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もう君がいないなら Ⅱ

翌日、冷えた空気から身を守るため、一番分厚いチェスターコートを選んで、さらにマフラーをきっちり巻いて、柴田は車を運転していた。一度マンションまでサエを送ったことがあるから、なんとなく場所は覚えていた。それにしてもサエはというと東京に自分の家があるにもかかわらず、その家にいるのが嫌だからという理由で、そんな理由だけで親に別のマンションを借りさせて、そこに住んでいるという。一度、サエは自分の親のことを金持ちだからと言っていたけれど、それは本当に自慢でも自惚れでもなく、字面通りの意味なのだろうと柴田は思った。最もサエは自慢や自惚れなんかとはひどく遠いところにいる。ほとんどなんでも持っているから、別段他の誰かに嫉妬をすることもないから、そもそも自慢や自惚れなんていう感情を芽生えさせることもないのだろう。そう言う意味においては。考えながらマンションの近くまで行くと、マンションの前にサエはコートを着ているが、素足を惜しみなく出した格好で、寒そうに立っていた。 「サエちゃん」 「柴田さん遅い―!寒いから早く入れて」 頬をピンク色に染めて、彼女はそう抗議すると、にこりと笑った。多分自分が思っているより寒くないのだろうと、助手席に乗り込む彼女の横顔を見ながら、柴田は考える。サエは真っ白のロングコートに黒いワンピースという格好で、今日はいつもより少し大人っぽく見えた。着る服によって印象を変えることができるのは若者の特権だと、最早何を着ても仕事に行く時となんら変わらない柴田は思う。 「どこ行くの、初詣って。俺混んでるところ嫌だよ」 「馬鹿ね、柴田さん。初詣なんてどこも混んでいるに決まってるよ」 言いながら彼女はまた笑った。仕方なく柴田は車を発進させ、適当に道路を走らせた。サエが時々助手席から右だの左だの言い、一応行きたい場所は決まっているのだと柴田は思った。 「サエちゃん何で俺に電話かけてきたの」 「初詣に行きたかったからに決まってるじゃん」 「家族とか友達とかと行ったら?何で俺?」 「柴田さんだって私の友達でしょ?」 そう言ってまた彼女は無邪気に笑った。それに何とも言えない柴田は口角を上げて、黙っている。サエとの関係は友達という名前で果たして良かったのか、しかし他の名前を付けるにしては些かややこしいし、一番分かりやすいのはそれなのかもしれない。考えながら柴田はハンドルを切る。 「それに私、ろくな友達いないの。皆お金目当てか男目当て。男はお金か体目当てだし」 「・・・ふーん」 彼女は茶化すように言ったけれど、何となく本当のことを言っているんだろうなと柴田はそれを聞きながら思った。全てを手に入れていても、サエは心だけが空っぽで、そこに注がれるものの本質なんて、あってないようなものなのだろう。それなのに親の庇護から意識的に離れようとして、それでもひとりになりたがる彼女の本当の気持ちなど、柴田には到底理解できなかった。 「それに柴田さんも逢坂がいないんじゃ暇だろうなって思ったし」 「・・・あ、そ」 「友達居ないんでしょ、柴田さん。それって私と同じじゃん」 確かにその通りだったので、柴田はそれには何も言えなくなってしまった。友達のいない者同士仲良くしているだけということなのだろうか、考えながら柴田は助手席に座る美しくて若い女の子を見る。柴田はサエに対して金目当てでも男目当てでも体目当てでもないことを、サエが自覚しているせいだろうか、そこに座っているサエは、そんな風に言いながら酷く無防備に見えた。多分、逢坂に出会わなかったら、今の関係に落ちていなかったら、サエをこんな風に助手席に乗せることもなかった。逢坂はそういう意味でも、柴田の世界を何処までも広げる。勝手に広げられた世界で、柴田はいつも自分の場所を探している。 「柴田さんおそーい!」 白のコートの裾から黒いワンピースのスカートをはためかせるようにして、サエはそこでぴょんぴょん跳んで見せた。サエを取り敢えず神社の傍に下ろして、車を止める場所を探していたが、勿論どこも人が多くて、随分遠くまで案内された。戻ってくるころには、サエが言うように随分待たせることになってしまったが、それは自分のせいではないと、思いながら柴田は少しだけうんざりする。神社に入る前の雑踏で、もう既に人に酔っている。部屋の中はあんなに静かで暗く冷たかったのに、そとは気温が低いだけで眩しくてどこか暖かすら感じる。けれど急にこんなところに引っ張り出されて、柴田は眩暈を感じずにはいられない。 「だって人多くてさ、車止めるところないんだって、だから初詣とかそういうの俺嫌い」 「文句言わないのー!お参りするよ!」 自然にサエは柴田の腕を取って、こっちこっちと何故か急ぎ足で先を進む。擦れ違う男ばかりのグループが、振り返ってサエのピンク色の頬を見ている。 (絶対に彼氏だと思われてる、釣り合ってないとか思われてる) 「柴田さんどうしたの?なんか顔暗くない?」 「サエちゃん、手、はなそっか」 目ざとく柴田の変化に気付いたサエは、急いでいた足を止めて、顔を覗き込んでくる。こんなことで、こんなくだらないことで、何歳も年下の女の子に気遣われるなんて、恥ずかしく思いながらサエのそれには答えないで、するりとサエの手の中から自分の腕を抜く。 「なんで、別に逢坂いないからいいじゃん、人多いし、はぐれちゃうよ」 「・・・いないからいいっていうわけでも、ないと思う・・・」 「いいよ、柴田さん置いてひとりで実家に帰っちゃう馬鹿な逢坂の事なんて」 「・・・連れてかれても困るけどな」 はははと笑うと、サエは微妙な表情をして、また柴田の腕を掴んだ。二度目はもうないと思って、柴田はそれをそのままにしておく。ふと、柴田はサエは逢坂の生まれて育った家のことを知っているのだろうかと思った。例えばそこに行ったことがあるとか、家族の誰かに会ったことがあるとか。サエならばそういうことに無駄な罪悪感を沿わすことなんてないだろう。それは実に自然なことだ。そこまで考えて、またそんなくだらない、くだらなくてどうしようもないことを考えてしまうのだろうと、柴田は空いた右手で後頭部をがしがしと乱暴に掻いた。まるでサエが言うみたいに、ひとりで東京に残されたことを、根に持っているみたいに。 「ね、柴田さん、お賽銭投げよう」 「投げようって、賽銭箱までまだ結構あるぞ」 「いいよ、別にもう、なんか飽きたし」 「飽きた?ここまできて?」 「だって人多いしー」 唇を尖らせてサエが言う。さっきまでそれは散々柴田が言っていたことだ。賽銭箱が近づくにつれて人が多くなり、中々前にも進まなくなってきて、苛々しているのは隣にいるから何となく分かっていたけれど、考えながら柴田は溜め息を吐いた。サエが何となく我儘になれているのは分かっていたけれど、そういえば目の当たりにするのは初めてだったかもしれない。 「最後までやろう、サエちゃん。折角ここまで来たんだから」 「えー。もう私お腹すいた―」 「ほら、言ってる間に、もうちょっとだから」 不服そうなサエの腕を今度は柴田が引っ張って、順番が回ってきた賽銭箱の前にふたりで立つ。財布を探って十五円を入れると、さっきまでふてくされていたサエは楽しそうに鐘を鳴らしている。柴田は手を打つと周りに習って目を閉じた。まぁとりあえず今年も一年健康でいられたらいいなぁ、自分の場合それが一番難しいことなのかもしれないしと思いながらふっと目を開け、サエの方を見ると、サエは固く目を閉じて、なにやら必死に神様相手にお願いをしているみたいだった。 「サエちゃん」 「・・・あ、柴田さん終わった?」 「うん、まぁ」 「じゃあ、ご飯いこ!」 サエはまた当然みたいに柴田の腕を引っ張って、石段を下りていく。擦れ違うカップルの男の子が、サエのことをほとんど無意識みたいな目の動きで追っている。何処でも誰でもそうやって気を引いてしまうことを、きっとサエは慣れていて、それにいちいち気をやっているのは自分だけなのだろうと柴田は思いながら、それでもその視線の先を追いかけずにはいられない。 「サエちゃん随分熱心にお祈りしてたけど何をお願いしてたの?」 「えー、柴田さんと逢坂がはやく別れればいいのにって」 「え?」 「はは」 人の少ない場所までやって来て、サエはようやく柴田の腕を離した。もうはぐれる心配がないからだ。そうして笑いながら、振り返る。 「冗談ですよ」 「・・・ほんとに」 「それに私がそんなお願いしても無駄でしょう」 「・・・―――」 そうやって笑う彼女に、柴田はかけてやる言葉がなかった。

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