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第8話

「なにやってんの」 後ろからそう低い声がして、柴田ははっとして振り返った。するといつの間にか、後部座席の扉は開かれており、逢坂がその扉に手をかけて立っていた。夜になると冷たい春の風が、振り返った柴田の熱くなった頬を撫でていった。服は制服から、私服のパーカーに着替えられている。いつから逢坂がそこでそうしていたのか分からないが、全く柴田は気づかなかった。こちらを見下ろす逢坂の眉は不機嫌そうに顰められており、柴田は一瞬何故逢坂がそんなに機嫌が悪いのか分からなかったが、右半身の妙な温もりに気付いて見やると、そこにはサエが甘えるみたいに張り付いたままだった。 「サエ、ほんとに俺、怒るぞ」 「いや、しずか、待て」 「やだ、こわーい」 「うるさい!侑史くんから離れろ!」 もう一度待てと言った柴田の声を簡単に遮って、逢坂は手を伸ばすと柴田の腕を掴んで後部座席から引きずり出そうとした。乱暴な動作に、自分でも情けないとは思っているが、非力な柴田は購えない。逢坂が本気を出して力でどうにかしようとすると、もう全く歯が立たないのは過去の経験でよく分かっているつもりだった。柴田の諦めも手伝って、半分くらい無理矢理後部座席から引き摺り出されると、右の腕に絡まったままのサエが、そんなに力は入っていないが、急にぐいと柴田を引っ張った。それを見てまた逢坂が苛々しているのが、読み取れて、何故彼女がそんなことをしたのか分からないが、余計なことはしてくれるなと、すっかり疲弊した柴田は思う。仕方なく柴田は逢坂に従って、一旦後部座席から降りた。 「しずか、落ち着け、何にもしてないだろ、ただ話してただけで」 「そんなにくっつく必要ある?大体俺、タクシー乗せて帰らせろって言ったよね?」 「そんな、こんな夜中に、可哀想だろ、ひとりで」 「柴田さん優しい、逢坂と違って」 「うるさい、お前・・・!」 ふたりのやりとりを後部座席に座ったまま見つめるサエは呑気なもので、さっきまで大粒の涙を零していたとは思えないほど、けろりとした顔で逢坂のことをからかうように言うと、ふふっとまた笑った。何故そんなに簡単に当事者ではなくなることができるのか、柴田には分からない。苛々のおさまらない逢坂の肩をせめて叩いて宥めると、柴田はポケットから車の鍵を渡した。逢坂はそれを素直に受け取ったが、まだ納得のいっていない顔をして、運転席まで行く素振りがない。 「しず。運転する時は落ち着いて、な」 「・・・分かってるよ」 できるだけにこやかに笑ったつもりだったが、逢坂は眉を顰めて取り繕う柴田を見ると、苦い顔をしてそう呟いた。取り繕うとしているのがばれているのかもしれない。そうして柴田がいつものように後部座席に戻ろうとすると、後ろからまた強い力で腕を引かれた。まだ拗ねているのかと若干呆れながら思って、柴田が振り向くとそのまま逢坂にキスをされた。突然のことに吃驚した柴田は、逢坂の肩を押して距離を取った。多分柴田の力なんて、逢坂の前ではほとんど意味をなしていなかったが、その時逢坂はあっさりと柴田の力に押し負けて、結果的に柴田の思惑通り離れた。離れた逢坂の唇が、自分の唾液で光っているのを見て、またかっと頭に血が上ったような気がした。柴田は慌てて唇を手の甲で拭った。 「なにやってんだよ、お前!」 「・・・」 「外でこういうことするなって、いつも言ってる」 「そうだったね、ごめん」 全く悪びれる様子なく、逢坂は吐き捨てるみたいに謝ると、車の鍵を手の中で一度くるりと回して、やっと運転席の方に向かった。そんな謝罪に何の意味もないことを、きっと逢坂は分かっている。その背中を見ながら柴田は小さく溜め息を吐いた。逢坂があることないことを想像して、苛立っているのは分かっていたけれど、それをどうしてやればいいのか柴田には分からなかった。だって柴田にしてみれば、逢坂の考えていることなんて、考えすぎの域を決して脱しない子どもの悪い想像でしかなかったからだ。けれどそうして放置しておいて、真中の時は変に捻じ曲がって、結局それでお互い傷つくことになってしまったから、同じ轍は二度踏まないようにしなければならないことは分かっていた、けれど。 (なんていうか、そういうとこ、全然かわいくない、しずか) 逢坂は肯定的な感情を、実に気持ち良く伝えてくる術を持っている癖に、そういうネガティブな感情の操作が、圧倒的に苦手だった。どうすれば良いか分からなくて、結局力で持って柴田を捻じ伏せようとするのも全部、はじめの関係性の延長という悪い副産物でしかないことも何となく分かっている。逢坂は多少乱暴に扱ったって、柴田が壊れないくらい丈夫にできているのを知ってしまっているのだ、それは怖いことだなと思ったけれど、今更どうすればいいのか分からない。実際にサエみたいなか弱い女の子ではない自分は、幾ら痩せていても非力であっても、男である以上、やっぱり頑丈で丈夫にできているのだ。柴田はひとつ溜め息を吐いた後、後部座席に戻って扉を閉めた。若干視線を下げた運転席の逢坂は、運転席でまるでルーティンをなぞる機械みたいな動作で、フーガにエンジンをかけた。何にも考えないようにしているのか、それとも別のことを考えているのか、柴田はそれを悲しい気持ちで見つめることを止めることが出来ない。 「ほんとに付き合ってるのね」 「え?あー・・・ごめん、変なもの見せて」 にこにこ笑ってサエが何故か小声で話すのに、柴田ははっとしてせめて口角は上げておいた。多分さっきのキスは彼女に見せるためのパフォーマンスにしか過ぎなかったのだろうけれど、そんなことに良いように使われるのは良い気がしなかった。 「別に変じゃないよ、柴田さん」 「・・・―――」 ふふっとサエは何でもないかのように笑った。店の中で柴田を『ホモ』と罵ったのと同じ女の子には見えなくて、柴田はそれに何と返したらいいのか分からずに黙っていた。サエはぼんやりと東京の夜が消えていく窓の外に目をやったまま、その横顔はやはり美しく整っていて、さっきまで大粒の涙を零していたのに、そんなことまるでなかったみたいに跡すら残っていない。それが彼女の武器である若さということなのだろうか、考えながら柴田は運転席の逢坂を見やった。自分たちの会話が聞こえているのかいないのか、逢坂は黙ってハンドルを握っている。その肩から腕のラインを服の上から目でなぞりながら、彼女と同じものを逢坂も持っているのだと思うと、何だか居た堪れないような気がした。ふっと視線を反らして、柴田も窓の外を見やると、シートの端に爪を立てていた柴田の右手の上に、そっと何かが乗った。 「・・・?」 ふっとそちらに視線をやると、サエの手が我が物顔して柴田の手を上から包んでいた。白くて華奢なそれは女の子の手だった。ちらりと彼女の顔に視線を移すと、相変わらずサエは窓の外をぼんやりと眺めている。何も言わないのは逢坂にそれを勘付かせないようにするためか、それとも他に理由があるのだろうか。柴田はその手を振り払っても良かったし、もっと丁寧にそこから抜け出して手を自分の所有に戻しても良かった。きっと運転する逢坂の為に、逢坂の無意味な想像をかき消すためにそうしたほうが良かったのかもしれなかったけれど、柴田はその時どちらも選ばないで、まるでそんなこと気付かなかったみたいに、そのままサエの手の下に置いておいた。それが逢坂の悲しい想像を加速させることになって、それが結果としていつか自分に返ってくることも何となく分かっているつもりだったけれど、柴田はサエのことを逢坂が考えている理由とは全く別の角度で、決して拒むことは出来ないし、邪険にすることすら難しいことを、何となく分かっていた。

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