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第10話

翌日、柴田が自室のベッドで目を覚ました時、隣には逢坂がいなかった。逢坂はいつも朝が苦手で、大抵柴田の方が先に起きる。昨日のこともあって、ふっと柴田は眠たい頭の中でぼんやりと嫌な予感がした。いつか喧嘩をした翌日、逢坂が部屋の中から逃げるように姿を消したことを、柴田はまだ鮮明に覚えていた。まだ少し眠たいだるい体を無理に起こして、柴田は寝室の扉を開けてリビングに踏み込んだ。するとキッチンから、逢坂が皿の上に何やら乗せて運んできているのと目が合った。よかった、まだいる、柴田は瞬時にそう思って、ほっとした。逢坂はいきなり柴田が寝室から飛び出してきたのに、少しだけ驚いた顔をしたけれど、お皿をテーブルに置くと、紺色のエプロンで手を拭って柴田の方にいつものようににこにこしながら近づいて来た。柴田はそれを目で追いながら、寝室に眼鏡を置いてきてしまったことを思い出した。 「おはよう、侑史くん」 「・・・おはよう、お前、先に起きてたんだな・・・」 「ん、いないと思った?」 首を竦めて、逢坂はふふふと笑うと、柴田の肩に手を置いて、唇にちゅっと音を立ててキスをした。温かい温度が離れて、柴田はもう一度ほっとした。その逢坂は、いつもの逢坂だった。昨日俯いて、自分のことを忌々しげにガキと罵った逢坂はもういない。 「思ってねぇよ」 「そう?その割に侑史くん、随分慌てたみたいな顔してたよ」 「してない。眼鏡、取ってくる」 「慌ててるんじゃん」 そう言いながら逢坂が笑うのを、柴田は振り返って睨むと、逢坂は笑いを堪えるみたいにしながら、目の前で弁解するみたいに手を振った。いつも通りだった。柴田は寝室に戻るとベッドサイドに置いた眼鏡を取ってそれをかけた。途端に視界が鮮明になる。柴田はそこで乱れた毛布を見ながら考えた。逢坂は一体何時頃目を覚まし、朝食を作りはじめたのだろう。逢坂の眠っていた場所にそっと手をつくと、そこはもうすでにひんやりと体温を失っていた。ひとつ溜め息を吐いて、柴田はベッドから離れてリビングへと戻った。そこにはテーブルの上に朝食をセッティングする逢坂の背中があった。 「・・・なぁ、しずか」 「なに?あ、もうできたから食べよ。侑史くん顔洗ってきて」 「・・・うん」 振り返ってにこにこと笑顔でそう言われて、柴田は言おうと思っていた言葉を飲み込んでしまった。逢坂の言うとおり、洗面所に入って、顔を洗って鏡を見ると、そこにはいつもの自分の顔が映っている。顔色は悪くて目の下にはくっきりと黒いクマがある。近視のせいも相まって、目を顰めて物を見る癖がついていて、概ね目つきは悪い。首は細くて鎖骨は肉がないせいで浮いて見える。柴田は昨日暗がりの中で見た、サエの健康的な白い肌のことや、大きくて茶色い瞳のこと、ほっそりとしていたけれど女性らしい体つきのことを思い出して、ゾッとした。付き合っていたのと、そのピンク色のグロスの塗られた唇は、潤いなんて失うことを知らないみたいな色をして、柴田の前で開閉した。どうして逢坂とサエは別れることになったのだろう、そうして逢坂は今どうして自分なんかと付き合っているのだろう。自分なんかと、考えて柴田はまたゾッとした。 「侑史くん、あのね」 「・・・ん?」 逢坂は朝にサンドイッチを作ることが多い。柴田に野菜をどうしても食べさせたいから、そうしているらしい。今日のドレッシングは新作だよと言われたけれど、柴田には残念ながら違いは分からない。偏食であることは自覚していたし、自覚せざるを得なかったが、逢坂の作ったものはおそらくは多少の義務感もあって、食べることが出来た。逢坂が何か約束事みたいに必ず料理を作ることも、本当はそんなことはしなくていいと思っているのに、柴田が食べると逢坂は凄く満足そうにするので、なんとなく双方辞め時がなくなっているのだろうと思う。それもどうなのだろうと柴田はひとりで思っているのだが。 「あのね、昨日の、さ。ごめんね」 「・・・昨日の?」 向かいの席で逢坂は俯いてそう言った。逢坂のどこか恥ずかしそうな様子に、柴田は一瞬何のことを言っているのか分からずに首を傾げた。 「サエのこと」 「・・・あぁ」 「ごめんね、俺が悪かったんだ。俺がちゃんとサエと話をつけとけばよかっただけの話なのに」 「・・・―――」 そうしてにこやかに話す逢坂を見ながら、柴田は不思議な気持ちになっていた。店の中で冷たい目をしてサエと向き合っていた逢坂の表情が、頭の中を掠める。話をつけておくとは一体どういうことなのだろう。目から大粒の涙を流しているサエが今度は頭を過って、柴田は背筋が寒くなった。どうして自分がこんな想像に頭を悩まされているのか、柴田には分からない。 「ごめんね、もう侑史くんには絶対迷惑かけないし。ちゃんとサエとは話しておくから」 「・・・あぁ」 相槌を打った声が不安定に掠れて、柴田はまた不安になる。逢坂は言いたいこと言ってすっきりしたのか、手に持ったサンドイッチにかぶりついている。柴田は胃の中がすっかり冷えて、何も食べられそうにないと思った。取り敢えず持っていたサンドイッチを皿の上に戻して、コーヒー牛乳を飲んだ。話をするとは、一体何だろう。逢坂はサエと一体どんな話をするつもりなのだろう。黙って俯いてしまった柴田の様子に気づいた逢坂は、ふっと食べる手を止めて柴田の顔を覗き込んだ。酷く青い顔をして、柴田はじっと押し黙っている。そして逢坂が覗き込んでいることにも、全く気付いていない様子だった。 「侑史くん?どうしたの」 「・・・え?」 「なんかぼんやりしてる。聞いてる?俺の話」 「あ、ごめん。聞いてるよ」 今度は声が震えなかった。柴田は皿の上に戻したサンドイッチをもう一度取ると、ちらりと逢坂のほうを見やった。すると逢坂は肘を突いたまま、柴田のことをじっと見ている。 「あー・・・話、ね。優しくしてやれよ、しずか、もっと」 「やさしく?なんで」 「なんでって・・・そりゃサエちゃん女の子だし。昨日のお前、ちょっと酷かったぞ」 「・・・んー・・・分かった。でもなんで侑史くんがそんなこと心配すんの?」 唇を尖らせて、逢坂は子どもみたいに足をぶらぶらさせながら柴田にそう抗議した。足が向かいに座っている柴田の足にぶつかっている。ちらりとテーブルの下を見やると、逢坂は足を伸ばして柴田の膝の上にぺたりと足の裏をくっつけると、それをぐっと曲げて接着面積を広げた。咎めるつもりで逢坂の顔を見ると、その顔は意地悪そうに笑っていた。柴田は仕方なくテーブルの下に手を入れて、逢坂の足をぺちんと叩いた。 「いてっ」 「行儀悪いぞ、しずか」 何でってそんなこと、だって次、逢坂に冷たい目であしらわれるのは自分なのだから。

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