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第5話

相変わらず仕事は忙しかったし、冷たい視線に晒されたりもして、柴田の疲弊はなかなか影を潜めなかった、事務所では若手に柴さん大丈夫ですかと声をかけられることが増えて、そんな風に誰かに心配されることに慣れていない柴田は、それに何と答えたらいいのか分からなくて、また無駄に虚勢を張ったりした。逢坂は相変わらず柴田を一定の調子で心配して、時々電話をかけてきて、週末には当然みたいに家に上がり込んでいた。電話を待っていたり、家に帰った時に電気がついていたりすることに、柴田は緩々と癒されながら、それに少しの背徳を感じていた。こんな風に毎日を過ごすことにも慣れて、仕事の変容にも誰かの陰口にも慣れて、ひとつひとつ慣れていくうちにそれが日常になっていくのは分かっていた。だけどこれをそのまま日常にすり替えて良いのか分からずに、なんとなく自分を温めてくれる存在から意識的に距離を取りたいような気がしている。 その日は、逢坂がバーでバイトをしている日だった。午後から訪問予定だったクライエントの予定が変わり、急遽午後の予定がキャンセルになった柴田は、久々に仕事を早めに切り上げて、バーに向かっていた。そういえばそこに行くのは、柴田の仕事が立て込んでいたこともあったが、随分久しぶりだった。職場を出たところで逢坂には連絡を入れたが、逢坂は多分仕事中だから、携帯電話は見られないだろうことは何となく分かっていた。相変わらずそこは中も薄暗くて、静かなBGMが店内に流れている。いつ来ても客はまばらで余り流行っている風でもないところが、何となく柴田は気に入っている。 「いらっしゃい、柴田さん、どうぞ」 「こんばんは」 何度か来ているせいでマスターとは顔なじみになってしまい、その時もひとりでやって来た柴田に、カウンターの中でグラスを磨いていたマスターは、手の動きだけで柴田をカウンターの席に案内した。柴田がマスターと何でもない話をしているのを、逢坂に見つかった時、その時も逢坂は『侑史くん、店の人と仲良くなるのやっぱり得意だよね』と口を尖らせて言っていた。 「逢坂くん、呼んでこようか」 「いや、いいです。今日仕事でイレギュラーがあって、早く終わって来たから、しずかは知らなくて」 「ふーん、それで逢坂くんに会いに来たの、まったく彼は羨ましいくらい愛されてるなぁ」 「そんな、はは、違いますよ」 思わず柴田が笑うと、マスターも口の端っこを上げて微笑んだ。そんなことじゃない、多分そんなことじゃないのだ。確かに家に帰って眠っても良かったのかもしれないけれど。考えながらマスターの出してくれたグレープフルーツベースの透明なカクテルを飲んだ。逢坂が言ったのか、それとも柴田が酔っぱらった時に言ったのか、切欠が一体何だったか忘れたがマスターは柴田と逢坂が付き合っていることを知っている。柴田がおそらくそんなに頻繁には来ないことも要因の一つなのだろうが、柴田が来るとマスターは逢坂が柴田相手にしか仕事をしなくなることを、ある程度は容認して黙認している。 「あれ、侑史くん」 不意に逢坂の声が聞こえて振り返ると、空になったグラスを幾つか手に持った逢坂が、こちらに近づいてくるのと目が合った。 「おう」 「どうしたの、今日来るって言ってた?」 「いや、仕事早く終わったから」 カウンターの中でマスターは逢坂に柴田の前の場所を譲るみたいにひらりと半身になり、逢坂とすれ違う時にその肩をぽんぽんと叩いた。何となくそれを目の端で捉えながら、柴田は気恥ずかしいような気になる。ここで働きはじめた頃の逢坂の髪は長くて金色で、それを汚らしくないように後ろでひとつにまとめていたが、髪の毛を短くした今はその必要はない。柴田はやっぱり何度見ても、それが惜しかったなと思ってしまう。本人にもいつか言ったけれど、やっぱりあの肩にかかるくらいの金髪が柴田は好きだった。 「そうなんだ、びっくりした」 そう言ってバーカウンターのオレンジ色の光の中で、逢坂はにこっと笑った。それを見て柴田は少しほっとする。いつも分かりやすく愛情表現をする逢坂だって、いつでも柴田に会いたいわけではなくて、会いたいタイミングも時間もあって、ひとりの時間も友達といる時間だってきっと大切にしているし、大切にすべきだと思っていた。それは柴田が他の何かを大切にするみたいに。自分のことを一番優先にされるのは、くすぐったい以外の何かの理由で、余り乗り気にはなれない。 「もう出してもらったの、お酒」 「うん、グレープフルーツのやつ」 「お酒飲んでて大丈夫?侑史くん車でしょ」 「うん、まぁ」 曖昧に頷いて笑った。帰りのことをあんまり考えずに来てしまった。すると逢坂は片方の口角をきゅっと引き上げて、少しだけ悪い顔をした。 「乗って帰ってあげてもいいよ」 「どうすっかなぁ、お前運転下手くそだもんな」 「下手じゃないってー、俺だっていつもバイクなんだもん」 「逢坂くん、ごめん」 唇を尖らせて逢坂がそう言った時、ホールの奥からマスターの声がして、逢坂はそれにぱっと反応して返事をした。柴田はそれを追いかけないように、意識的に注意して目の前のカクテルを飲んだ。今の時間帯、客が少ないと言えど、スタッフもマスターと逢坂とあともうひとり若そうなバイトの男の子だけだった。柴田が来ている時は、逢坂は特別扱いをされているが、勿論、仕事が入ればそれに呼ばれて出て行く。その間柴田はぼんやりとカウンターで誰かと話すわけでもなく、お酒を飲むしかないので、もともとそんなにお酒が強い方ではない柴田は、結果的に帰るころには車を運転できる状態ではなくなっているどころか、タクシーに乗って住所を言えるかどうかも怪しいくらい出来上がってしまっている。 「あ、はーい。侑史くん、ごめんね。ちょっと待ってて、一緒にかえろ」 「・・・おう」 そうして肝心なことを全て逢坂に言わせてしまっていいのだろうかと考えながら、カウンターから出て行く逢坂の背中を目で追いかけるのはやめた。 「すみません」 そして目の前のカクテルに手を伸ばした時、後ろからそう呼びかけられて、柴田は反射的に振り返った。そこにはふわふわの茶色のロングヘアーの女の子が立っていた。黒いワンピースは体のラインがくっきりと分かる仕様で、それは彼女の自信と誇りを同時に示しているみたいに見えた。若くて美人だったが、その表情は暗く曇っていた。手には柴田と同じような透明のカクテルが握られている。知らない、と思ったが、もしかしたら忘れているだけなのかもしれないと思って、柴田は頭をフル回転させたが、やっぱり覚えがない。これだけ美人だったら流石に一回会ったくらいでも覚えているだろうと思ったが。 「・・・俺?」 「柴田さん・・・ですよね」 「え、あー・・・そうだけど、ごめん、どこかで・・・」 仕事関係の知り合いだったら嫌だなと思ったけれど、それにしては若すぎた。柴田が言い淀みながらそう言いかけた時、彼女の眉間に皺が寄って、そして彼女は持っているカクテルを柴田目がけて投げるようにした。思わず目を瞑るようにしたのと皮膚の表面がカクテルの冷たさを感知するのがほとんど一緒だった。

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