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第56話

 リチャードは彼女の顔を見た。痩せた顔の中央にある意志の強そうな二つの冷たいブラウンの瞳と、冷酷な印象を与える薄い唇。深く刻まれた顔中の皺。  それまで彼女は、わざとリチャードたちを無視するように、フレンチウィンドウの方を向いていたが、ようやくゆっくりと入り口の方へ顔を向けて訪問者を確認した。そしてその瞬間、突然驚愕の表情を浮かべると、まるで瘧に罹ったかのように体を小刻みに揺らし始めた。 「奥様? レディ・ガートフィールド、どうされました? 大丈夫ですか?」  ヴェロニクが慌てて側に駆け寄り、肩に手を置き気持ちを落ち着かせるようにして尋ねる。 「……悪魔」  小さな声で、レディ・ガートフィールドが呟く。 「落ち着いて下さい。どうしたんですか?」 「青い目の悪魔……」 「レディ・ガートフィールド、お薬を飲まれますか?」 「……いいえ、大丈夫」  レディ・ガートフィールドは呼吸を整えると、きっときつい目付きで、入り口に立って事の成り行きを見守っていたリチャード達を睨み付けた。 「分かってるよ……私を地獄へ引き摺り落としに来たんだろう?」  ぶるぶると体を震わせ、彼女は憎々しげにそう言う。そんなレディ・ガートフィールドに、リチャードは冷静な声でこう告げた。 「レディ・ガートフィールド、あなたは五日前にベイカーアンティーク店のオーナー、マルコム・ベイカー氏を店内で後ろから殴打しましたね?」 「……お迎えがやっと来たね……今までずっと、いつか来るって思ってたんだ。悪魔の使いめ、私を連れて行くんだったら、さっさと連れておゆき」 「おい、リチャードあの婆さん、大丈夫か?」  レディ・ガートフィールドの言葉に、ハワードが心配そうな顔付きで、リチャードに耳打ちする。  リチャードはその問いには答えず、じっとレディ・ガートフィールドを見据える。その視線を耐えられないとばかりに、彼女は俯いてしまった。そんな彼女に追い打ちをかけるように、リチャードは容赦なく口を開く。 「あのチッペンデールスタイルの文机の隠し棚の中から、文書を見つけました」 「……よく見つけ出したね。分からないと思ってたのに」 「あなたは二重スパイだったのですね?」 「お前みたいに戦争を知らない若造が、私を責める資格なんてないんだよ。あの時、私はYesと言って奴らの提案を受け入れるしかなかった。そうしなければ愛する祖国の地を、二度と踏めるチャンスがなかったんだ。私は戻って来たかった。何万という友軍の兵士たちが望んでも叶わなかった願いを、自分だけは叶えたかった。命さえあれば、いつかは戻って来られる。そう思って悪魔の囁きに屈したんだよ……お前はそんな私を責めるのか?」 「……責めはしません」 「ならば、何故ここにお前達はいるんだ?」 「我々がここにいるのは、過去の話であなたを責めに来た訳ではないんです。五日前に起こった事件を解決するために来たんです」 「ああ、さっきも言ってたね。ベイカーのことか」  レディ・ガートフィールドの表情が曇る。 「あなたですね? あの日、ベイカーアンティーク店を訪れて、彼を後ろから殴ったのは」 「そうだよ。あの男は、私の秘密を握ろうとしていたからね。そうはさせないつもりだった」  リチャードの目の端に、ベッドに立てかけられた杖が目に入る。 「あの日、あなたはランチの後、いつもの薬を飲まずに寝たふりをしてヴェロニクさんを騙しました。ヴェロニクさんは毎日のルーティン通り、あなたが薬を飲んで寝ていると思っていました。そして普段と同じように2時間の休憩を取った。その間、彼女はこの部屋を訪れない。だからあなたは安心して、ベイカーアンティーク店に出かけられたんです」 「……寝てたんじゃなかったんですか?」  ヴェロニクが驚いて言う。リチャードは頷いた。 「そうです。あなたが休憩中この部屋に近づかないのを、レディ・ガートフィールドは承知していました。だからその機会に部屋を抜けだそう、と計画していたのです」 「外に出たのは、そこのフレンチウィンドウからか?」  ハワードが尋ねる。 「そうだ。ここからだと、家の中を通らずに庭の裏木戸を使って外へ出られる。家族の目を気にせずに出入り可能なんだ。ここからベイカーアンティーク店までは徒歩5、6分の距離でしかない。足の悪いレディ・ガートフィールドでも往復20分もかからないだろう」 「でも何で、母はベイカーアンティーク店へ……?」  今まで黙っていたポールが分からない、といった風にリチャードに尋ねる。 「彼女は文机の隠し棚に入っていた、あの文書を取り戻しに行ったんですよ」 「ああ……」  ポールがそうだったのか、と打ちひしがれた様子で頷く。彼にもようやく事件の背景が分かってきたようだった。 「ところが、店に入って目に飛び込んできたのは、今にもあの隠し棚を開けようとするベイカーさんの姿だった。隠し棚を開けるには、棚と塔部分に取り付けられたピンを同時に押さなければならないのですが、それを彼は丁度押そうとするところだったんです。レディ・ガートフィールドは慌てました。あの棚を開けられて、中に入っている文書を見つけられたらお終いですから。あなたは慌てて手にしていた杖を振り上げて、そしてベイカーさんを殴った」 「棒状の殴打痕は、杖で付いたものだったのか……」  ハワードが小さく呟く。 「ところが、あなたの予想に反したことが起きた。杖で殴った際、ベイカーさんは丁度棚の奥の底板のピンを押そうと、文机に乗りかかるような体勢でいたために、そのままの状態で意識不明に陥ってしまった。つまり隠し棚が彼の体の下に押さえられて開けられなくなってしまったんです。あなたは慌てました。何とか彼の体を動かそうとしましたが、杖をつく身で体格の良い元警察官の男性の体を動かすのは無理です。そのうち誰かが店に入って来るのではないか、と気持ちが焦り、あなたは文書の奪還を諦めて逃げることにした。だが、逃げる前に少しでも発見が遅れるようにと、冷静に衝立で隠したのはさすが最前線へ派遣された元軍人というべきでしょうか。その後、あなたと入れ替わりに私がベイカーアンティーク店を訪れ、殴られていたベイカーさんを発見したんです」 「命さえあれば、また奪還の機会は巡ってくると思ってたんだ。まさかあの隠し棚を見つけられるような、頭の働く人間が他にいるとは思ってなかったからね」  レディ・ガートフィールドは吐き捨てるように言った。 「何故あの文書を今まで破棄せず取って置いたのですか? あんな危険なものは戦争が終わった時点で捨てれば良かったのに」 「……戦争を体験したことがない人間には分からないよ。あれだけの被害を出した第一次世界大戦が終わって、ヨーロッパの国々は二度と戦争なんですべきではない、と言っていたのにも関わらずたったの20年ほどでまた戦争を始めたんだ。第二次世界大戦が終わった時、私はあの文書をすぐに捨てられなかった。またヒトラーのような男が現れないとも限らない。そして英国がそんな男に屈しないとは、誰にも分からないだろう? その時にあれを使えば、ガートフィールド家は安泰だ。私は家を守るための切り札として、あれを残して置いたんだよ」 「……そんな」  ポールが引き攣った顔で、レディ・ガートフィールドを見つめて絶句する。 「でもどうして、犯行を起こしたのが5日前だったんだ? 文机はもう少し前に売られていたんだろう?」  ハワードの質問にリチャードは少し思案してから、こう答えた。 「ポールさんとヴェロニクさんの言ったことからの推察だけど、多分、この部屋から文机がなくなっていたのを、レディ・ガートフィールドはしばらくの間、気付いていなかったんだ。時々、彼女は意識がはっきりしていない時がある、って言ってただろう? それにポールさんは、勝手に家具や美術品を売っているのを、家族に知られないように隠していた。だからレディ・ガートフィールドには、別の部屋に机を移した、とでも言い訳していたんじゃないかな」 「そうだよ。まったく自分の息子ながら情けない男だよ。賭け事であれだけ苦労したっていうのに、すっぱり足を洗うことも出来ずにだらだらと。しまいには私の大切な机まで売り飛ばして。別の部屋に移動したっていうから、家の人間に気付かれないように探し回ったけど、どこにもありゃしない。そのうちたまたま、ベイカーアンティーク店の支払い代金についての手紙が置いてあるのを見つけて、それであの店に私の机が売られたのを知ったんだ。後は全部そこのあんたが話した通りだよ」  苦々しげにレディ・ガートフィールドはそう言うと、ポールを睨み付けた。 「ポール、お前は小さい頃からずっとそうだ。私があんなに貴族の心構えを教え込んできたと言うのに、何一つ身につかなかった。お前の兄さんのように、まともに育たなかったのが残念でならないよ」  レディ・ガートフィールドの言葉に、一瞬リチャードの体が強ばる。隣で黙って立っていたレイがそれに気付いて、そっと彼の腕に後ろから目立たないように触れる。リチャードは周囲の人間に気付かれないよう、視線を微かに後ろへ向ける。リチャードの顔を心配そうに見上げていたレイと目が合うと、大丈夫、といった風に小さく頷いた。 「ポールさん、レディ・ガートフィールドには署まで来て頂きます。ヴェロニクさんに同行して貰いますが……よろしいですか? それと、必要であれば弁護士にも連絡をして下さい」 「……分かった」  リチャードの言葉に、ポールは素直に返事をした。  レディ・ガートフィールドは、まるで他人事のようにそのやり取りを聞くと、不満そうな顔を隠そうともせずに、フレンチウィンドウの外の曇り空に目を向けて溜息をついた。

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