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第51話
ラップトップコンピューターの画面上に写っているのは、中年の男性だった。ふっくらとしたブルネットの男性で、堂々とした体躯にかしこまった燕尾服を纏っている。
「いや……これは一体誰なんだ?」
「ジェレミー・カークランドだよ」
「……この人が?」
リチャードの動きが止まる。無言のまま呆然とした表情で、じっと画面を見続ける。
――あの人じゃなかったのか?
リチャードの脳裏に、いつの日かの光景が蘇る。雨の墓地。数人の黒い喪服に身を包んだ参列者たち。牧師の厳かな祈りの言葉が、雨音を縫うように聞こえてくる。そして離れた木立に身を隠すようにして、深く傘を差した紳士がいた。茶色の髪を綺麗に撫で付けた喪服の彼は、優しい眼差しを自分へ投げかけていた。
「リチャード、知らなかったの?」
「……いや、知らない」
「どうして? 今まで会ったことは?」
「一度もない。向こうは、世界的に有名なオペラ歌手で忙しいから会えない、っていつも断られてたんだ。だから一度も面会したことはなかったんだよ」
「……ここから先の話、リチャードちゃんと聞ける? 大丈夫?」
レイは心配した様子で、念押しするように尋ねる。
「ここまで聞いたら、最後まで聞かないと逆に気になるよ」
「昨日、聞いた話の中で引っ掛かった部分があったんだ。それでちょっと調べてみたんだけど……」
「引っ掛かった?」
「うん。カークランドは、若い人を支援するような慈善事業なんて一切やってない。そんな話、僕は全然聞いたことがなかったから、おかしいと思って調べてみたんだ。案の定そんな話はまったく見つからなかった」
「え? じゃあ、俺を金銭面で助けてくれたのは一体……」
「カークランドの名前を騙った、誰か別の人間だよ」
「……でも、何でそんなわざわざ他人の名前を使ってまで、俺を援助したんだ?」
「リチャードのお母さんって、エレノア・クリフォードさん……だよね?」
「どうして名前を知ってるんだ? 名前は教えてなかったよな?」
「カークランドと同窓生って言ってたじゃないか。ギルドホール音楽学院のウェブサイトの卒業生のプロフィールを見たらすぐに分かったよ。だってお母さん……リチャードにそっくりだったから」
レイの瞳が潤んだように見えたのは、気のせいだったのか……リチャードは何も言えずに俯いた。脳裏に元気だった日の母の面影が浮かぶ。
「そこからもう少し調べてみたんだ。リチャードのお母さん、エレノアさんは卒業と同時にオペラ歌手としてデヴューしたんだけど、その時にパトロンについたのがロード・ウィンボーンという人だった。この名前に聞き覚えは?」
「……全然ない」
「ロード・ウィンボーンのウィンボーンって、彼の領地がある地名なんだ。リチャードって、確か西の方の出身だったよね?」
「ドーセットのボーンマスに住んでた」
「ウィンボーンって地名知ってるでしょう?」
「ボーンマスの近くの?」
「そう」
「そのロード・ウィンボーンは、母のパトロンだったのか?」
「二人はパトロンとオペラ歌手以上の関係だった、っていう話もある」
「それは、つまり……」
「男女の関係だった、ってこと。実際ロード・ウィンボーンは、かなりエレノアさんに熱を上げてたみたいで、当時の様子を知ってる人たちの間では、二人の関係は公然の秘密だったそうだよ」
「それじゃ……もしかして、俺の父親は……」
「ロード・ウィンボーンじゃないか、って僕は思ってる。何らかの事情があって、二人は結婚出来なかったんじゃないのかな。上流階級にはありがちな事情、ってやつで。それで、エレノアさんが亡くなったって聞いて、ロード・ウィンボーンはリチャードに助けの手を差し伸べたんだよ。だって、リチャードは血を分けた息子なんだもの。でも彼には表に出られない事情があった。それは、きっと二人が結婚出来なかった理由にも繋がってると思う。それでエレノアさんと同窓生だった、ジェレミー・カークランドの名前を借りて、リチャードを支援し続けたのに違いないよ」
リチャードは、レイの言葉を聞いて黙り込む。思いがけない話に、理解が追いついていない。必死にレイから与えられた情報を整理しようと、自分なりに頭を働かせる。
「それともう一つ。ロード・ウィンボーンは通称名で、彼の本当の苗字はガートフィールドって言うんだ」
「ガートフィールド?」
「そう、今リチャードが手がけてる事件の関係者だよ」
「……まさか」
「そのまさか。あの家の主、ポール・ガートフィールドのお兄さん、現当主のフランシス・ガートフィールドがその人なんだ」
リチャードは、今度こそ一言も発することがなかった。黙ったままレイの顔を見つめている。
「運命のいたずら、としか言いようがないよね……」
「……」
「……どうする? 事件の担当、外して貰う? セーラに言えば、代わって貰えるんじゃない?」
心配した顔でレイが尋ねる。こんな表情のリチャードを、レイは今までに見たことがなかった。一瞬、言うべきではなかったか、と後悔の念が起こる。だが、もしリチャードに今言わなかったとしても、絶対にいずれは明らかになる話だっただろう、とレイには分かっていた。
――隠し事なんて、いつかはばれるんだ。
ならば、今ここで自分がリチャードに告げる方がいい、と彼は思っていた。誰か別の他人に真実を告げられるよりも、きっと自分が言った方がいい、その方がリチャードだって、安心して事実を受け入れられる。レイは自分の考えを改めて反芻すると、リチャードに伝えたことを後悔はしない、と決めた。
そんなレイの覚悟を感じとったのか、リチャードは険しい顔をして断言する。
「いや……この事件は、引き続き自分が担当する。もう少しのところまで来てるんだ。手がけた以上は、最後までこの事件の成り行きを見届けたい」
「そう……分かった。リチャード、どうする? 今夜は自分のフラットに戻る?」
「……そうだな……いや、やっぱり今夜も泊まっていってもいい?」
「いいの? 大丈夫? 一人になりたいんじゃない?」
「レイ」
「ん? なに?」
リチャードは、少しだけ悲しそうな表情を浮かべると、レイを抱きしめる。
「リチャード、平気なの?」
「……今夜は一人でいたくない」
レイは、リチャードの背に回した腕に力を入れる。
「……うん……僕が側にいるから」
「……ありがとう」
こんなリチャードを見るのは初めてだった。
――思ったより、リチャード堪えてるのかも……
今のリチャードに何よりも必要なのは、黙って側についていてあげることだけだと、レイには分かっていた。
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