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第11話

柴田を仕事へ送り出した後、朝食の後片付けをして、逢坂はリビングでひとり寛いでいた。大学の単位は3年生まででほぼ取り切っているので、最近は大学に顔を出すことも少ない。それよりもリクルートスーツを着て、企業説明会を回っている方が多いかもしれない。考えながら逢坂は伸びた前髪を弄っていた手を止めた。また切らなければいけない。長い時は余り気にならなかったが、短くすると散髪に行く回数が増えて大変だなと思った。柴田は出会った時から短い髪の毛をしているが、あんまり髪が伸びるスピードが速くないらしく、散髪にそんなに何度も行っているという話は聞いたことがない。 (なんか侑史くんの家にひとりでいるの、変な感じだな・・・) 合鍵を貰う前は、柴田がいる時にしか部屋の中にいることがなかったので、まだ他人の家にひとりでいる感覚に慣れていない。キーチェーンにはバイクの鍵と家の鍵と、それから柴田の家の鍵がついている。恋人に昇格してからは、特にないと不便と思うこともなかったけれど、いざ柴田がそれを手渡してくれた時は嬉しかった。こんな風に家の中にひとりでいてもいいことは、多分柴田に信頼されているということだ、それが逢坂にはとても嬉しかった。またひとつ恋人のステップを上がったような気がした。鍵を見ているだけでにやけてくるのだから重症なのは分かっている。それにキスを落として逢坂はひとりで笑った。 (いつか一緒に住むんだ、コイツはそれまでのつなぎだけど) 未来の話をすると、柴田は少しだけ困った顔をする。そして必ず約束はしてくれない。それが一年先、二年先の事であっても、そうだったらいいなとは言うけれど、それに確信は持っていない。逢坂がムキになって問い詰めると、柴田は困ったように笑って誤魔化そうとする。どうして柴田が確かな言葉をくれないのか、逢坂は本当は少しだけ引っかかっている。 (学校、行こうかな、久々に) 出していないレポートもあったし、サエにも会わなければいけなかった。サエのことを考えると急に憂鬱になって、逢坂は学校に行くのを辞めようかと一瞬思った。しかし大学に行かなければサエにも会うことは出来ない。ちゃんと話をしておくと柴田にはそう言ったけれど、逢坂はサエを目の前にして一体何を話せばいいのか分からない。彼女が一体何の目的で今更逢坂の目の前に現れたか知らない。今更、と逢坂は思った。サエと別れたのはもう一年ほど前の話だ。別れた直後は、彼女から連絡が来ることもあったが、それも暫くするとなくなり、学校に行く用事のなくなった逢坂は、顔を合わせる機会も減り、そんなことをしているうちに忘れていた。サエの顔を見るまで、そんなこと一度も思い出さなかったのだ。 (そういや、あいつ、何しに来たんだっけ・・・) 思い出せない。 大学に着くと、丁度お昼時だったようで、キャンパス内は学生で溢れていた。逢坂も去年まではそこを歩いているだけで知り合いに出会ったものだったが、4年生になって周りの友人たちも出席率を下げているのか、あまり知った顔にはぶつからない。誰か適当に捕まえて、お昼にしようと思っていたが、その適当な誰かも捕まらないので、結局ひとりでカフェテリアでコーヒーを飲んでいる。サエに会うには大学に行くしかないと思ったが、サエも4年生なので大学に用のないひとりになっているかもしれない。ポケットから携帯電話を取り出して、電話帳から名前を探そうと思ったが、何かの折に消してしまったらしく、サエの名前は見当たらなかった。その時は多分、目の前の柴田のことに毎日必死で、こんな風に元カノの連絡先を探す羽目になるなんて、思っていなかっただろう。考えながら逢坂は、椅子に深く腰掛けて溜め息を吐いた。 「閑」 すると不意に名前を呼ばれて、逢坂が首だけ回して振り向くと、そこに同じくコーヒーを持った月森が立っていた。月森は逢坂の視線を捉えると、にこっと笑って逢坂の向かいの空いている椅子を指さした。逢坂はそこに置いていた自分の鞄を取り、自分の椅子の後ろに突っ込んだ。 「びっくりした、閑、学校来てたんだ」 「あぁ、うん。今日たまたま来てて」 「そっかー」 そうして伏し目がちに熱そうにコーヒーを飲む月森の顔を見ていると、ふと何ヶ月か前にサエと会ったと話をしていたことを思い出した。 「そういやさ、心知」 「ん?」 「サエ、とさ。昨日会って。会ってっていうか、なんか急にバイト先に来たんだけど」 「あ、会ったんだー、サエ元気だった?」 にこにこしながら月森が全く悪意のない顔で、首を傾げる。逢坂はそれに次の言葉を言い淀んで、思わず口を手で覆った。ホットコーヒーはまだ熱い。新しいバイトの話は、月森と伊原とコンビニのバイトが一緒だった真野にしかしていないはずだと思った。誰の口からサエに伝わったのか分からないが、伊原も真野も、そんなに交友関係が広くないことは知っている。だから多分悪意なく微笑む月森なのだろうと、粗方予想はついている分、店に来てサエが一体何をして何を言っていたかなんて、言い出しにくかった。月森がサエの奇行とは全くの無関係であることは、勿論分かっていたのだけれど。 「あー・・・うん、元気だった、かな」 「そっか。ちゃんと話はできた?サエ、しずかと話たがってたからさ」 「・・・いや、あんまり話は出来なかった。俺、仕事中だったし」 「あれ、そうなの?ざんねん」 そう言って月森は笑った。やはりその顔には悪意はなかった。勿論だ。月森は悪意なんてものとは、程遠いところにいる。 「なぁ心知。サエってさ、俺と何の話がしたいって言ってたの」 「・・・え?あー・・・俺も内容までは知らないけど」 そうして一旦、月森は言葉を切った。 「でも結局、しずかとやり直したいんじゃないの」 月森の指がテーブルに置いたコーヒーカップをついっとなぞるのを、逢坂はぼんやりと見ていた。やり直したい、本当だろうか。サエとは一年生の時から同じサークルで、付き合ったのは三年生のわずかな期間でしかなかったけれど、ずっと友達をやっていたから良く知っているし、分かっているつもりだった。逢坂の知っているサエは、別れた男を無様に追いかけたりはしないはずだった。本当にそんなことをサエは思って、わざわざひとりでバーまで来たのだろうか。柴田にカクテルをぶっかけて叫んで、そのくせ少し優しくされれば簡単に柴田の腕を掴んで甘えるような声を出して、考えながら逢坂はゾッとした。暗い後部座席の中で白くて細いサエの健康的な腕が、柴田のそれと絡んでいる映像が、一瞬頭を過った。柴田は逢坂が出会った時にはすでに真中のことが好きだったようだが、今まで同性と付き合ったことはないし、その前は彼女がきちんといたようだったし、おそらく基本的にはノーマルの人間なのだ。サエの溢れるような若さと美貌を目の当たりにして、心が動かないでいるという保証はない。柴田は家に帰ってからも執拗にサエのことを心配していたし、逢坂にも優しくするようにと再三釘を刺したのだ。どうしてそんなことを、わざわざ柴田がする必要があったのだろう。 「・・・しずか?どうしたの?」 「あ、ごめん、ちょっと・・・」 不意に黙った逢坂を心配して、月森が首を傾げる。次にコーヒーに手を伸ばした逢坂の手は、震えていた。

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