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第26話
サエをマンションまで送り届けて、柴田は車を回して自宅まで帰ってきていた。月森はきっと逢坂に言うよと、サエは柴田を心配するようにもう一度、別れ際になって言い出したが、柴田は別にいいよとそれに同じように返事をした。サエはサエなりに事の起こりに責任を持つつもりなのだろうと、反省した顔をしているサエに手を振って別れた。白のフーガが自宅前まで戻ってきた時に、マンションの前に誰か立っているのが見えた。車のヘッドライトが人物の下半身だけを光らせる。柴田は慌てて路肩に車を止めて、運転席から降りた。マンションを見上げるようにして立っていたのは逢坂だった。
「しずか」
名前を呼ぶと逢坂はふっと視線を移して、柴田のことを見た。その表情は曇っていて、きっともう色々月森から聞いた後なのだろうなと柴田は瞬時に理解した。思ったけれど、もうそんな目をする逢坂のことを、柴田は何故か怖いと思わなかった。
「おかえり、遅かったね、侑史くん」
「丁度良かった、乗れよ、車」
「・・・他に言う事あるんじゃないの」
逢坂はマンションの前から一歩も動かないままで、唸るようにそう言った。柴田はくるりと逢坂に背を向けて、降りたばかりの運転席に戻った。言うことはあった、沢山。柴田は何故か少しだけわくわくしている自分のことを抑えられなかった。逢坂が怒っているのは分かっていたが、それ以上に自分を焦燥させるものが、その時の柴田には見えていたのだ。柴田が運転席におさまっても、全く逢坂がこちらに来る気配がないので、柴田はシートベルトを外して、ドアを開けて車から半身を出した。
「しずか、早くしろ!」
「・・・んっとに、何なんだよ、もう!」
堪らず逢坂がそう吐きだすのを見ても、柴田は何も思わなかった。ぶすっとしたまま近づいてきた逢坂が、助手席の扉を開けてそこに乗り込む。柴田も運転席に戻ってシートベルトを締めた。先程までサエが乗っていた場所に逢坂が乗っているのが、なんだか不思議だった。車を走らせると逢坂が、不意に窓を開けた。ざぁっと夜になると冷たい風が入り込んでくる。
「暑い?」
「んーん、換気」
「換気?」
「女の香水の匂いがするから、換気」
ぶすっとしたまま逢坂がそう言って、サエが丁度そうしていたみたいに扉のわずかなでっぱりに肘を突き、窓の外を眺めているふりをした。こうして見ていると逢坂もサエも柴田にとってはあんまり変わらなくて、何だかそれが面白かった。
「何笑ってんの、侑史くん」
「いや、別に」
「別にじゃないよ、俺怒ってるんだけど、分かってるよね。ちょっとは言い訳したらどうなんだよ」
「ごめんごめん」
そうやって柴田が軽く謝ると、逢坂が眉間の皺を深くした。その顔を見ながら柴田は逢坂が怒るとサエが言っていたことを思い出した、きっとサエは怒られるだろう、こうやって逢坂に睨むような目で見られるだろう、でもそれがふたりが元に戻る唯一の方法なのだ。
「ごめんごめんってなんだよ、それ。俺が、どれだけ心配したと思って」
「心配?なんの」
「だって・・・」
力なく逢坂が言葉を切って、月森は一体見たことをどんな風に逢坂に伝えたのだろうと柴田は思った。逢坂はそれ以上言葉を探すのを諦めたみたいに、また肘を突く格好に戻って、柴田から視線を反らして窓の外を見始めた。柴田は車が止まらないように、ハンドルを握っている。
「何の心配だよ、言えよ、しずか」
「・・・サエと付き合うの」
逢坂が真面目な顔をしてそう言った時、また柴田は可笑しくて吹き出してしまった。急に笑い出した柴田を吃驚したように、助手席の逢坂が見つめている。
「だから何で笑うんだよ、俺は真剣に言ってるのに」
「ごめんごめん、そうだな、お前はいつも真剣だよ、しずか」
「何だよ、今日侑史くん変だよ、どうしたんだよ」
「・・・そうだな」
晴れやかな気持ちだった、不思議と。今なら何でも言えそうな気がしたし、どこにでも行けそうな気さえした。さっきまで眉間に皺を寄せて怒っていた逢坂は、隣で眉尻を下げた情けない顔をして柴田を見ていた。そうだった、逢坂はずっと真剣だったし本気だった。あの日、全てが露見して俯いてノートを返してと逢坂が言った時から、いやそれよりずっと前から、コンビニの制服を着て柴田の籠を持っていた頃からずっと、逢坂はずっと真剣だったし本気だった。そんなこと分かっていた、分かっているつもりになっていた。それに向き合うのが柴田はずっと少しだけ怖くて、いつも逢坂のそういう真摯な目から逃げていた。だけどもう怖くないような気がした、向き合っても柴田は、その眩しさに飲み込まれないで立っていられると思った。何故か。
「話があるんだ、しずか」
「・・・話って、何の話」
「それはこれからする、大事な話」
「・・・やだ、なんか、嫌な予感する」
ふいと逢坂はまた視線を窓の外に向けた。動物的な勘で、危機を感じて尻尾を丸めて逃げ出すみたいに、逢坂の所作はいちいち分かりやすかった。
「なんで、聞けよ」
「聞きたくないよ、サエと付き合うんだろ、俺に別れてくれって言うんだろ」
「言わないよ」
外を向いたままの逢坂が、ぱっとこちらを見た気配がして、柴田はちらりと逢坂のほうを見やった。そこで目を見開いた逢坂が、ぱちぱちと瞬きをしている。その音まで聞こえてきそうだった。柴田はゆっくりと車を止めた。シートベルトを外し、運転席の扉を開ける。
「着いたぞ、降りろ」
「・・・着いたってどこに」
逢坂の声色から不機嫌そうな様子はいつの間にかなくなっていた。その目は不安定に揺れて、動く柴田を追いかけている。それが分かっていながら知らないふりをして、柴田は車の扉を片手でやや乱暴に閉めた。逢坂が遅れて車から出てくるのを背中で聞きながら、すたすたと暗い道を歩いていく。
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