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第22話

疲労感は胃の奥にずっしりと敷き詰められていた。頭が重いのか体が重いのか分からない。ただ寝返りを打つのも面倒くさいくらいに疲れている。いつも顔色が悪くて疲れている柴田も、こんな風に心底疲労を感じることは久しぶりだった。掛布団が捲られて、後ろに人の気配がしてそちらを向こうと思ったけれど、思ったように体は動かなかった。するりと腕が巻きつけられて、首筋に唇の感触がしてちゅっと音がして離れる。逢坂の触れた場所から、ふわっとシャンプーの匂いがした。 「侑史くんなんでそっち向いてるの?」 「・・・別に意味はねぇよ。体重くて動けないだけ」 「あ、そ。どうせならこっち向いててくれたらいいのに」 逢坂の声は思ったより弾んでいて、柴田はそれに少しだけほっとしていた。回された手がぎゅっと締まって、背中が逢坂の温かい体温を捉える。うなじからTシャツを引っ張られて背中を逢坂の唇が這って、時々それがきつく吸い付く。柴田はぼんやりと目を開けて、暗闇を見ていた。 「侑史くん?」 「ん?」 「ぼんやりしてる、どうしたの」 「どうもしてないって、疲れただけ」 目を開けたまま、面倒臭そうに柴田が答える。暫くの無言の後、逢坂の腕がぱっと離れるのを感じて、柴田はごろりと寝返りを打った。すると薄暗がりの中で逢坂が思ったよりも真剣な目をして自分を見下ろしていたので、柴田は吃驚してしまった。 「なんだよ」 「あのさぁ、侑史くん。サエのことなんだけど」 逢坂の唇が動いて、サエの名前を呼んだ時、さっきまでそれが背中を這っていたのが、嘘みたいだと柴田は思った。背中にじくじくと痛みとも熱とも言えないものが残っているのに。それに返事をするのも忘れて、柴田は逢坂の顔を見上げていた。 「もう、遊びに行くのとか、止めてね」 「・・・あぁ」 「携帯も着信拒否にしていい?別にいいよね」 そう言うと逢坂は柴田の返事を聞かないで、ベッドサイドにある柴田の携帯電話を取ると、それを操作しはじめた。まるでこのことを前からずっと考えていたみたいだと柴田はそれを見ながら、酷く悠長に思った。思ってから手を伸ばして逢坂の手首を掴む。 「そこまでしなくていいだろ、別に」 「なんで。だって連絡とかとる必要ないでしょ、別に」 「・・・まぁ、そりゃそうなんだけど」 途端に彼女の自信に満ちた笑顔が蘇ってくる。日の光に晒されて、それは余りにも柴田には眩しかった。彼女の有り余る若さも美しさも、その自信の客観的な裏付けになっているのだと思うと、サエに怖いものなどないようだった。怖いものだらけの柴田は、そんな風に笑うサエのことを直視できないと思った。それでも彼女はその白くて細い指を柴田に絡めて、そして赤い唇で甘い言葉を囁いて、その場に据え付けようとしている。柴田はまだ遊園地の白いベンチの上から、サエの後姿を探している場所から動けていないのではないかと、また急速に不安になる。現実では暗闇で逢坂は怪訝な顔をして、柴田のことを見ている。 「侑史くん、分かってると思うけど、サエはもう俺の事なんてどうでも良くて」 どこかで聞いたセリフだと、柴田はぼんやり考えた。 「侑史くんのこと、狙ってるんだからね」 「・・・狙ってる?」 「好きだって言ってんの!分かってるでしょ?」 逢坂が眉を顰めて、その怪訝な顔は深くなる。柴田はぼんやりした頭で、遊園地でサエが付き合ってよと言って笑ったことを思い出していた。何故かそのことを今まで全く思い出さなかった。考えておいてねと笑って去っていたサエは、その答えを聞きに柴田のところに近々来るのだろう。どうやって、柴田には想像もし得ないが、彼女はその方法を、きっともう知っているのだと思った。 「ばか、そんなことあるか、あんなかわいい子」 「かわいい・・・?やっぱり侑史くん可愛いと思ってんだ、サエのこと。はぁ、これだからもう男は」 「お前も男だろうが。っていうか付き合ってたのはお前だろ、しず」 肩を落とした逢坂の腕を叩くと、ぱっと逢坂は柴田の方を見た。 「付き合ってたっていうか、まぁ付き合ってたんだけど。別に好きで付き合ってたわけじゃないし」 「・・・お前らほんとにおんなじこと言うんだなぁ」 「え?どういうこと」 「いや、サエちゃんも同じこと言ってたよ。逢坂のことは別に好きじゃなかったって」 「そう?何かそれはそれで腹立つな」 「はは、なんなんだよ、お前ら」 柴田が声を出して笑うと、逢坂はずっと不機嫌そうにしていた顔をふっと無表情にした。柴田はその視線に気づいて、笑うのをやめた。逢坂が何か別のことを考えているのは明白だった。こうして普通の顔をしている柴田だって、さっきから違うことを考えている。 「侑史くん、俺はさ、侑史くんのことが好きだよ。これからもずっと一緒に居たいと思ってる」 「・・・急に何言ってんだよ、しずか」 「茶化さないで聞いてよ。だからさ、サエに嫉妬もするし、ふたりで会ったり話したりとか、して欲しくない。分かるでしょ」 「・・・分かるよ」 分かるよと呟きながら、柴田は全然分からないと思った。逢坂がサエに嫉妬なんてする意味は、逆立ちしたって自分には理解できないと思った。サエがあの夜大粒の涙を零していた時も、遊園地でくだらないことで言い争っていた時も、その腕を軽やかに掴んだ時も、柴田はずっと胸が痛かった。逢坂の傍にいたのがサエで、この若くて可愛い眩しい女の子で、余りにも自然で普通で、それが悲しくてとても痛かった。逢坂に耳元で何度愛を囁かれても、多分自分がそれを直視することが出来ないのは、この圧倒的な虚しさのせいだと、柴田は気付いてしまった。サエはベンチで柴田の手を掴まえて、手を繋いでデートだってできるし結婚も出来るし子どもも出来ると呟いて笑った。それが真実だと思った。もう柴田はそんなことはどうでもいいと思っているし、そういう普通の幸せを手に入れることを鼻から諦めていたけれど、でも逢坂は。 (分かんないよ、そんなの分かるわけない) (サエちゃんに、嫉妬してるのは俺の方だ) 逢坂には、サエでなくても女の子と付き合って、結婚をして子どもができて、そんな普通の幸せが、彼にはあったはずだった。あるはずだった。それを奪ってはいけないと思った。柴田は逢坂より年上だったし大人だったし、余裕があるフリもしたいし格好もつけたかった。だから逢坂がこの指や手を離したいと思った時に、ちゃんと離してあげることができる大人でいなければいけないと思っていた。だから逢坂のいる日常に慣れたくはなかったし、好きだと囁くことさえも、柴田の喉を簡単に締め上げたのだ。

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