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第38話

17.  相変わらずどんよりとした灰色の空が重苦しい。今にもぽつり、と雨粒が落ちてきても不思議ではないような空模様だ。普段は乾燥しているロンドンも、どことなく空気が纏わり付くような湿気を帯びている。それほど気温が高い訳ではないのに、リチャードはスーツのジャケットを暑苦しく感じていた。  英国南西部の水害は酷くなっているようで、とうとう軍が出動する事態になったらしい。リチャードは通りすがりに、ニュースエージェントの店先に出ていた新聞の見出しで知った。昨夜はレイと話していたので、テレビのニュースを見なかったのだ。  いつもリチャードは、自分のフラットに一人でいる時、テレビかラジオを付けっぱなしにしている。一人暮らしが長いくせに、時々独りぼっちの静けさに耐えられずに音を求めてしまうのだ。何かしらの音が部屋にしていれば、寂しさも紛れる。それに、時事ネタは社会人にとっては必要不可欠でもあるし、彼にとっては一石二鳥の習慣だった。  それに対して、レイは普段はあまりテレビもラジオもつけない。どちらかと言うとCDで音楽を流すのが好きで、リチャードが彼の家に居る間は、いつも静かな印象のクラッシック音楽を流していることが多い。リチャードはクラッシックは全くの門外漢で、一体レイが何というタイトルの、誰が作曲した音楽を聴いているのか全然分からなかった。だが彼の選ぶ曲は、いつもリチャードの耳には心地よく響き、気持ちが落ち着くものばかりだった。 ――レイは音楽のセンスもいいんだな。  リチャードはいつもそう思って、レイの選曲を好ましく感じていた。多分彼のことなので、二人きりで会話をする際に、邪魔にならないような曲を選んでいるのに違いない。彼はそういう気遣いが、さり気なく出来る人間だった。  会った当初は口と態度の悪さに驚いて、彼自身の本当の姿が見えていなかったが、付き合って1年を過ぎ、リチャードは今ではレイを以前よりも深く理解しているつもりだった。  本当の姿のレイはとても繊細で、誰よりも優しく愛情深い人間だ。  普段のぞんざいな態度も口の悪さも、すべて彼の脆い心を他人に無遠慮に踏みつけにされないための、カモフラージュに過ぎない。  それを知ってからのリチャードは、余計にレイを甘やかしているのを自覚していた。ただ、あまりにもあからさまに表現するとレイに嫌がられるので、態度にはっきりと出すのは控えめにしていたが。  リチャードは途中にあるカフェに立ち寄ると、ラテをテイクアウェイして飲み歩きしながら、今までの事件の流れを自分なりに整理してみた。  どうしてもリチャードにはベイカーが襲われたのは、彼が買い取ったチッペンデールの文机が原因になっているとしか思えなかった。その件でリチャードに助けを求める電話があったのが、考えの基になっていたが、それ以上に彼が店を訪れた際に、ベイカーが文机に覆い被さるようにして倒れていたのを見つけたのが、印象深く残っているからなのかも知れない。  そしてリチャードの中にずっと引っ掛かっていた何かが、頭の中に思い浮かんだような気がした。 ――どうして、あんな不自然な体勢で倒れていたんだろう?  ベイカーが倒れていた文机は、オリエンタルデザインが強く出ていて、デスクの上には作り付けの棚が二段、そしてその棚の上部には、中国風の塔の尖端部分が飾りとして載せられていた。棚の下部分の両サイドには、シノワズリの影響を受けた絵柄の嵌め込み細工が施されたパネルが嵌められており、とても華奢で繊細なものだった。あまり実用には向かなそうなデザインで、どちらかと言うと、飾って楽しむ類いの物にリチャードには思えた。  リチャードが見た時、ベイカーは机の飾りである尖塔部分全体に、体を載せるようにして倒れていた。それは見方を変えれば、まるで机を庇うかのような体勢だった。 ――机を庇おうとしたのか?  もしかすると、机を庇って代わりに自分が殴られた可能性がある、とリチャードは思い付いた。あの机を壊そうと考える人物は……リチャードの脳裏にポール・ガートフィールドの顔が思い浮かぶ。ポールとベイカーは、買い取り価格を巡って争っていた。  もしもポールがあの日ベイカーの店を訪れて、また争いになっていたとしたら? そして激昂したポールが自分の思い通りにならないなら、机を壊してしまおう考えたとしたら? ベイカーが自分の身を挺してでも、商品を必死に庇うようなタイプの人間だったとしたら?   多分その瞬間、彼は机の代わりに、自分が犠牲になるのを恐れなかっただろう。  リチャードの脳裏にベイカーが机を庇って、ポールに後頭部を殴打される場面が、まるで見ていたかのようにスローモーションで映し出される。  スザンナは、ポールがボンドストリートを一人で歩いているのを見た、と言っていた。もしポールがベイカーアンティーク店へ行く途中だったのを、彼女が見かけたのだとしたら?  アリバイについて嘘をついたのも、強い動機を持つのも、あの家の中では彼一人だ。今までぼんやりと、チッペンデールの文机と事件が関係あるのではないか、と思っていたことが段々と一つに繋がるような気がしていた。ポール・ガートフィールドは限りなく黒に近い灰色だ。リチャードはコーヒーを飲みながら、考えを纏める。METに着いたら、まずはハワードに連絡しなければ、と思っていた。

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