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第33話

15.  随分雨が激しくなってきた。レイは、ギャラリーのいつもの定位置であるデスクに陣取って、ぼんやりと薄暗くなっていく外の風景を見つめていた。  デスクの上に載せている携帯電話の画面に表示されている時間は、午後5時55分。今日は6時に閉店予定だから、後5分でギャラリーを閉めればいい。ローリーは、とっくに帰宅していた。朝が弱いレイの代わりに、ローリーがいつもギャラリーを開けているので、大体4時過ぎには自宅に戻ってしまう。自宅と言っても、ここから数ブロック離れたところで、徒歩5分もかからないのだが。  雨の日はお客さんもあまり来ないし、もう閉めてしまってもいいかな、とレイは思う。外を眺めていても、ほとんど人通りはない。時折濡れないように、傘を目深に差して足早に目的地へ向う通行人がいるだけだ。  彼はギャラリーを閉めてしまうことにした。数分早く店じまいしたところで、何も変わらないし、突然の飛び込みの客なんて来る訳がない。レイは、デスクを離れてドアまで歩いて行き、鍵を閉めようとして驚く。ガラスドアの向こうに、リチャードが立っていた。  レイは慌ててドアを開けた。リチャードは傘を差していたが、足元はすっかり濡れてスラックスの色が変わっている。 「……どうしたの?」 「レイに会いたかったんだ」  いつものリチャードらしからぬ、どこか思い詰めた顔。 ――もしかして気付いたの? 僕があの時リチャードに、あの袋の中身が紅茶だって知ってるのを伝えた言葉に。 「……ごめん。今日は話をしたくない。雨の中わざわざ来てくれて悪いけど、帰ってくれる?」  レイの言葉を聞いても、リチャードはその場を動かなかった。苦渋に満ちた表情のまま、彼は口を開いた。 「もしかして……見たのか?」 「……何を?」 「俺が彼女と会ってるところ」  レイはがつん、と脳天を叩き割られたような衝撃を受けていた。 ――やっぱり……リチャードはあの人と会ってたんだ。大人の雰囲気を纏ったあの綺麗な女の人と。  リチャードの言葉を聞いた瞬間、レイの目の前が真っ暗になって体が震える。 「レイ!」  レイは気付くと大雨の中、どこへとも分からず走り出していた。今はただリチャードの元から逃れようと必死だった。彼は何も考えられず……そして何も考えたくなかった。  足元をびしゃびしゃと水たまりの水が撥ねる。目の中に雨粒が入って前がよく見えない。いや、それは雨粒ではなかった。レイは自分でも自覚がなく、泣いていた。  レイは、リチャードのフラットのキッチンカウンターの上に置かれていたブルーの紙袋を見た時に、その意味を悟った筈だった。自分があの日、あの店で目撃した出来事が全てを物語っているのだと。  それなのに、もしかしたら違うのかもしれない、自分の思い違いなんだと、一縷の諦めきれない希望も持っていた。たまたま同じような物が置かれていただけなんじゃないか、見間違いだったんじゃないかと。  でもそんな浅はかな考えは、リチャードの一言で簡単に打ち砕かれてしまった。 『俺が彼女と会ってるところを見たのか?』  頭の中で、リチャードの声が谺する。  レイは彼の言葉を信じたくなかった。リチャードがあの女性と会っていたのを……リチャードがあの女性の大事な、特別な存在なのだと認めたくなかった。 ――僕は……もうリチャードの特別な存在じゃない。  認めたくない自分と、認めるしかないんだ、事実を素直に受け入れろ、と冷たく突き放す自分が心の中で葛藤する。 ――いつか離さなければならない手なら、今、もうここで離すべきなんだ。これ以上僕の心の傷が深くなる前に。  レイは泣きながら、ふらふらと歩道を歩き続けていた。雨を吸ったシャツが素肌に纏わり付いて気持ちが悪い。濡れた前髪が額に張り付き、水滴がぽたぽたと垂れて前が見にくいので、手で乱暴に掻き上げた。  突然全速力で走ったせいで、心臓が破裂しそうに激しく動悸を打っている。足がもつれ、息が切れた。レイはぜいぜいと苦しそうに肩で呼吸をしながら、心の中で毒づく。 ――くそ、運動は苦手なんだよ…… 「レイ!」  突然肩を掴まれて彼はぐらり、と体が揺らぐのを感じた。膝がガクガクで体を支えるだけの力がない。まるで糸の切れた操り人形のように、ゆらりと倒れそうになる瞬間、リチャードの腕がレイを抱きとめる。 「大丈夫か?」 「……大丈夫じゃない」  建物の軒下、雨が入り込まないところにリチャードはレイの肩を抱えて入る。入り口に通じる数段の階段に腰を掛けると、リチャードはレイを膝の上に座らせた。 「濡れるよ」 「構わない。どっちにしても、もうずぶ濡れだよ」  リチャードは苦笑した。よく見ると、彼も傘を持っていなかった。スーツもびしょ濡れで、髪の毛は乱れて水が滴っている。 「何で逃げたんだ?」 「リチャードと話したくなかったから」 「俺、そんなに嫌われたのか?」 「……好きじゃなくなったのは、そっちの方だろ」 「何言ってるんだ?」 「いいんだ、もう隠さなくても。……すごく綺麗な人だね」 「……彼女と会ってるところ、見たのか?」 「……」 「彼女とは何でもない。レイが想像しているようなことなんて、何一つないんだ」 「じゃあ、どうしてあの紅茶、セーラから貰ったなんて言ったの?」 「……それは」 「言いたくないなら、どうして言いたくない、って正直に言ってくれなかったの? 僕……リチャードに嘘をつかれたくなかった……」  レイはリチャードの胸にしがみついた。後から後から涙が溢れて止らない。声を出さないように嗚咽を必死に押さえる。  リチャードの手がレイの背中に回された。だがその手から伝わってくるのは、彼の戸惑いや躊躇いの感情だった。いつものように真っ直ぐにレイに向ける好意だけの感情ではなかった。  レイは落胆していた。レイが想像しているようなことではない、とリチャードは口では言うものの、本当はお前の想像通りなんだよ、と彼の手が答えているように思えて仕方がない。 「ごめん」  リチャードは小さく呟くように謝った。  レイにはその言葉が、彼の認めたくない考えを肯定したようにしか聞こえなかった。 「言いたくないのなら、言いたくないって言ってくれれば……いつか僕に話してくれる時が来るかもしれない、って希望が持てる。でも嘘をつかれたら、もうそこで終わりなんだ。僕との信頼関係が断ち切られてしまうから」

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