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第9話

サエをマンションまで送り届けていたせいで、結局酷く遠回りになってしまい、柴田のマンションまで帰ってきた時には12時手前だった。時計を見ながらセーフといつもの癖で頭の中で考える。逢坂はまだ拗ねているのか怒っているのか無口で、何となく嫌な空気だなと思いながら、柴田はマンションの扉を開けて、靴を脱いで廊下の電気を点けた。リビングに入って重たい鞄を投げると、ジャケットを脱いだ。謝るサエには再三大丈夫と言いはしたが、湿ったジャケットからはカクテルの甘い匂いがした。時間が経ってすっかり沁みこんでいて、それはずしりと重たかった。これはクリーニングに出さなければならない。今まで濡れた服を着ていたのが、急に気持ち悪くなってきて、柴田はジャケットをソファーに投げると、下に着ていたシャツも脱いだ。それはジャケットほど濡れてはいなかったが、湿っていて気持ちが悪かった。 「しずか、俺、先風呂入るな」 「・・・うん」 そこで柴田ははじめて振り返って、奇妙なほど黙っている逢坂を見ると、逢坂はリビングに足を踏み入れたままの恰好で、ぼんやりと何か考えるみたいに立っていた。またろくでもないことを考えているのだろうと柴田はその暗い表情を見ながら思った。流石に何かフォローをしておかなければまずいと思って、柴田はソファーに投げたジャケットを拾ってからくるりと逢坂に向き直った。真中の時と同じ轍は二度と踏まないのだ、それが学習ということだ。あんな思いは二度と嫌だし、逢坂にも同じ思いはして欲しくなかった。柴田は逢坂の青くなった唇を思い出して、聞こえないように小さく舌打ちをした。 「サエちゃんって、大学生?お前と同じ大学なの?」 「・・・そだけど、なに」 「いや、かわいい子だったなと思って。お前ら付き合ってたんだろ?お似合いだよ、美男美女でさ・・・」 はははと笑った柴田の声が、リビングの冷えた空気に溶けた。 「侑史くん」 ぱっと顔を上げた逢坂が、切羽詰ったみたいに柴田の名前を呼んで、柴田は笑い声を飲み込んだ。逢坂は依然としてぴりぴりとして苛々している。この空気感が嫌で何とか和ませようとしたのに、柴田のそれは結果的に失敗に終わってしまった。色んなことを考えてそんなに抱え込まなくてもいいのに、笑っているのだから一緒に笑えばいいのにと柴田は思ったが言わなかった。 「・・・なに」 「侑史くんさぁ、今日ずっと、何なの」 「何なのって・・・なんだよ」 「サエの味方ずっとしてたり、べたべたされてデレデレしちゃってさぁ」 「・・・デレデレなんてしてないだろ」 呆れて柴田はそう言ったが、目の周りを赤くして俯く逢坂の勢いを殺すことは出来なかった。まるで今までの沈黙が嘘だったみたいに、コップから水が溢れるみたいに、逢坂はもうどうしようも出来ない感情を、そのまま垂れ流しているみたいだった。 「おまけにそんなこと簡単に言って、俺の気持ちとか考えたことあんの」 「・・・いや・・・」 「幾らなんでもさぁ、デリカシーなさすぎなんじゃないの」 「・・・―――」 店の中で見た逢坂の冷たい視線が頭を過って、柴田はそれに何にも言えなくなってしまった。逢坂にそんなことを言われるなんて思ってなかったので、柴田はそれに素直に頷ける気がしなかった。いつも二人の間で間違っているのは逢坂で、正しいのは柴田のことが多かった。だから逢坂の指摘に柴田はいつもの癖で、もしかしたら変な意地もあったかもしれなくて、簡単に頷けないと思った。頭の悪い妄想に振り回されて、勝手に首を絞めて息が出来なくなっているのは逢坂だったけれど、そうなるのは分かっていたことだったから、だとしたらもっとそうならないためにもっと、出来ることは自分にもあったはずだと思った。濡れたジャケットとシャツを床の上に投げて、柴田は俯いて下唇を噛む逢坂に近づいて行って、その頭をぽんぽんと撫でた。そういえば車中でサエにも同じことをしたことを、柴田は一瞬思い出していた。癪だけれど、これ以上面倒なことにならないように、折れたほうが良いと柴田は頭の中の冷静な部分だけで考えた。そんなことは取り越し苦労なのだと、考えるだけ無駄なことなのだと、逢坂が分かるには他にどうしたら良かったのだろう。 「そうだな、ごめん」 「・・・ほんとに分かってんの」 「分かってるよ、そんな怒るなって」 年下の癖に逢坂の方が、幾分か背は高かった。向き合っているとそれが顕著になるので、柴田はあまり好きではなかった。柴田は逢坂の肩に手を置いて背伸びをするようにして、逢坂にキスをしようとした。すると外ではあんなに強引に柴田の腕を掴んだ逢坂は、それから逃れるような動作で体を捻って、咄嗟に柴田の口を塞ぐみたいに手で覆った。何故逢坂がそんな風に嫌がるのか分からなくて、柴田は口を手で塞がれたまま、それを逢坂に問うみたいに一度ぱちりと瞬きをした。 「そういうことしときゃ、俺の機嫌が良くなると思って」 見つめる柴田から視線を反らして、逢坂はそこで床に向かってそう低く呟いた。正面から柴田を見ることが出来ないのは、それは逢坂も怖いからだ。自分の方が折れてやっているし、いつもはこんなことしないから、これは完全にサービスに違いないのに、それをこんなふうに止められて、少なくとも柴田のプライドは傷ついていた。だが一方で、逢坂のやり方は気に食わなかったが、確かに、と妙に納得してしまう自分もいて、柴田は逢坂のそれにうまく反論できなかった。ゆっくり手が口から外されて、自由になっても柴田は、他に何と言ってやればいいのか、分からなかった。逢坂を肯定する言葉は、それが正しくても多分よくないと思って、だからといって取ってつけたように否定もし辛くて柴田は仕方なく黙っていた。 「ガキくさいのは分かってるんだけど」 「サエもサエだけど侑史くんも侑史くんだ。そんなこと言われて、俺はどうしたらいいんだよ」 俯いて下唇を噛む逢坂のことを、柴田はやっぱり子どもだと思っている。どうしてそんなに見境なく不安になるのか分からない。考えながら柴田はゆっくり逢坂の方にもう一度近寄って、ゆっくり手を伸ばして俯く逢坂の黒い髪の毛を撫でた。また拒否されたら流石に傷つくなと思ったけれど、逢坂はもう柴田の手を嫌がることはしなかった。それを確認すると、柴田は腕を伸ばして逢坂を正面からぎゅっと抱きしめた。逢坂は柴田の腕の中で、ただ俯いたまま、柴田の肩に額を乗せてじっとしていた。その背中をまるで幼子でもあやすように、柴田はぽんぽんと撫でた。そう言うところが駄目なのかもしれないなぁと思いながら、性的接触ではなくて逢坂を慰める方法を、柴田はこれくらいしか知らないし分からない。 (こういう時、好きだとか愛してるとか言えたら、しずかはもうこんなことで悩んだりしなくなるんだろうか) (言う?言えないよなぁ・・・) 抱き締めた逢坂の体は温かくて、ちゃんと生きている温度をしている。それを手放すタイミングをうかがっていることを、逢坂には知られたくないと思っていた。逢坂が自分のことを忌々しげにガキと言ったみたいに、柴田は柴田の尺度で、大人であるという立場でものを考える必要がいつもあった。逢坂相手に余裕があるフリもしていたいし、しっかりもしていなければならなかったし、格好もつけていたかった。そんなことに何の意味があるのか分からなくても、最早癖みたいになったそれを、柴田は今更辞めることが出来ない。自分の方が本当はずっとずっと逢坂を求めていて、欲しているなんてことを、逢坂だけには知られたくないなんてひどい矛盾だった。こうして抱き合っている間に手放す日のことを考えているなんて、それもやっぱりひどい矛盾で、身震いするけれど柴田はそれを考えるのを止めることが出来ないのだ、悲しいけれど。

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