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第29話
携帯電話が鳴っている。
「はーい」
『悪い、今終わった、今から帰る』
「お疲れさま、ご飯出来てるから早く帰って来て旦那さま!」
『なんだそれ、気持ち悪いな』
はははと電話口で柴田が笑ったのが聞こえた。逢坂は柴田の家のソファーに座り直して、エプロンを片手で外した。相変わらず柴田は毎日忙しいみたいで、週末もろくに会えないばかりか、会っても部屋の中で眠ってばかりいる。逢坂も就職活動のためにあちこち走り回っていて、その合間にエントリーシートを書いたり、卒論を書いたり、たまに大学に行ったりと、それなりに忙しくて毎日していた電話も時々しかしなくなった。こんな風に段々、もしかしたら疎遠になるのかもしれないと、柴田からは滅多にかかって来ない携帯電話を見ながら逢坂は考えたりもしたが、それでもよくない妄想に振り回されるのは、前よりは減ったような気がする。
『お前今日二次面接だったんだろ?どうだったんだ?』
「あー・・・どうかなぁ、なんかあんまり、手応えない感じだった」
『ふーん、まぁそんなもんだよな、面接なんて。駄目でもへこむなよ』
「うん、駄目だったらまた慰めてね、侑史くん」
また電話口で柴田がはははと笑った。半分くらいは冗談でないつもりだったが、柴田にはあまり理解されていないようだった。
『じゃあ、車乗るから』
「うん、気を付けて、待ってるね、侑史くん」
通話が途切れる。週末うまく会えない日が続くと、平日にご飯を作りに行くことに勝手にひとりで決めて、それを実行しているけれど、柴田は逢坂が平日に家にやって来ることに対して、思ったより何も言わなかった。来るなとも来てほしいとも言われないので、逢坂は自分のしたようにしているが、柴田がそれをどう思っているのか、言ってくれないので分からない。
(平日だとえっちできないのがアレだけど、まぁいいや)
(顔見て声聞いてちゅーして抱きしめるだけで良いなんて、俺も大人になったなぁ・・・)
考えながら逢坂は、ソファーの上にごろんと横になった。柴田の家のソファーはふわふわで逢坂は気に入っているのだが、柴田が家にいる時はソファーには柴田が座っていることが多くて、何となく暗黙の了解でそこは柴田の場所みたいになっている。ふわふわで気持ちいいのだが、気持ちが良すぎて一緒に映画を見ていると、気付くと柴田は横になって勝手に寝ていることがある。考えながら逢坂もうとうとしてきた。職場から家まで、車で走ればそんなに時間はかからない、すぐ柴田が帰って来るのに、そうしたら作ったご飯を一緒に食べるのだ。柴田は兎に角あんまり量を食べないから、ほとんど自分で食べるみたいなものだけれど、でもその時間が逢坂にとっては幸せで、柴田もそうだったらいいのに、眠たい頭で考える。
「しずか!しずか!」
体を揺さぶられてはっとして目を覚ますと、いつの間に帰って来ていたのか、柴田が逢坂の顔を覗き込んでいた。ソファーがふわふわで気持ちが良いなんてことを考えていると、本当に眠ってしまっていたようだった。逢坂が慌てて体を起こすと、柴田は呆れたような顔をしてひとつ溜め息を吐いた。柴田は早起きをする割に良く眠るひとだったから、こんなことは何度もあったけれど、柴田の家にいるのに自分の方が眠ってしまうなんてことは、逢坂ははじめてでそれにひとりで吃驚していた。
「ごめん、侑史くん、寝てた・・・」
「なんだよ、お前が早く帰って来いっていうから頑張って早く帰って来たのに」
「ごめんって、おかえり」
拗ねたようにそっぽを向く柴田のことを、ソファーに座ったまま抱きしめると、柴田は逢坂の腕の中で窮屈そうに身じろぎをした。その年中青白い頬に逢坂がキスをすると、柴田はちらりと逢坂に視線を合わせて、それからふふっと肩で笑った。
「ただいま」
笑った顔のまま、柴田は逢坂の自分の体に食い込んでいる腕を掴んで、いつも逢坂がふざけてやるみたいに唇にちゅっと音を立ててキスをした。まさかそんなリターンがあるとは思っていなかった逢坂は、それでふっと体の力抜けるのを感じた。緩んだ腕の中から脱出した柴田は、あっさりと立ち上がると、鞄を拾ってテーブルの方に歩いていく。そこには逢坂が途中まで準備をした夕食が並んでいる。逢坂は慌てて立ち上がって、柴田の後を追いかけた。空いている方の椅子を引いて鞄を置こうとしている柴田の華奢な肩を、後ろから掴んで振り向く隙を与えないまま抱きしめる。柴田の体がびくっと逢坂の腕の中で震えた。
「・・・なんだよ、しずか、急には、びっくりする」
小声でぼそぼそと柴田が何か言っているのを聞きながら、逢坂は目を細めた。俯くと途端にあらわになる細い首に唇をつけてきつく吸うと、そこにじわっと赤が広がった。
「うん、俺も、急で、びっくりした」
「・・・はぁ?お前何言って・・・」
「さっきの、すげぇよかった。はやく一緒に住みたい、一緒に住んだら、侑史くん毎日ただいまって俺に言ってくれるんでしょ」
「・・・なんだよ、どこに引っかかってんだ、お前」
気が抜けて呆れたように柴田が言うのを聞きながら、逢坂は広がった赤を舌でぺろりと舐めた。柴田の体がまた大袈裟にびくつく。
「引っかかるでしょ、俺そのために就活頑張ってるんだもん」
「動機が不純だから上手くいかねぇんだよ、ばか」
「ひどい、頑張る彼氏にそんなこと言うなんて」
「はは・・・彼氏って」
柴田が笑ってその振動が背中から伝わってくる。逢坂はもう一度赤くなっている柴田の首の付け根を吸って、更にその色を濃くした。会社で屈んだ時に誰かに見られればいい。そうやって自分のものだって、誰にも言えないから、より一層誰にでもいいから自慢したかった。柴田がまた離して欲しそうに逢坂の腕の中で身じろいだ。まるで純粋な目をして良くないことを考えているのが、こんなにぴったり引っ付いていると伝わってしまいそうだった。伝わってしまっても良かった。
「オイ、いい加減離せ、メシ食うんだろ」
「うん、そうだね」
思ったよりあっさりと逢坂が言う事を聞いて、腕が緩んで柴田は解放される。ゆっくり振り返ると逢坂はそこで満足そうににこにこ笑っていた。なんだかそれにまた背中に悪寒を感じたけれど、柴田は知らないふりをしてダイニングの椅子を引いてそこに腰を下ろした。逢坂が用意したお箸をとって、黙って手を合わせる。それが柴田のいただきますの合図だった。正面の椅子に逢坂はいつの間にか座っていて、いつものように笑っていて、柴田が一口目を食べるのを待っている。
それが逢坂の日常で、きっと柴田の日常にもなっていくのだ、これから。
fin.
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