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un- Ⅰ

時々、いつもではないが本当に時々、居ても立っても居られない様な気持ちになることがある。しかし、それが柴田の気持ちとぴったりくることはほとんどないので、結構無情に手を払われている気がする。本人に悪気がないのが一番良くないと思いながら、逢坂は柴田相手には決して強く出られない。多分、それは今までの事の積み重ねで、自分も罪悪の気持ちを何処か覚えていて、物分かりのいい、しつけの行き届いた犬みたいに、払われた手を何度も伸ばしたりせずに、ちゃんと分かったふりをするのだ。もちろんそれは分かったふりでしかなく、本質は理解などするつもりはないのだが。 その日、柴田の部屋のソファーに寝転がって、逢坂はテレビを見ていた。ソファーはふかふかで寝心地も座り心地も良くて、柴田が気に入っている場所の一つである。ふたりでいると大抵柴田がソファーに座るので、逢坂はラグマットの上に座ることが多いのだが、その日はたまたま柴田の方がラグマットに座って、ソファーに背中を預けたままぼんやりとテレビを見ていた。だから逢坂は代われと言われたら代わるつもりでそこに寝転がっていたのである。見ていたテレビは何だったかよく覚えていないが、多分土曜日の昼間にやっている緩い雰囲気の情報番組だったような気がする。柴田も自分もあまり真剣にそれを見ていたわけではない。ただ双方することがなくて、それを見ることくらいしか選択肢がなかったのだ。逢坂は早々に飽きて、夕飯の献立を考えながら、ふっと柴田に目を向けた。柴田は寝転がった逢坂の丁度お腹あたりのソファーを背もたれにして、少し頭を垂れるような格好で座っていた。俯くと露わになる白いうなじを見て、逢坂はじりっと胸の奥に火がついたのが分かった。 (あー・・・今、何時だろ) 考えながら壁にかかった時計を見上げると、まだ三時過ぎだった。絶望的な時間帯だと思って、逢坂は手のひらで顔を覆った。自分の手のひらがすでに変な熱に浸食されていて、生温かいのが気持ち悪い。指の隙間からふっと柴田の様子を伺うと、さっきと同じ格好のまままるで固まってしまっているかのように、微動にしていなかった。柴田は絶対にそういうことを明るい時間から自分に許可したりしない。これは何度かトライしてみたことがあるから、逢坂は知っているのだ。 (・・・どうしよ、でも、まぁ、ものは試しか・・・) 考えながらゆっくり上半身を起こして、柴田の露わになったうなじに指を添わせてみた。するとびっくりしたように柴田の体は跳ねて、柴田は触れられたそこを手で隠すみたいにして、逢坂を勢いよく振り返った。良く見れば耳がほんのり赤い。 (そんなに分かりやすく赤くしちゃって) 「お前、いきなり、何すんだよ」 (かわいい) 逢坂はその質問には答えないで、振り返った柴田の唇にキスをした。体を捻らないと正面に回れないので、唇をちゃんと合わせることが出来ないのがもどかしい。唇を離すと、今度ははっきり柴田の頬が赤くなっているのが分かった。こんなこと何度もしているのに、なんでそんな反応が出来るのだろう。逢坂には不思議だ。柴田が大人しいうちにもう一度ぎこちなくキスをして今度こそ唇を離す。 「・・・なんだよ。お前、いつも、いきなりすぎてよくわかんねぇ」 「ごめん、なんか、後ろから侑史くん見てたら、こう、堪んなくなってきたというか」 「なんで?お前のスイッチほんとよくわかんね」 眉間に皺を寄せたまま、柴田がふらっと立ち上がったので、そのままどこかに避難されるのだろうと、唇に点いた火を消すみたいに逢坂はぺろりと唇を舐めて思った。だが、その時柴田は逢坂の推測とは違う動きをした。逢坂が半身を起して、空いたソファーのスペースにすとんと腰を下ろしたのだ。これはなんのサインなのだろう、頬はまだ赤いけど多分照れているわけではないと思う、と逢坂はじっと柴田の横顔を観察しながら考えた。考えたけれど、とても分かりそうになかった。 「なにこれ、していいってこと」 「そんなこと言ってねぇだろ、都合良いなお前は」 そう言って、柴田が笑った。悪い感触ではなかったけど、やっぱり遠まわしに断れられているのは確かだった。それなのに隣に座るなんて、思わせぶりなことをするなんてずるいと逢坂は思いながら、そろそろと手を伸ばして柴田の指先に触れた。柴田の体はもうびくつかないで、そこに確かな体積をもってあった。逢坂は恐る恐る指から辿って柴田の細い腕を掴んだ。 「じゃあどういうつもりなの、侑史くん」 「・・・さぁ」 「意地悪しないでよ、俺、堪んないって言ってるじゃん」 「どこでそういうスイッチ入るんだろうなぁ、お前」 言いながら、柴田が首を傾げる。中途半端なことを言っても良いと思っている。それでも自分は安全だと思っている。待てを一度覚えた犬は、二度と主人を噛まないと思っている。逢坂は腕を掴んだ手をするすると降ろして柴田の指まで戻ると、それを掴んで口を開けた。そこに突っ込む前に柴田の方が腕を引くだろうと思ったけれど、柴田は腕を引かなかった。逢坂は思わず、そのままの勢いで柴田の指を口に入れてしまった。潔癖症を少し噛んでいる柴田はこういうことを多分、嫌だろうなと思うからあんまりしたことはなかったけれど、その時の柴田の反応は逢坂が考えていたより普通で、そして随分と大人しかった。逢坂は柴田の様子をそうやって注意深く観察しながら、やっていいこととやってはいけないことの境界線を丁度探るみたいに、指の腹を舐めて、指先からするすると舌を這わせて指の付け根を吸った。それでも柴田はそれをただ見ているだけだった。 「・・・なんなの、これ、ウマいの?」 「侑史くん、はやくとめて」 「なんで」 肩をひくりと震わせて、柴田はずいっと体を逢坂の方に乗り出すようにした。今ならちゃんとキスが出来る。逢坂は自分の唾液でべたべたになった柴田の左手を見ながら思った。 「最後までしちゃうよ、おれ、はやくとめてよ」 「・・・なんで」 柴田は伏し目がちになり、静かにそうもう一度言った。これはオーケーということなのか。逢坂は頭の中が急に熱くなる感覚を自覚しながら柴田に手を伸ばして、その肩を掴んで引き寄せた。唇は簡単に割れて中に侵入を許す。そう、多分柴田は許している。拒否しないということはイコール、それは許しているということなのだ。逢坂はそれを柴田に言葉では確かめない。 「ふ、ぁっ」 すぐに呼吸の苦しくなる柴田は、逢坂の腕から逃げる場所を探すみたいに、ほとんど反射的に体を捩る。その細い腕を逃がさないようにきつく握ったまま、逢坂は柴田の口の中にもっと入れる場所を探すみたいに舌を絡ませて、そこら中を舐めた。ややあってふっと離れると、息の上がった柴田は、呆然とただ口から酸素を取り込みながら、逢坂の唾液で濡れた唇を半開きにして、逢坂のことを見上げていた。いつもアイロンのかかったシャツを着て、背筋を伸ばして立っているこの人が、自分の手の中でそんな無防備な醜態をさらしているという事実に、ただひたすら興奮する。柴田はきっと、それを知らない。 「侑史くんこっち」 「え・・・」 「上乗って、おれの」 「・・・ん」 嫌がるかなと思ったけれど、柴田はその日何故からしくなく従順であった。そのままソファーに押し倒しても良かったけれど、何となく日も高いのでもう少しちゃんと柴田のことが見ていたかった。ソファーに座った逢坂の太ももに乗った柴田は、逢坂と向き合うようにして、その茶色の瞳をこれから起こりうることに対して少しだけ不安に震わせた。嫌なら拒めばいいのにそれもしない。逢坂は考えながら柴田の後頭部を撫でて、今度はもう少しゆっくりキスをした。柴田がやはりどこか不安そうにそれに応える。

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