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第58話

 ハワードの運転でMETの庁舎に戻ると、三人はリフトで5階のフロアまで上がる。リチャードが、5階のフロアへ足を踏み入れるのは久しぶりだった。ここは特別捜査本部が使用しているフロアだ。リフトから降りた途端に、AACUが置かれている3階のフロアとは全く違った活気を感じる。スタッフが忙しく部屋と部屋を行き交い、部屋の中からは大きな声でのやり取りが聞こえてくる。リチャードは久々の感覚に懐かしさを覚えると共に、今もここで仕事をしているハワードにほのかな嫉妬心を覚えていた。  彼らがリフトを降りると、先ほどまで一緒にガートフィールド家に同行していた制服警官の一人が、ハワードを見つけて駆け寄ってくる。 「どうした?」  慌てた様子の彼にハワードが尋ねると「ロード・ウィンボーンが弁護士と共に会議室で待っています。レディ・ガートフィールドは付き添いの看護士と共に、隣の取調室に入って貰ってるところですが……」と早口で答えた。 「そうか、分かった。弁護士にすぐに部屋に入って貰って、婆さんの取り調べを始めるとするか。悪いけど、ロード・ウィンボーンの相手はお前に任せてもいいか? それと、弁護士に取調室へ来るよう伝えてくれ」  ハワードがそう言うと、リチャードは戸惑った表情を浮かべたが、あくまでもこの事件の主権捜査権は特捜が握っており、自分はハワードの指示に従うしかないのだ、と気付いて了承した。 ――まさかこんなに早く、彼に会う機会が訪れるなんて……  リチャードは内心の緊張を、どう隠したら良いのか考えあぐねていた。このままロード・ウィンボーンに面会して、彼が実の父親であると、すでに知っているのを悟られないよう、態度を上手く誤魔化せるのだろうか。  ハワードはすぐに、制服警官と共に取調室へ入っていった。  リチャードとレイは5階フロアの一角にある取調室の隣にある会議室へ、ドアをノックして入る。  それほど広くない会議室に、二人の初老の男性が座って待っていた。一人は白髪交じりのブルネットの髪をセットし、濃紺のスーツをきっちりと着た硬い表情の男性で、その隣のもう一人の男性は、どこか優しげな表情が印象的な、茶色の髪を綺麗に撫で付け、ダークグレーのスーツを上品に着こなす人だった。  リチャードは目の前に座る優しげな眼差しの男性を見て、一瞬息が止る。 ――この人が父さん……  見覚えがあった。  あの雨の日、目が覚めると隣で寝ていた筈の母がいなかった。ベッドを這い出て、階下まで降りていくと、部屋から声がしていた。そっとドアの陰から覗いた時に見えたのは、背がすらりと高く、茶色の髪を綺麗に撫で付けた男性だった。優しそうな瞳が印象的で、こんな人が自分の父親だったら良かったのに、と子供心に思ったのだ。  雨音と柔らかなトーンの優しい声。  雨が降る日はいつも彼を思い出して、父親がいない寂しさを紛らわせていた。  そして雨のそぼ降る墓地で、遠くから母が葬られるのを見届けていたのも、この人だった。  傘を目深にさしていたが、ちらりと見えたあの眼差しは間違いなく、この人のものだった。あの頃に比べれば年齢を重ねていたが、長い年月が過ぎようとも、決して忘れることはない顔だった。  リチャードはたった数秒の間に、過去の自分の記憶が次々と蘇ってきて、一体どんな顔でこの人と話をしたらいいのだろう、と困惑した。その様子に気付いたレイがリチャードの腕に触れる。その瞬間、リチャードの迷う気持ちが霧散する。 ――大丈夫だ。何とかなる。  リチャードは、レイが側にいてくれることを心強く思った。  黙ったままのリチャードを見て、弁護士の男性が立ち上がる。 「私はガートフィールド家の顧問弁護士を務めています、ベン・リックフォードです。こちらはロード・ウィンボーン。一体どういう状況なのか、ご説明願えますか?」  事務的な一本調子の口調を聞いて、リチャードの意識が仕事へ戻る。プライベートに振り回されている場合ではない。 「失礼しました。私はこの事件を担当していますジョーンズ警部補です。今回、レディ・マーゴ・ガートフィールドにこちらにお越し願ったのは、先日起きたベイカーアンティーク店の店主、マルコム・ベイカー氏殴打事件の容疑者として、お話を伺うためです」 「傷害事件の容疑者ですって? レディ・ガートフィールドが? それは本当なのですか? まさか……彼女は痴呆症でベッドから動けない筈では?」  リチャードの言葉がとても信じられない、とばかりに弁護士は一気に捲し立てる。だがその隣でロード・ウィンボーンは冷静にこう言い放った。 「ベン、あの人ならやりかねないよ。自分の思い通りにならなければ、すぐに手を出す人だった。病気だろうが何だろうが、自分がやろうと思えば、動かない筈の岩でも動かすような人だ。昔から何も変わっちゃいない。こちらの刑事さんがそう仰るのだから、間違いないだろう」 「ロード・ウィンボーン、本気で言ってるんですか?」  弁護士は驚いた顔で、隣の雇い主を見る。 「本気だよ。きみは母が罪を認めた上で、出来るだけ罪状が軽くて済むように心配りをしてくれれば、それでいい。下手に罪を言い逃れするようなみっともない真似だけはさせないようにしてくれ」 「ロード・ウィンボーン……」  ロード・ウィンボーンの強い口調に、弁護士は顔を青くして黙り込んでしまった。 「母は昔から気性の荒い性格で、自分が気に入らないことがあると、何でも自分の思った通りにしなければ気が済まない人でした。今回の件もきっとそういう事情でしょう。……被害者の方はご無事なのでしょうか?」 「……まだ意識が戻りませんが、多分間もなく意識が回復するのでは、と医師は言っていました」 「そうですか。それは不幸中の幸いだ。少なくとも殺人犯になった訳じゃない。そうだろう、ベン」 「は、はあ……」  ロード・ウィンボーンの言葉に、すっかりやる気を削がれてしまった弁護士は、力なく同意する。  その時リチャードの後ろのドアがこんこん、と軽くノックされた。レイがリチャードの代りにドアを少しだけ開く。ドアの向こう側に、先ほど取調室へハワードと共に入って行った制服警官が立っていた。 「……レディ・ガートフィールドが自供しました。ベイカー氏を殴打したのは自分だと。弁護士が同席していないので、正式な証言になりませんが。フォークナー巡査部長が取り調べを始めたいので、今すぐ弁護士に同席して欲しいそうです」 「分かりました、伝えます」  レイは言うと、ドアをそっと閉め、リチャードに制服警官からの言伝を耳打ちする。リチャードは頷いて弁護士の方を向く。 「……リックフォードさん、レディ・ガートフィールドが事件の自供をしたそうです。これから正式に取り調べを行うので、すぐに同席して頂けますか?」 「本当ですか……? そんな馬鹿な」  弁護士は信じられない、という表情で問い返す。それを隣のロード・ウィンボーンは制して言った。 「あの人も最後は潔く自分の負けを認めたようですね。これ以上言い逃れして家名を汚すよりは、自供して罪を償ってくれた方が、余程ガートフィールド家の為になるということに気付いてくれたようで安心しました」 「あの……それでは」  リチャードが言葉を継ぐ前に、諦め顔の弁護士が立ち上がって悔し紛れに言う。 「弁護士が、同席しない取り調べは違法ですよ。分かってるんでしょうね?」  これ以上この部屋には居たくもない、といった態度で彼はリチャードを睨み付けた。依頼人である筈のロード・ガートフィールドに、最初から争う姿勢が全くないのも彼には不服だった。苛立ったような様子で、弁護士は椅子の脇に置いていた書類鞄を手に取ると、急ぎ足で会議室を出て行った。

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