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第36話
どこからか良いコーヒーの香りが漂ってくる。その香りに導かれるように、ベッドルームを出て、リチャードはバスローブ姿のまま、レイの姿を探す。目覚めた時に寝ぼけ眼のまま、レイを抱き寄せようと腕を伸ばすと、隣に寝ている筈の彼がいなかった。リチャードの目が途端に覚める。こんなことは今までになかった。大抵、いつもリチャードの方が先に目が覚めて、まだ半分寝ている状態のレイから「コーヒー淹れて、ミルクたっぷりの」と甘えた声でねだられるのが常だった。
リチャードは、まさか彼がまた一人でどこかへ行ってしまったのではないか、と心配になる。昨日の今日だ。昨晩は機嫌を直したかのように見えていたが、いつも自分の気持ちを表には全部出さずに、内に秘めてしまうところがある。表面上の彼だけを信じてはいけない。
慌ててベッドから起き出すと、ソファに掛けていたバスローブを羽織り、紐を結びながら部屋を出る。だが、ベッドルームのドアを開けた瞬間、ふわっとコーヒーの良い香りが鼻先をかすめて、リチャードはホッとした。
――コーヒー淹れてるのか……
とんとんとん、とリズム良く木製の階段を降り、一つ下の階まで行くとキッチンのドアを開ける。
「珍しいな、自分でコーヒー淹れてるのか?」
「おはよう、リチャード」
レイは白いふわふわのバスローブを羽織って、ペイパーフィルターでコーヒーを淹れていた。リチャードは後ろから彼を抱きすくめると、首筋に唇を当てる。
「おはよう、レイ」
「僕だってコーヒーぐらい自分で淹れるよ。普段どうやって僕がコーヒー飲んでると思ってるの? インスタントは飲まないからね」
「そうだよな。……って言うか、何で俺がいる時は俺が淹れることになってるんだ?」
「それくらいするの当たり前だろ? だって翌朝って体がすごくだるいし……」
そう言ってレイは少し俯く。その彼の頬が薄紅色に染まっていた。
――か、可愛い。
リチャードはレイを両腕で抱き締めたまま、ふわふわの栗色の髪に顔を埋めてキスする。
「僕ね、リチャードがあの人と一緒にいるところを見た訳じゃないんだ」
ふいにレイがそう言う。
「え? どういう意味だ……? 俺が彼女と一緒にいるところを見たんじゃないのに、どうして袋の中身を知っていたんだ? あの場に居て会話を聞いてたからじゃないのか?」
「……リチャード、美味しいコーヒー買ってきたから、フラットに一袋持ち帰ってくれる? この次、僕が行った時に淹れて欲しいから」
そう言ってレイは、キッチンカウンターに置かれていた茶色の袋を取り上げる。
「……この袋」
リチャードはレイの手にある袋を見て戸惑った。そのコーヒーが入っている茶色の小袋に、見覚えがあったからだ。
レイはリチャードの方に向き直ると、目の前に小袋を持ち上げる。
「これ、種明かし」
「その小袋、あの紅茶と同じ店のものだよな? ……でもあの時、レイは俺のフラットでブルーの紙袋の中身は見てなかっただろう?」
「見てないよ」
「じゃあ、どうして分かったんだ?」
「これ買った時、あの人が店の中に入って来たんだ。あの紅茶、誰にでも売ってる訳じゃないんだよ。ごく一部の昔からの顧客だけが、特別に販売してもらえる紅茶なんだ。だから気になってずっと見てた」
そう言って、レイはカウンターの上の作り付けの戸棚を開ける。途端にふわり、と特徴ある柑橘系の爽やかな香りがした。
「この香り……」
レイは手を伸ばして取り出した茶色の小袋を、リチャードに手渡す。
「Blue Lady……どうしてこれを?」
「僕、昔からこの紅茶飲んでるんだ。たまたま今までリチャードがうちで飲む機会がなかっただけで、いつも棚に常備してあったんだよ。大体、うちに来るとコーヒーしか飲まないだろう?」
「そうだったのか……」
「あの女の人、すごく綺麗だったから目が離せなくて。彼女、買った紅茶を自分が持参したブルーの袋に入れて貰った後で、同じブルーカラーのリボンを掛けてて、すごくお洒落だなって思って覚えてたんだよ。そうしたら、同じ袋がリチャードのフラットにあったから驚いた」
レイはその時の不安な気持ちを思い出していた。自分は見捨てられるんじゃないか、と怖かった。こうしてリチャードが側にいていつも抱き締めてくれていても、まだどこかそんな風に恐れる気持ちを忘れることが出来ない。リチャードと付き合う以前のあの頃のように、独りぼっちに戻るのはもう嫌だった。
「不安な気持ちにさせて悪かった」
レイの表情を見て、リチャードは彼の心情を悟った。付き合う前の5年間、レイはたった一人で自分を想って苦しみ続けていたのだということを、今更ながら思い出していた。
「本当はさ……僕なんかより、彼女みたいな大人の女性の方が、リチャードには良く似合うんだよね……」
自嘲気味にレイは言う。
「何言ってるんだよ」
「……本当のことだよ」
寂しそうなレイの顔を見て、リチャードは胸が苦しくなる。こんな風に思い込ませてしまった自分の不甲斐なさを悔いていた。
「大人っぽい人は俺の好みのタイプじゃないから」
「……」
「俺のタイプはどっちかっていうと、可愛い子なんだ。レイみたいに」
「……」
レイは黙ったまま、じっとリチャードの顔を見つめていた。
「本当だよ。……昨日約束しただろう? もう嘘はつかないって」
リチャードはレイをぎゅっと抱き締めた。それに応えるように、ゆっくりとレイがリチャードの背に手を回す。
「信じてもいいの?」
「いいよ。もうレイに、つらい思いは絶対にさせないから」
「……うん」
暫く抱き合った後、二人が体を離すと、リチャードはそうだ、と思い出したように口にする。
「そう言えば、これからはスペンサー警部を通してじゃなくて、俺が直接レイに捜査の協力を依頼出来るようになったんだ。警部から言われてたのに、伝えるのをすっかり忘れてたよ」
「そうなんだ。じゃあ、頻繁にもっと一緒に仕事出来るようになる? でも考えたら、今までだって、非公式に随分協力してたんだよね」
「それを言われると……」
「まずは今手がけてる事件について、僕に話したいんじゃないの? 何だか随分、苦戦してるみたいだけど」
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