「柴さん、顔色悪いすよ、大丈夫ですか」 会議室の椅子に座って、堂嶋班の佐竹は開口一番そう言った。昨日も何も食べずに眠ってしまったのが悪いのか、青白いを通り越して土気色になっているのは、朝起きて顔を洗って鏡を見た時から何となく分かっていたけれど、柴田にはそれを隠すだけの技術も方法もなくて、結局そのまま職場に来た。流石にお腹は空いているような感じがするが、いきなり何か食べたらまた調子が悪くなりそうだったので、オレンジベースの野菜ジュースを朝から三本も飲んでいる。これで少しは栄養を体が取ってくれればいいのになんて、柴田は自分の体の事なのに、まるで他人事のように考えたりしている。 「そうか？いつもこんなもんだぞ、俺は」 「いや悪いすよ、ちょっともう今日早く帰ったほうが良いんじゃないですか」 「なんだ、随分優しいな、お前」 「えぇ、下心があるので」 にこっと笑って、佐竹はあくまでもふざけた調子で言った。それに大袈裟に肩を竦めるフリをして、柴田は佐竹の冗談に付き合うために口だけで笑った。声を出して笑うとそれが体の中心に響いて、特に肋骨が痛くて、咳をしてあばらを折るというのも笑えない話だと最近はとみに思う。手の中の佐竹の書いた投げやりな報告書を読みながら、ふと柴田は数日前に逢坂がひどく思いつめた顔をして、もともと女性が好きで男と付き合ったのも自分が初めてなのだからと言っていたことを思い出していた。 「なぁ、佐竹」 「なんですか？誤字ですか？」 「いや、前から思ってたんだけど、お前、男が好きなのか？」 「いえ、俺が好きなのは柴さんです！」 相変わらずのにこにこ顔でそう言われて、柴田は何だか肩から力が抜けてしまった。佐竹も各方面に対してそういうポーズを取ってしまっているあたり、今更引けなくなっているのだろうと柴田は思っているが、冗談として笑えているうちにどうにかしたほうが良いことは、佐竹も馬鹿ではないし分かっていると思って、柴田の方からはもう子どもではないのだから咎めたりはしていない。 「いや、そういうことではなくて」 「あ、元々ゲイかってことですか？違いますよー」 「だよな。でもそれで急に男が好きになったりする？しないよな」 「んー、なんかまぁ、それは人によると思いますけど」 「はぁ、はじめてまともなこと言ったな」 「はは、でも俺、海で水着の女の子見てても別に勃たないですけど、柴さんは服着てても勃つんで、まぁそういうことなのかなって」 「あー・・・聞かなきゃ良かった」 佐竹の冗談か本気か分からない、確からしい話を聞いて、柴田は内心ゾッとしながら、この場を取り繕うためにはははと笑っておいた。都合が悪いことは冗談にしておけば間違いなかった。気のない振りは、何かあった時の防御策になることを知っている。逢坂だって、元々柴田が変な優しさを出してコンビニで引き止めなかったら、こんな関係には落ちていなかったのかもしれないと、柴田は未だに思ったりしている。柴田のあからさまなそれに、佐竹もいつも通りにこにことしていたので、相変わらず本心の読めない男だなと思った。柴田へのそれは彼なりに隠していたつもりだったようだが、堂嶋経由で伝わった後は、開き直ったのか何なのか分からないが、特に隠そうともせずに、だらだらと日夜問わず垂れ流しになっている。女子所員には気持ち悪いと指を指されて言われているようだったが、佐竹はその物腰の軽さと口の軽さと、底抜けに明るい雰囲気に、決して陰口にならないところが、彼の持つ陽性の因子のせいだと柴田は知っている。そういう生得的に明るい因子を持っている人間は得だなと、今日も表情に影の多い柴田は思うが、別に羨ましいわけではなかった。最早ネタみたいになっているが、その対象にされている柴田にしてみれば、自分にとって都合の悪い事実が出てくるかもしれないので、冗談くらいには付き合いもするが、曖昧になっているほうが良いに決まっていた。 「でも柴さんも結婚とかしないじゃないですか、彼女も長いこといないし」 「なんだそれ、堂嶋が言ってるのか？」 「まぁ、いいじゃないですか、そんなこと」 佐竹に情報を流しているのは上司の堂嶋に違いなかった。もう余計なことを言うのは辞めようと、嬉しそうな佐竹の顔を見ながら柴田は思う。結婚なんかしないと佐竹に断言されてしまって、するつもりがないから別に、表現はそれで間違っていないのかもしれないと思ったけれど、この先どんなことがあるか分からないから、そんなこと今の段階で決めるのは可笑しいのではないかとも思う。別段それを佐竹相手に指摘することに意味がないので、柴田は黙っていたが。多分こんな風に命を削るみたいに仕事をしていたら結婚なんてできないし、相手にもほとんど家に帰って来ない夫なんて可哀想だと思うくらいの常識はまだあった。そんなことまでして結婚する意味が、柴田にはまだ分からない。こんな考え方しかできないから、柴田はそれに自分がおそらく向いていないだろうことは分かっていた。だから別に今のままで良かった。逢坂とは最近喧嘩をしてばかりだけれど、というか付き合ってから喧嘩してばかりだなと柴田は思い直した。結婚でなくても、そもそも恋人でいることも向いていないのだろうと柴田はぼんやり思う。 「だから俺、柴さんにぴったりだと思うんだけどなぁ」 「お前こそ結婚はしないのかよ、彼女は」 「いると思います？いたら上司に迫ってないですよー」 「・・・そうか」 呆れて柴田は短く返事をした。佐竹は会議室の長テーブルに頬をくっつけたまま、はははと笑った。振動が伝わってくる。 「家に帰って、誰か飯作ってくれる人がいたほうがいいでしょ」 「お前が作ってくれるのか？」 「いや、俺は料理しないんで、出前取りましょう」 「なんだそれ」 平日も飯だけ作りに来ようかと言った逢坂の顔が過ぎって、柴田は佐竹の冗談に笑いながら、少しだけ胸が痛かった。本当はそれに返事をしても良かったのかもしれないけれど、自分の日常の中に逢坂が定着してしまいそうで怖かった。どうなるのか分からないのに、逢坂はいなくなってしまうかもしれないのに。逢坂のいなくなった穴を埋めるみたいに、その時は誰かとまた付き合えばいいのだろうか、そんなことを繰り返して、これから生きていかなければならないと思うとゾッとした。そんなことなら知りたくなかった。家に帰って誰かにお帰りと出迎えられることも、温かいオレンジのライトも、手作りの料理も全部全部、はじめから知りたくなかった。寝るだけの場所で良かったし、点ければ喋るテレビで良かったし、コンビニのスイーツで良かった。柴田の生活はそれで成り立っていたのだから、今更それに彩りなんていらなかった。 「なんにせよ、柴さんは誰かに生活を管理してもらったほうが良いですよ。ぶっ倒れた後じゃ遅いんですから」 「大丈夫だって。そんな氷川さんみたいなことにならないよ、俺は」 氷川みたいに自分のことがうまくコントロールできなかったら、もう少し生きることに不器用にできていたら、きっと真中だって自分を選んでくれた。いや選んでくれたかもしれない、選んでくれなくたって。選択肢のひとつくらいにはなったかもしれない。今更、真中相手にどうにかなりたいなんて思ってはいないけれど、もしそんなことがあったらきっと今の自分は違う顔をして違うことを考えているに違いなかった。小さなほころびや選択が、未来を大きく左右するのは当然のことだ。それを選ぶのに慎重になってどうしていけないのだろう。どうして今のことをそんな風に簡単に信じることができるのだろう。 「堂嶋さん、遅いですね」 「・・・そうだな」 思い出したように堂嶋の名前を呟く佐竹の横顔を見ながら、柴田はひとつ小さく息を吐いた。