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第34話
リチャードはレイの言葉にショックを受けていた。暫く黙っていたが、やがてゆっくりと口を開く。
「本当にごめん。悪かった。でも彼女はそういう関係の人じゃないんだ。あの時思わず嘘をついてしまったのは、考えなしだったと反省してる。まさかレイが、俺たちが会っているところを見ていたなんて思わなかったから」
「……」
「彼女は、俺の母親の昔の知り合いの秘書なんだ。俺が大学生の時に母が亡くなって、それから母の昔の知り合いが、卒業するまでパトロンになってくれてたんだよ。彼女はそのパトロンと俺との連絡係を勤めてくれていたんだ。就職してからは滅多に会わなかったんだけど、今年は母が亡くなって10年目だったから……それであの紅茶を……」
「あの紅茶は……?」
「昔、そのパトロンをしてくれた人が特別に頼んで、母をイメージして作らせた物なんだそうだ」
Blue Lady、蒼い淑女。あの紅茶の名前をレイは思い出す。彼には何となくリチャードの母がどんな女性だったのか、想像がついた。きっとリチャードと同じ、深い蒼い美しい瞳を持った人だったのだろう。
レイはゆっくりと顔を上げてリチャードを見つめる。リチャードはレイの頬に伝わる涙を指で拭った。
「リチャードのパトロンって誰だったの? それも言えない?」
「ジェレミー・カークランドっていう人だけど……レイは知ってる?」
「有名なテノール歌手の?」
レイは驚いて思わず声を上げた。
「さすが物知りなレイだな」
「知ってるも何も、世界的に有名な人じゃないか」
「俺、クラッシック音楽には疎いから、そんなにすごい人だって、ずっと知らなかったんだよ」
レイはリチャードの答えに絶句した。
ジェレミー・カークランドと言えば、クラッシック愛好家なら誰しもが一生に一度は生で聞いて見たいと願うオペラ界の伝説だった。レイも過去に何度かロイヤルオペラハウスでの公演を見に行っていた。
「そんなすごい人が、リチャードのパトロンだったなんて……」
「はは、レイにそんな風に言われるなんて、俺も大したものだな」
リチャードは照れて笑った。
「カークランドさんとリチャードのお母さんってどういう繋がりなの?」
「同じ学校の同窓生なんだって言ってたな……母はソプラノ歌手だったらしい。俺は聞くまで全然知らなかったんだ。母は自分の過去を自ら話すような人じゃなかったから」
リチャードは後悔の表情を浮かべて答える。母親が元気なうちに、彼女の歩んできた道を少しでも聞いておけば良かった、とこれまでに何度も繰り返し悔やんでいた。
「どうして僕に隠してたの? 隠す必要なんて、何もなかったのに」
「……そうだな。レイに隠す必要なんてこれっぽっちもなかったのに、どうしてだったんだろう。あの時は少し気分が落ち着かなくて、正常な判断が出来てなかったんだと思う。母が死んで10年目って聞いて、あの当時を色々思い出していたからかな」
そう言うと、リチャードは少し遠い目をした。在りし日の母親を思い出しているのだろう、とレイは思った。レイは正直リチャードが羨ましかった。リチャードは彼の中に、思い出せるだけの母親との充分な記憶を持っていたから。
「……もしかして、リチャードが住んでるあのフラットもカークランドさんが?」
レイはふと思い付いて尋ねてみた。
警察官の給料では、到底借りるのが無理な場所に住んでいるのも、パトロンがついてるのなら……それも世界的に有名なテノール歌手が援助しているのならば、理解出来る。
「そうなんだよ。あの建物全部が彼の持ち物らしくてね。俺が住んでるフラットを格安で貸してくれているんだ。当初は無料でいいって言われてたんだけど、俺ももう社会人だから、さすがにそれは心苦しくて、少しでもいいから払わせてくれって頼んで、そうして貰ってる」
「……サヴィル・ロウのスーツも?」
「社会人になったら、身なりはきちんとしろ、って彼の出入りの店を紹介されたんだ。少々高くてもそれなりの物を身につけていれば、いつか自分自身がそれに相応しい人間になるから、って。ただし俺の安月給じゃ、セールの時しか買えないけどね」
レイは今まで疑問に思っていたことが、やっと全て氷解して納得できた。
警察官にしては高級すぎるスーツも、身分不相応にも思える場所のフラットも、全部彼のパトロンであるカークランドが背後にいたからこそだったのだ。
「……もう嘘はつかないで」
レイはリチャードの顔を両手で包み込んで、真っ直ぐに見つめると、そう言う。
「もう二度と嘘はつかない。約束する」
レイはその言葉を聞くのと同時に、リチャードの唇に自分の唇を重ね合わせた。
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