサポートが主になります。後はその都度何か困ったことがあれば、こちらで全て何とかしますので、遠慮せずに言って下さい」 「そんな都合の良い援助を受けてしまってもいいんでしょうか?」 「構わないんです。それが慈善事業というものですから。それよりも、今は学業に専念して、卒業後立派に世間の役に立つように働いていただければ、それが何よりもカークランドにとっての利益になるんです。彼の慈善事業から羽ばたいた若い人材が世間の役に立つ、というのは彼自身のいい宣伝広告にもなるんですよ。そういう理由なら、納得して頂けますか?」 「はい……」  俺は、彼女の立て板に水のような物言いに圧倒されていた。すらすらとまるで覚えてきたセリフのように話し続ける彼女のペースに、いつの間にかすっかり飲まれていた。 「リチャードさんは現在法律を学ばれていますよね? 将来はやはり法曹界に?」 「ええ……そのつもりです」  俺は頷いたが、正直母が死んだ今となっては、このままの進路に進むかどうかは疑問だった。法曹界を目指したのは、手っ取り早く金が手に入るからだ。バリスタ-(事件弁護士)やソリシター(事務弁護士)は常に人手不足で引っ張りだこだった。給料もいいし、卒業してすぐに働き始めれば、母を楽にしてやれる、そう思ってこの道を選択したのだ。  だがその母ももういない。だから自分がこのままこの道を進むべきなのかどうか、今は不確かだった。 「法曹界のお仕事をされるようになれば、カークランド自身にとっても利益になります。彼のように世界的に有名になると、色々と揉め事に巻き込まれることも多いのですよ。ですから、決してあなたへの投資が無駄になるとは考えていないんです。それだけは分かって下さい」 「そうですか。……正直、お金には苦労しているので、お申し出は本当に有り難いんです。でも、そんな簡単にご厚意を受けてしまって良いのかどうかも、また迷っています」 「心配する必要は何もありません。社会に出てから仕事という形で支払って頂ければ、それで充分ですから」  フローレンスが何とかして俺を説得しようとしているのが、手に取るように分かる。きっとカークランド氏から、俺に彼の援助を受け入れるよう絶対に説得しろ、と厳命を受けているのに違いない。もしも俺が断って、彼女の立場が悪くなってしまったら……そう考えると、とても気の毒に思えてきた。 「分かりました。その話をお受けします」 「良かった。これで私も肩の荷が下りました。ありがとう」  彼女はほっとした様子で、にっこりと笑うと、目の前に置かれていた冷めた紅茶に、ようやく口を付けた。

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