6 / 19

[6]

壁を隔てた内側にそれぞれの生活があるだなんて信じられないほど静まり返ったアパート2階の外廊下に、二人分の足音がこつこつ響く。 「今日は誰と遊んでたの?」 「あー……なんか、よくわかんないんです」 「なにそれ」 「誰かとメシ食いたくて、連絡先に入ってる人片っ端から連絡してー……、で、多分オリエンテーションのとき一瞬だけ喋った人がつかまって。そいつが『今バイト先の人とメシ食ってるから来なよ』って言ってくれて」 「え、じゃあ周りほとんど知らない人だろ? よく行ったな」 「んー……」 居酒屋には4人の男が集まっていた。年齢はバラバラで、まずは互いを知ることから始めなければならない。自己紹介からはじまり、彼女がいるかどうか、これまでの恋愛遍歴、好きなタイプ――初対面の距離を縮めるのにもうってつけの話題で酒と時間を消費した。高岡さんの前ではくだらないと一蹴した話にだって甘んじていた。皆いい人だったからこそ、帰り道の雨は余計に冷たかった。 「高岡さんがバイトじゃなかったらこないだのラーメンも行きたかったんですけどねー、はい、どーぞ」 ドアを開けて電気をつける。水を含んで重くなった靴下を脱ぎ、廊下が濡れることをいとわず部屋に入っていく。ふと振り返ると、予想に反し高岡さんは濡れたスニーカーを履いたまま狭い玄関スペースに留まっていた。 「入っていいですよ?」 「ここでいい」 「え? 茶ぁ出しますよ。コンビニの2リットルですけど」 「別にいいよ……むしろコンビニのペットによくそんな自信持てたな」 「うちで飲む茶はうまいですよ! あーあとビールと日本酒ありますよこのあいだ高岡さんが置いていったやつ」 「……傘だけ貸してくれればいいから」 「あー……はい」 久しぶりにゆっくり話しながら、あのときの言葉の意味をしっかり聞こうと思っていたのに、計画は簡単に破綻。臨機応変な対応ができない俺は、自分でも呆れるくらい唐突に本題を切り出してしまったのだった。 「高岡さん、前うち来たとき、酔ってなかったんですか?」 「は?」 「あー、なんか、他の先輩から最近飲んでないって聞いたんで、だったらこの間もそうだったのかなって、酔ってなかったんだったら俺……」 高岡さんの一文字の返事は鈍く響いた。不穏な空気に言い訳するようにまくしたてたら、高岡さんはぐしゃぐしゃと頭をかき、数秒後に零れたのは切実な声だった。 「なんで今蒸し返すんだよ……」 返事はできなかった。 「酔って訳わかんねぇこと言ってると思ったんだろ、そうして欲しかったんだろ? だからそれに乗っかったのに、なんでよりによって今蒸し返すんだよ。いいよ、酔って変なこと言ったってことにしてくれれば良かったんだよ、そのままなかったことにしてくれれば。ほんと、なんで今なの、状況分かってる?」 高岡さんの厳しいまつげの先に雨が引っかかっている。立ちすくんだ俺の足元には、服の裾からしたたるしずくが小さな池をつくっている。しかし、そのとき動けなかったのは、自室の池のせいではない。高岡さんがこれほど感情にまみれている姿は見たことがない。いつでも冷静な高岡さんを、他でもない自分自身が壊してしまったという事実に圧倒されていた。 結局俺は、都合の悪いことは無視して逸らしてふやかして、それでどうにかできると思い込んでいた。なぜ今日、自宅に招いて切り出したのかと言えば、高岡さんにいつもの表情でごめんなあれは冗談だからもう二度と気にしなくていいからな、と言ってもらうためだったのだと思う。 「……おじゃましました」 きっと高岡さんにも伝わっているであろう利己的な考えには言い訳も浮かばず、そうしているうちに高岡さんはドアを開けて出ていった。何も言えないまま見送った数秒後、後を追って玄関を飛び出す。アパートの下で、その背中をつかまえた。 「高岡さん!」 「……」 「傘!」 「……え?」 「傘、使ってください! もうだいぶ濡れちゃってますけど、それでもあったほうがいいと思うんで!」 高岡さんはぽかんとした。こんなシーンだし、雨はドラマチックなほど強くなっていたし、俺はもっと違うことを言うべきだっただろう。俺が追いかけて伝えたのは、どうでもいいわ、と言われたら頷くしかないバカ丸出しの台詞だった。おまけにあせって履いたスニーカーが階段の途中で脱げていて緊張感のかけらもない。差し出したばかりのビニール傘をすぐにでも回収したいくらいに、いたたまれない無言が続いた。 それから、高岡さんが笑った。 「お前あほだろ」 「……」 「なんでこの状況で雨のこと気にしてんの」 「……すいませんね」 「俺ね、伊勢ちゃんの優しいとこ、ほんと好きだよ」 日常的な会話の先、高岡さんはいつもの表情で、優しく俺を現実に囲い込んだ。

ともだちにシェアしよう!