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第4話
ベッドに横になって、柴田は目を開けてすぐそこの壁を見ていた。意識が遠のくみたいな眠気が確かにさっきまであったはずなのに、中途半端にソファーでうとうとしていたせいか、今はそれが微塵も感じられない。疲れていても眠れない時は時々あったが、柴田はそれを今まで気にしていたことはなかった。部屋の向こうで一定鳴っていたシャワーの水音が消えたのを、ぼんやりしながら聞いている。頭は確かにぼんやりして眠る準備をしている癖に、なんだか変な気がした。
(明日の仕事のことを考えないで良い、ちょっとほっとしてる・・・)
今までそんなことを考えることはなかったのに、考えながら柴田はせめて目を瞑って眠る真似をした。部屋の向こうで逢坂の足音がしている。視界を閉じると聴覚が過敏になってその音を追いかけようとしてしまう、無意識的に。するとガチリと寝室の扉が開く音がした。柴田は眠る真似をしていたのを忘れて、目を開けた。そこにはただ人工の暗闇ばかりある。
「侑史くん、もう寝た?」
そうやって逢坂が柴田の背中に向かって尋ねるのはいつものことだった、眠ってないよと返事をしようかと思って、柴田はもう一度目を閉じた。眠ったふりをしていたことを、そこでようやく思い出したからだ。すると背中越しに、逢坂がベッドに入ってくる気配がした。ややあって逢坂の手がぐるりと回されて、柴田の腹の上をTシャツの上からゆるゆると撫でる。起きているのがばれているのかと、それを感じながら柴田はゆっくり目を開けた。相変わらず目の前には暗がりばかりある。
「おやすみ、侑史くん」
しかし逢坂は背中を向けた柴田が、目が開いていることには気付かない。うなじにキスをして低くそう呟くのが、耳の傍で聞こえる。
「しずか」
柴田は逢坂に背を向けた格好のまま、ふっと名前を呼んだ。体の上に乗った逢坂の腕がびくりと跳ねる。意地悪するのをやめて体の向きを変えて、逢坂を見るとそこで逢坂は目を丸くして柴田のことを見ていた。眠っていたと思っていたらしい。
「なに、起きてたの」
「うん、なんかうとうとしてたら寝られなくなった」
「なにそれ」
口角を上げて笑って、逢坂は動物がすり寄るみたいに顔を寄せると、そのまま軽く唇にキスをした。ぼんやりしながら柴田は逢坂の顔を見ていて、その瞳がとろけているのを察知する。逢坂は眠たいのだろう。柴田が寝ると言って、もうそういうことをするスイッチも彼の中にはないのかもしれない。考える柴田の小さい顎を伝って、逢坂の唇が喉に降りる。
「なぁ、しずか」
「なに?あ、だめ?」
「・・・別に駄目じゃないけど」
何の了解を取っているのだろう、眠たいくせにと思いながら、柴田はまた動物みたいにすり寄ってくる逢坂の髪の毛を撫でた。今度はちゃんと触れて少しだけ安心した。逢坂の舌が遠慮なく鎖骨を舐めては吸い、そこにまだらに跡を残そうとする。
「侑史くんまたちょっと痩せた?あんまり顔色良くないね、最近」
「・・・んー・・・そうかな、仕事、忙しくて」
「ほんと仕事好きだな侑史くんは!嫉妬しちゃう」
ふざけた調子で逢坂がそう言って笑うのに、柴田は少しだけ目を細めた。
「・・・しずか」
「なに?」
「俺さ、4月から副所長になったんだ」
「・・・へぇ、それって偉くなったってこと?すごいじゃん、侑史くん。さすがだね」
にこっと笑って逢坂がそう言うのに、柴田は少しだけ胸が痛かった。それはそういう純粋な喜びの形をしているわけではなかったからだ。事務所には真中と一緒に今の事務所を立ち上げた創設時からのメンバーも居り、勿論柴田より年もキャリアも上の人間もいた。真中が柴田を買っていることは、周知の事実であったが、やはりこうして人事として明らかになると、それを良く思わない人間もいた。大人同士の付き合いの中で、それをあからさまに態度に出されたりすることは、今までなかったが、何となく柴田は真中がくれた副所長の椅子も肩書きも、少しだけ煩わしいと思った。真中が認めてくれたことに対してこんなにネガティブな受け入れしかできないことははじめてで、それには少し戸惑っている。
「ありがとう、でも」
「ん?」
「なんかちょっと、荷が重くて。最近ちょっと、仕事行くの嫌だなとか、思ったりするんだ」
暗がりの中で逢坂の黒目が小さく揺れた。こんなこと言われたって、逢坂が困るのは分かっていた。でもその時柴田はそれを逢坂に言いたくて堪らなかった。その時、聞いて欲しくて堪らなかった。そうやって誰かに弱みを吐露する自分のことを、やったことがないから上手く思い描けなかったけれど、思ったより簡単だったし、逢坂ならば何も言わずに抱きしめてくれるだろうことは織り込み済みだったかもしれない。柴田は手を伸ばしてそれを逢坂の首に引っかけると、ぎゅっと正面から抱きしめた。
「でも今日、しずかの顔見たらほっとした」
他に言うべきことがあったような気がしたけれど、柴田はそれが精一杯だった。するりと腕の力を抜くと、逢坂は黙って柴田の目を正面から見て、それから実にスムーズな動作で唇に再度キスをした。そうして至近距離で笑うと、今度は逢坂が柴田のことをぎゅっと抱きしめた。
「うれしい」
「・・・うん」
「侑史くん仕事の話、あんまり俺にしてくれないから、俺もよく分かんないし心配することしかできないけど」
抱き締められた格好のまま、逢坂が耳元で話すのを柴田はぼんやりしながら聞いていた。いつの間にか眠気が回帰してきたような気がする。見える暗がりが歪んで見える。
(でもちょっと怖い)
(俺の生活にしずかがいいることが普通になってる)
(いなくなったらどうなるんだろう、怖い、な)
年上だし社会人だし、逢坂よりしっかりしていなければいけなかったし、余裕が必要だったし、格好もつけたかった。そんなことに意味がなくても、見栄を張りたかったし、依存しているなんてまっぴらごめんだった。若い男の匂いを鼻から吸い込んで、柴田は眠たい頭で逢坂の次第に深くなるキスに応えた。いつまでこうしているのだろう、どうしているのが普通なのだろう、もうよく分からない。
「好きだよ、侑史くん」
喉に引っかかって何も出てこない。
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