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第6話
「・・・え?」
ぽたりと前髪から甘い雫が落ちた。相変わらず、目の前の美人はこちらを睨むような目で見ている。カクテルをぶっかけられたのは柴田なのに、まるでそれでは自分の方が被害者みたいだ。柴田は混乱しながら考えた。このあからさまな感情は怒りで間違いないと思うけれど、名前も分からない若い女の子にこんな風に怒りを向けられる理由を、柴田は知らない。混乱しながら精一杯冷静になろうと努めている柴田の前髪から、また甘い雫がぽたりと落ちた。それが膝の上に落ちて冷たい。
「どういうつもりで付き合ってるのよ」
「・・・え?」
彼女は両手を握りしめて、柴田を睨みつけるようにしてそう言った。
「馬鹿みたい、嘘だと思ったのに!どういうつもりで付き合ってるのよ!しずかをホモにしないで!」
「・・・しずか・・・?」
彼女が放った言葉は何も分からなかったが、それだけは柴田も理解できた。逢坂の知り合いなのだとしたら、彼女の若さも頷ける。
「サエ!?」
柴田が困惑していると店の奥から逢坂が走ってくる姿が見えて、柴田はほっとした。逢坂がぱっと柴田を見やる。柴田がびしょ濡れになっているのを察知して、逢坂の表情が一瞬強張る。しかし逢坂は、何故柴田がそんな風になっているのか分からない。逢坂は突っ立って柴田を睨みつけているサエの隣を通り過ぎ、柴田が座っているカウンターまで近づいて来た。柴田は逢坂と彼女の表情を交互に見ていたが、あからさまに怒りを向ける彼女の火が、逢坂がやって来たことでまた一層燃え上がったような気がした。それに気付かない逢坂は、テーブルに置いてあったおしぼりを掴んで、柴田の頬を拭いた。
「侑史くん?なんで、そんな濡れて」
「いや、大丈夫、ちょっと零して」
「零してって、そんな、だって頭から濡れて・・・」
はっとしたように逢坂がくるりとサエに向き直るのに、柴田は嫌な予感がして慌てて逢坂の腕を掴んだ。それを見ているサエの目がどんどん曇っていく。
「サエ、お前、これお前がやったのかよ」
「・・・しずか、本当なの。アンタその男と付き合ってるの」
彼女はそこを微動にせず、逢坂の視線から逃れる方法も選ばず、低い声で逢坂の問いに対する返事とは全く違うことを言った。答える気などないようだった。強くて怖い目だと柴田は思った。ホモにしないでと彼女が叫ぶように呻くように言ったことを、柴田は思い出して焦った。掴んでいた逢坂の腕が動いて、はっとして柴田はもう一度逢坂の腕を強く掴んだ。女の子相手にまさか柴田が想像しているようなことはしないと思っているが、何だか柴田は怖くて掴んだ腕を離すことが出来なかった。
「悪い?別にお前にそんなこと関係ないだろ」
その時、逢坂の後ろでそれを見ていた柴田は、頭から被ったカクテルの冷たさとは全く別のところで、鳥肌が立った。逢坂のそんな冷たい声ははじめて聞いた。それが自分に向けられたものではないと分かっているのに、柴田はそれに震えて口の中がみるみる渇いていくのが分かった。しかしそれを向けられているサエは相変わらずこちらを睨むような目のまま、表情を崩そうとしなかった。
「大体何なんだよ、こんなところまで押しかけてきて侑史くんに迷惑かけて。お前、自分のやってること分かってんのかよ。こんな非常識なこと」
「やめろ、しずか」
堪らずに柴田は逢坂の腕を引いた。逢坂がぱっと振り返るのと目が合う。困ったような顔をしている逢坂は、柴田の良く知っている逢坂だった、ほっとした。
「でも、侑史くん」
「女の子相手に、やめろ。そんな酷いこと」
怒られた犬みたいにしゅんとする逢坂をそこに置いて、柴田はスツールから降りるとサエの方に近づいた。睨むような目で見ていた彼女はいつの間にか俯いていて、その表情は窺い知れなかった。彼女が握っているカクテルのグラスを掴んで引くと、サエは呆気なくそれを手放した。
「君、しずかの知り合いなのか?大丈夫?」
「・・・侑史くん、いいってもう。サエ、お前何しに来たか知らないけど帰れよ、店にも迷惑だ」
「だから、やめろ、しず。何でお前はそんな言い方しかできないんだ」
「だって・・・」
逢坂が一瞬何かを言い淀んだ時、サエの肩が柴田の目の前で揺れた。ひくりと揺れて、ゆっくりサエは顔を上げた。先程までそこに確かな怒りが張り付いていたとは思えないほど、その美しい顔は悲痛に歪められていて、柴田は吃驚してしまった。
「だ、だいじょうぶ、か・・・?」
「・・・なん、で、そんな、おこって、ん・・・」
彼女は肩をひくりと再度揺らして、そして茶色の瞳からぼろぼろと涙を零しはじめた。柴田はそれにまた吃驚して、助けを求めるつもりで逢坂を見やったが、カウンターに凭れるように立っている逢坂は、腕を前で組んで、冷たい目をして泣き出すサエを見ていた。まるで映画かテレビでも見るみたいな素振りに、逢坂はもうこの場所から退いていて自分とは無関係の事と思っているのだと柴田は思って、またそんな風に単純に割り切ることのできる逢坂のことが怖くなった。
「何泣いてんだよ、分かったよ、タクシー呼んでやるからさっさと帰れよ」
「ま、ってよ、ねぇ、だって、しずかが、電話もメールも、無視するから、じゃない・・・」
「あーそうですか、なに、結局俺のせいなのかよ」
「しずか!」
眉間に皺を寄せた逢坂がそう吐き捨てるのを見て、柴田はまた堪らなくなって叫んでいた。びくりと逢坂ははっとしたように柴田の方に視線をやった。その顔はいつもの逢坂の顔だったけれど、柴田はそれがまた冷たく歪むのかと気が気ではなかった。何故か逢坂の吐いた言葉全てが、サエではなくて自分に向けられているみたいで、堪らなかった。逢坂の声を聞いているのが、こんなにも苦痛だと思ったことはなかった。叫んでその場の時間を止めた柴田は、酷く青い顔をして、腕の震えを自分では押さえられないほど、切羽詰った様相だった。でもどうして柴田がそんな顔をしているのか、逢坂には分からない。
「・・・侑史くんどうしたの、顔色悪いよ、寒い?風邪ひいたんじゃ・・・」
「やめろって言ってるだろ。お前、そんな」
「いや、だって、侑史くん・・・」
逢坂がまた何か言いかけてやめるのを、柴田は見ていた。その続きの言葉は一体何だったのだろう。逢坂がそうして言い淀んでいたことを結局柴田は知ることが出来ない。そうして、自分の目の前に庇うように立つ柴田のことを、サエは大粒の涙をぼろぼろと零しながら、実に冷静な眼差しで見ていた。
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