56 / 137

諦めない。

翌朝…葵は昨日からの悶々とした気分を抱えたまま洗面台の前に立ち 水の滴る自分の顔を、複雑な表情で見つめる… 『…つばきさん…』 ―――昨日…信が呟いた名前を勝手に母さんの事だと思って――    気になって…全然眠れなかったけど…    考えてみたら“椿”なんて名前…別に珍しいものではないし…    誰か…別の人の事なのかもな…普通に考えて… 『…言ってくれてたら……頼ってくれてたら…っ、  俺は…無理やりにでもあの時貴女を―――………、』 ―――それにしても…    あの時俺を“椿”って人と勘違いしながら話す信の表情…    すっごく切なそうだった…    とても“ただの知り合い”に見せるような顔には見えなかったな…    どう見ても… 葵は洗面台近くのタオルラックからタオルを一枚引っ張ると 水で濡れる自分の顔をタオルに埋める… ―――それだけ――信が昨日呟いた“椿”って人は    信にとって“特別な人”だったのかも…    信に…あんな表情(かお)をさせるほどに… ツキン…と胸の奥に微かな痛みが走り―― 葵は自分の顔を更に強くタオルに押し当てると 真っ暗闇の中で小さく「うぅ…」と呻く… ―――一体…どんな人なんだろう…    信にあんな顔をさせる“椿”って人は…    ひょっとして――信が今…想いを寄せている人…とか…? 「ッ、」 ―――…やだ……それは嫌だ…、ッ、考えたくない…っ、 「う”ーう”ーう”ーっ、」 考えたくない考えに葵は焦り… その考えを追い払うかのように変な唸り声を上げながら タオルに顔を擦り付けるようにして頭を振る… ―――ヤだよ…そんなの…    それに信…フレンチの店で言ったじゃん…!    “付き合ってる人はいない”って…    ―――――――あ。 そこでまた嫌な考えにぶち当たり… 葵は顔をタオルに埋めたままピタッ、とその動きを止め―― 呼吸をするのも忘れて真っ暗闇の中を凝視する… ―――信は――“付き合ってる人はいない”…とは言ってたけれど…    “好きな人がいない”…とは言ってない… 徐々に息が苦しくなり… 足元がフラつき…目の前に広がる闇も更に深く濃くなるのを感じながらも それでも葵は目の前の闇を見続ける…     ―――それに信は今は俺の想いに応える覚悟が出来ていないとも言った…        それって――    信の言ってた“覚悟が出来ていない”理由ってもしかして…    “椿”って人への想いを諦めきれていないから――        だから“俺の想いに応える覚悟が出来ていない”って事なんじゃ… 「…………プハッ、、」 真っ暗闇の中…遂に物理的に息苦しくなった葵は タオルから勢いよく顔を上げると 再び鏡に映る不安で泣きそうになっている自分の顔と出くわし… 葵はその顔を見つめながら小さく呟いた… 「さいあく…」 ―――最悪だよ…だってそうでしょ…?    信がその“椿”って人を諦めきれない限り…    信が俺の気持ちに応えてくれる日は――    永遠に来ないかもしれないのだから… 「…酷いよ…こんなの…」 葵は鏡に映る自分の顔を見つめながら途方に暮れる… ―――俺はもう…色々と限界なのに…    なのにもし信が“椿”って人を諦めきれなかったら――        俺はずっと――こんな苦しい気持ちを抱えたまま…? 「…ッ、ぅ…」 視界が涙でぼやけ始め―― 葵は慌てて手に持っていたタオルに再び顔を埋める ―――そんなの辛すぎるよ…    ねぇ信…俺は一体どうしたら… 葵は再び真っ暗闇の中を見つめる ―――いっその事…    諦める…?信への想いを… 「…やだ。」 真っ暗闇の中… 葵は一人、ポツリと呟く ―――だって…信が“椿”って人を諦めきれなかったら――    この気持ちに苦しめられるのは俺なんだよ…?    だったらいっそ…諦めてしまった方が――     「…それだけ絶対に嫌だ…っ!」 葵は暗闇から抗う様にタオルから思い切り顔を上げると 目の前の自分の顔を思い切り睨みつける ―――大体諦めようとして――    諦めきれるようなもんじゃないでしょっ!?こんなの…    第一“椿”って誰なんだよコノヤロウ…っ!    なんで俺が会った事ないヤツなんかの為に信を諦めないといけないのっ?!    おかしいでしょっ?!こんなん… 葵はタオルを洗面台の脇に置いてもう一度顔をバシャバシャと洗うと 完全に吹っ切れた様子で、何度目かの鏡の中の自分と対峙する ―――絶対に諦めない…諦めるもんか…    だって俺は…信の事が好きなんだもん…    何もせずにこの気持ちを諦めるなんて事…俺にはもう出来ないよ…っ、 葵は乱暴に顔をゴシゴシと顔を拭き―― タオルをランドリーバスケットに放ると 意を決してバスルームのドアを思い切り開ける… 「うおっ?!ビックリしたぁ~…」 するとすぐ目の前に信が立っていて―― 「なんだ葵…お前此処にいたのか?  起きた時珍しくお前が隣にいなかったからちょっと探し――、ッ!?」 ガバッ!と葵は信に勢いよく抱き着き 信は突然葵に抱き着かれて唖然とする 「ッ、どーしたんだ?葵…突然…」 「…諦めないから。」 葵は信の肩口に顔を埋めながら呟く 「俺…絶対に諦めないから…っ!」 「お……おう…?」 信は唖然としながらも訳も分からず葵を抱きしめ返し―― 二人は暫く間、朝のバスルームで抱きしめ合った…

ともだちにシェアしよう!