19 / 36

第19話

遊園地から帰るころには、日が落ちてきて、外の風は涼しいくらいだった。逢坂をまいてきたと笑ったサエは、柴田の前で嘘か本当なのか分からないことを言い放って、その健康的な長い足で立ち上がると、まだベンチに座ってぼんやりしている柴田の方を振り返って、そうしてにこりと微笑んだ。完璧な笑顔だと思った。どの角度から見たら自分が綺麗に笑うことができるのか、知っているそういう顔だと思った。最も、サエくらい美人だったらどんな顔で微笑んでいてもそれはそれなりに絵になるのだろう。 『考えておいて、柴田さん』 彼女は答えを急かすことなく、まるで柴田がそれに同意する選択肢しか持っていないことを知っているみたいな軽やかさと余裕でそう言うと、また痩せた半身を翻して雑踏の中に颯爽と消えて行った。そうしてそこから逢坂を見つけることくらい、簡単なのだろうと、既にサエの姿すら見失った柴田は思った。逢坂は姿の見えなくなったサエのことを探しているだろうか、探していなかったらいいのに、と柴田は何故かひどく投げやりになって思った。もやもやした気持ちを誰かぶつけたいような、ぶつけてはいけないことは分かっているのに、誰かにぶつけて楽になりたいような、そんな気がした。 「侑史くん大丈夫?」 「え、あ」 急に運転席の逢坂に話しかけられて、はっとして運転席を見ると、車はいつの間にか見慣れた駐車場に止まっていた。行きは柴田が運転をしたが、侑史くん顔色悪いからと、帰りは逢坂が運転をしていた。サエとは最寄りの駅で別れ、彼女は酷く満足そうな顔で柴田と逢坂に手を振り、『また行きましょうね』と曖昧なことを言って、逢坂にまた舌打ちをされていた。そうして彼女から物理的に距離を取って冷静になって考えてみると、やっぱりサエの言葉は嘘で自分は痴話喧嘩に巻き込まれているだけのような気がした。 「あ、ごめん。ぼーっとしてた、大丈夫、ありがとう」 「そう?やっぱり今日、疲れたね」 多分逢坂は疲れてなんていなかったが、自分の手前そう言ってくれたのかなと、逢坂がふふふと笑うのを見ながら柴田は思った。逢坂の笑った顔を見て、柴田は何だか安心していた。サエと一緒にいる時は、怒ったような困ったような顔をしていることが多かったからだろうか。フーガの扉を開けて、柴田は駐車場に降りると、逢坂から車の鍵を受け取って、ポケットにしまった。エレベーターを呼び出す柴田の後ろから、逢坂は当然みたいについてくる。エレベーターに乗り込むと、逢坂は後ろから柴田の手を引いて、その指の間に自分の指を絡ませてぎゅっと握った。ずっと日の元に晒されていたからなのか、いつも少しだけ冷たい逢坂の手には珍しく、熱い手のひらだった。逢坂はそういうスキンシップが好きだったから、そういうことをされることは、最早柴田にとっては日常だったけれど、何故かその時いつも以上に恥ずかしいような気がして、柴田は俯いたまま黙っていた。髪の毛の短い柴田は、俯いているとその白いうなじが無防備に晒されている。後ろからそれを見ながら逢坂は、そこが赤く熱を帯びているのに気付いていたけれど、知らないふりをして黙っていた。黙っていたほうが良いような気がした。 エレベーターが柴田の部屋がある階に到着して、すっと先に柴田が下りると逢坂はその指をするりと解いた。ややあって柴田が振り向く。その顔は青白かったが、耳だけは酷く赤かった。柴田の視線に急かされるように、逢坂もエレベーターを降りた。柴田が自分の部屋の鍵を開ける時間が、酷く長くて、酷くもどかしく感じた。柴田の痩せた手首が回ってドアを開けるのに、逢坂は自制の意味も込めてわざとワンテンポ遅らせて、柴田の後に部屋の中に入った。部屋の中は薄暗くてひんやりとしていて、そこで柴田がほっとしたように息を吐いたのが分かった。その痩せた肩を掴むと、柴田は振り向こうとしたけれど、それよりはやく逢坂が動いて後ろから抱き締めてしまったから、逢坂には柴田の表情は見えなかった。 「・・・靴」 ややあって柴田が静かに言った。そして狭そうに逢坂の腕の中で身を捻る。 「靴?」 「靴ぐらい、脱げよ、お前は、ほんとに」 そう言えば、まだ玄関の扉を潜ったところだ。逢坂はスニーカーを履いていた。柴田は自分の靴を中途半端に脱いでいて、逢坂の腕の中で身動ぎしながらそれを脱いで、玄関を脱出した。逢坂は仕方なく腕を緩めて、柴田のことを解放した。そうして逢坂もスニーカーを脱いで部屋に上がる。 「だって侑史くん、欲情してたでしょ」 「・・・は?」 「手、繋いだだけで赤くなってたもん。こことか」 腕を伸ばして柴田のうなじに触れると、柴田は眉間に皺を寄せて逢坂の手を嫌がるみたいに身動ぎした。うなじに回した手で柴田の肩を掴んでぐっと引き寄せると、柴田はろくな抵抗も出来ずに逢坂の手中におさまった。見下ろすとまだ耳は赤い。顔を近づけてそこをべろりと舐めると、柴田は短く声を上げて、逢坂の腕の中で体を小さくした。そういう欲求が少ない柴田も、時々露骨にそういう気持ちになるらしい。それを直接伝えられたことは、まだ何度かしかないけれど。 「しず、か」 「なぁに。疲れてるから、早く眠ったほうが良いよ、侑史くん」 わざとそう言って、善人のように微笑むと、柴田は逢坂のことを見上げたまま、下唇を噛んだ。 「お前、ほんと、ずるい。こんな時だけそういうこと言いやがって」 「だってほんとに、侑史くん顔色も悪いし、早く寝たほうが良いよ。大事な仕事に響いたら大変」 「あ、そ。じゃあもう風呂入って寝る」 眉間に皺を寄せて柴田はそう言い放つと、バスルームの方に大股で歩いて行ってしまった。分かっていたのに火だけつけておいてやっぱりひどかったかなと思ったけれど、柴田の顔色はどう見ても良くなかったし、早く眠ったほうが良いに決まっていた。柴田が疲れているのは殆どいつものことだったが、今日のことでいつもとは違う疲れ方をしているのは見ているだけでよく分かる。そういう風に相手のことを気遣うことが出来るようになってきたことが、逢坂は少しだけ嬉しくて、少しだけ損をした気分になる。セフレの時の方が良かったとか、あの頃に戻りたいとはもう思わないけれど。 (俺、どうしよっかな、ご飯作っても、もう食べないだろうなー) パーカーを脱いで、逢坂はソファーに座ってテレビをつけた。夕方のこの時間はバラエティー番組をやっていることが多い。がちゃがちゃとしたセットの中に、沢山の出演者が座っていて、何やら楽しそうにやり取りしているところだった。 「しずかー」 テレビをぼんやり見ていると、バスルームの中から柴田が呼ぶ声が聞こえて、逢坂はリモコンでテレビを消して立ち上がった。シャンプーかリンスでも切れたのだろうか、なかったら買いに行かなきゃいけないけれど、柴田の家の周りにはコンビニが一件あるくらいだから、ドラックストアまでは車を出さなければいけない。さっき入れたばかりなのに、面倒臭いなと思った。脱衣所の扉を開けると、そこに柴田はいなかった。擦りガラスの向こうの影が動いて、ガラッと扉が開く。 「何?シャンプーない?」 頭を洗う最中だったのか、柴田の髪の毛はしっとりと濡れていた。柴田は逢坂の質問には答えずに、逢坂のTシャツを引っ張ってそのまま唇にキスをした。 「言い忘れてたけど、俺、明日休みだった」

ともだちにシェアしよう!