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第55話

 リチャードの言葉にポールはゆるゆると顔を上げて、黙ったままじっと彼の顔を見つめる。その目に、闘争心はもはや感じられなかった。エカテリーナも黙ったままだ。レイの説明は、彼らの自尊心を打ち砕くのには充分すぎる程だった。彼らが今まで主張していた通りの結末は決して訪れないのだ、と認めさせるだけではなく、彼らが所持していた美術品が実際は大した価値のないものだった、と周囲に知られた羞恥心から、身の置き所がないようで、そわそわと落ち着かない様子になる。  そんな二人を見ながらハワードは、おもむろに胸ポケットからコピー用紙を取り出して、説明を始める。 「昨日、ポールさんが売却された文机をハーグリーブスさんが調査されている際に、ある文書を発見しました」 「文書? あの机は、売る時に中身を全部出して空っぽにした筈だが……」  ポールが何を今更言っているんだろう? と困惑した顔で言い返す。 「あの机には、隠し棚があったんですよ」  ハワードの言葉に、ポールが驚く。 「隠し棚?」 「ええ。その中から発見されたのが、こちらの文書です」  ハワードは胸ポケットから取り出したコピー用紙をひらひら、と彼らの目の前で振って見せる。 「……その文書とやらには、一体何が書かれているんだ?」  ポールは興味半分、一方で何かまずい内容でも書かれていたのか、不安半分といった風に尋ねる。 「こちらの文書は、ドイツ語で書かれていました」 「ドイツ語? この家には、ドイツ人なんていないぞ?」 「ええ。それはこちらでも調査済みです。ガートフィールド家に、ドイツ人の係累の方は一人もいません」 「じゃあ、それは一体何なんだ?」 「ポールさんの母上、レディ・ガートフィールドは第二次世界大戦中、大陸に軍人として派遣されていたんですよね?」 「……ああ。フランスへ行っていたと聞いているが」 「SOE/Special Operations Executive(特殊作戦執行部)の一員として、ですね?」 「ああ、そうだが……」  何でいきなり母親の話が始まったのだろうか? とポールの顔が不安に翳る。 「レディ・ガートフィールドは、秘密裡にドイツ軍に協力されていたのではありませんか?」 「な、何を言うんだ! お前たち、失礼にも程があるぞ! 母は英国軍の一員としてフランスへ派遣されていたんだ。何故敵であるドイツ軍などに協力するんだ! ガートフィールド家を侮辱するつもりか?」  ハワードの思いがけない一言に、ポールは我を失い叫び声を上げる。その様子を冷静に横目で見ながら、ハワードは話を続けた。 「こちらの文書は、マーゴ・パートリッジがナチス党総統アドルフ・ヒトラーに忠誠を誓い、協力を惜しまず英国及び同盟軍の軍事情報をドイツ軍へ提供する事を了承する、といった内容が書かれています。つまり、この文書はあなたの母上が二重スパイとなり、ドイツ軍に協力して英国軍の情報を彼らに流していた証拠なのですよ。パートリッジはレディ・ガートフィールドの結婚前の苗字ですね?」 「そ、そんな紙切れが何の証明になるって言うんだ……」 「文書の最後には、マーゴ・パートリッジの直筆の署名が入っています。筆跡鑑定で、彼女自身の手による物だとこちらでは確認済みです」 「……う、うそだ」  ポールはがっくりと肩を落とし、頭を抱えた。今まで第二次世界大戦の英雄として自慢していた母が、まさか敵国のスパイだったなどとはにわかには信じられない様子だった。 「ポールさん、レディ・ガートフィールドに面会させて頂けますか?」  リチャードが静かな声で尋ねる。もはやポールにはNoと答えるだけの気力は残っていなかった。彼は力なく頷くと、入り口近くに立っているヴェロニクに「母は起きているのか?」と聞いた。 「はい、この時間でしたら奥様は起きていらっしゃる筈です」  彼女の答えを聞いて、ハワードとリチャードは顔を見合わせて頷くと、レイとポール、そして制服警官を一人連れてヴェロニクの案内でレディ・ガートフィールドの部屋へ向う。ポールは気の毒なほど落胆して、体が一回り小さくなったかのように見えた。  レディ・ガートフィールドの部屋のドアをヴェロニクがノックし「レディ・ガートフィールド、お客様がおみえです」と言うと、中から「入りなさい」と神経質そうな老女の声で返答があった。  リチャードは、ヴェロニクとハワードの後ろに続いて部屋に入る。その時、横にいたレイが鼻をくんくんさせて、何かの匂いを嗅いでいるのに気付いた。 「どうした、レイ?」 「ん? ああ、ちょっと気になることがあって……後で話すよ」 「分かった」  リチャードは、レディ・ガートフィールドの部屋をぐるりと見回して観察する。ロンドン中心部に位置する家なので、田舎の屋敷に比べればずっと狭い部屋であろう。それに想像していたよりも随分質素だった。なんの飾り気もない部屋。家具もほとんど置いていない。洋服ダンスが一つと、プラスティック製の水差しとコップを置いたサイドテーブルが、ベッドから少し離れた場所に椅子と共に置かれているだけだ。  ポールが以前話していたように、突然レディ・ガートフィールドが発作を起こして物を投げたり壊したりするので、極力何も置かないようにしているのだろう。  入って正面にはフレンチウィンドウがあって、庭に出られるようになっている。小さな庭には季節の花が申し訳程度に咲いていた。専門に世話をする人間を雇っている様子ではなさそうなので、これが精一杯なのだろう。  天気が良ければ、青空が望めて良い気分転換にもなるのだろうが、こう天気が悪いと四六時中灰色の薄ぼんやりとした空を眺めているだけで、逆に陰鬱な気分になりそうだった。  そして部屋の左手の壁に寄せるようにしてベッドが置かれ、そこにレディ・ガートフィールドが半身を起こし、自分の穏やかな世界に突然現れた闖入者たちを無視するように、じっと正面のフレンチウィンドウを通して外の風景を見つめていた。  彼女は真っ白になった髪をきっちりと引っ詰めて一つに結び、ワインレッドのゆったりとしたガウンを羽織っていた。その袖から覗く痩せこけた皺だらけの手は、ぎゅっと掛け布団をきつく握りしめている。

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