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上書き。

『おれ……上手いらしいよ?フェラ……』 「ッ…」 ―――気にしないつもりで――いたんだがな…、 朝一で行われた定例会議を終え… 信が社長室で品の良い黒い革張りのリクライニングチェアに深々と腰を沈め… 背もたれにギッ…と寄りかかりながら 眼鏡を外した目蓋の上に左手首を乗っけると―― 深い溜息と共に全身の力を抜いていく… ―――まさかここにきてまだ見もしない葵の父親に“嫉妬”する羽目になるとは    思いもよらなかった… 再度信の口からは溜息が漏れ… 信は両手で顔面を覆いながら更に深く背もたれに寄りかかり―― 真っ暗闇の中で視線を彷徨わせる…     ―――俺が今まで付き合ってきた女性達の中で…    過去に付き合っていた他の男の事を俺の前で口走ろうとも    俺が気にして事などなかったというのに…    なのに葵に限ってだけは何故か――        過去に誰かと深く関わっていたであろう事を聞くたびに心がザワつき…    許せないと思ってしまっている自分がいる…    自分の知らない葵の過去に…    俺以外の誰かが深く関わっていたという事実に… 「ハァ~~~…もー……今更こんな事で嫉妬とか余裕なさすぎだろ俺…  どんだけ葵の事が――」 ―――好きなんだ…? 顔を覆っている両手の内側で 信が小さく「う”ぅ…」と言うくぐもった呻き声を上げると―― 昨夜からの葵に対しての自分の態度に後悔と羞恥心で身もだえる… ―――分かってはいるんだ…    葵はあくまで“父親から性的虐待”を受けてた被害者で――    “葵が望んで男を知っているワケでは無い”という事くらい…        昨日のあの言葉だって……    葵が単純に俺が喜ぶだろうと思って無意識に呟いた言葉だって事も…    それでも俺は――    情けないくらい嫉妬してしまっているんだ…    葵がもう既に…“他の男を知っている”という現実に… 「ッ…」 信は堪らずに顔を覆っている掌の内側で「あ”あ”あ”あ”あ”…っ!」という 叫び声とも呻き声とも付きにくいような声を上げ 子供っぽくバタつかせたくなる足や 両手でそこらじゅうを掻き毟りたくなるような衝動を何とか必死に堪えると―― やがて顔を覆っていた両手を力なく退け… 虚ろな目で天井を見上げるながら吐き捨てる様に呟いた… 「ハァ……馬鹿か俺は…  今更葵の過去に嫉妬してどーするよ……  重要なのは結局これからだっていうのに…ったく…」 天井を見上げたまま呟いた自身の独り言に… 信が微かに眉を顰める… ―――…そう…重要なのはこれから…        葵の父親の事もそうだし――    葵との関係もそう…    どう足掻いたって俺には葵の過去を変える事は出来ないが――    それでも葵にとっては辛い過去でしかない“父親との記憶”を    俺と過ごす時間の中で楽しい記憶に上書きしていく事くらいは出来るハズ。    この間の――水族館でのデートのように… 「………」 信は何かを思いついたのか 寄りかかっていたリクライニングチェアからゆっくりと上体を起こすと―― 机に置いていた眼鏡をスッ…とかけ… 早速スマホで何かを検索し始める ―――まあ……欲を言ってしまえばそれだけじゃないんだがな…    俺は――全部を上書きしたいんだ…    記憶だけではなく…    葵のすべてをこの“俺”で――    上書きしたい… 「………」 スマホの画面をスライドしていた指を止め… 信がぼんやりとその画面を見つめていると―― ふと思い浮かんだ言葉をそのまま口にしていた 「……上書き――すればいいじゃないか…」 ―――……………ッ! ほぼ無意識に自分の口から出てきた言葉に… 信はハッ!として口元を手で押さえるが―― やがて何かに納得したかのような晴れた表情を浮かべ 指先で唇に触れながら「…そうだよな…」と小さく呟くと その口元に微かな笑みを浮かべながら再び画面をスライドし始める ―――…なんだ……簡単な事じゃないか…    こんな風に葵の過去に嫉妬したりして悶々と思い悩むくらいなら――    初めっから我慢なんかしてないで…    さっさと俺で上書きをしとけばよかったんだ… 信は何だか可笑しくなり… こみ上げてくる笑いに耐え切れず、クツクツと声を押さえながら笑い出す ―――しっかし俺って奴は本当に馬鹿だな…    嫉妬でようやくその事に気がつくとか…    そりゃ確かにまだ――    俺自身に躊躇うところがあって…    このまま勢いに任せて行動していいものかどうか迷う所ではあるが――    それでももう…俺自身が抑えきれないんだ…    この気持ちに。 画面の下から上へと流れていく店の紹介文や口コミの評価なんかを眺めながら 信の瞳にスッ…と黒い影が差す ―――だから俺はもう決めたんだ。    今日…家に帰ったら――    俺は葵の身体に“俺”を上書きするって…        きっと葵は怒るかもしれないがな。    「あれだけ拒んでおいてなんで急に?!」って…    それでも俺はもう止められないし――    葵もなんだかんだで俺の事を受け入れてくれるだろう…    なんせあれだけ俺の事を煽ってくれていたのだからな。        俺が散々思い悩んで――我慢していたのが馬鹿らしく思えるくらいに… スマホの画面を眺めていた信の口から思わず「フフッ…」と笑みが漏れる ―――でもまずはその前に――    ちゃんと葵に謝んないとな…    『嫉妬で大人げない態度をとってすまなかった。』と…    きっと葵は俺が何に嫉妬したのかも分からないだろうが… 画面をスライドした先で信が一件のスイーツ専門店のページに目を止めると―― 信は早速その専門店に電話を入れた 「あ、もしもしソチラ“un gateau sucre”さんですか?  ケーキを何個か注文したいのですが――」

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