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『今、どこにいる?』
電波のエフェクトがかかったその声を、廊下にうつぶせたまま聞いた。
『昨日預かったレジュメを渡したいので……いや、誰かに預けてもいいんだけど……。とにかくこれ聞いたら連絡ください』
雷雨のパワーはすさまじいのだと、自宅に帰るなり実感した。バイト中は気が張っていたのだろう、普段どおりに動き回っていたのだが、自宅に帰った瞬間に電池が切れたように廊下へ倒れ込んだのだ。
翌日の昼近く、着信音で目を覚ますと留守電に高岡さんの声が入っていた。ようやく現実に引き戻されたような曖昧な心地で、どうにかベッドへ向かう。そして1時間後、鍵をかけ忘れていた玄関ドアが開いた。
「おじゃまします」
「あ……すみません、来てくれたんすか、ありがとうござ」
「お前さあ」
「……え?」
「電話つながんねぇし返信こねぇし、やっと反応きたと思ったらウサギが寝込んでるスタンプ一個って、肝冷えるからほんっとやめてくれ。まじで心配した」
「あー……すいませ……」
「……いや、まあ、謝らせるようなことじゃないけど。ごめん、寝てていいよ」
近頃高岡さんの感情に触れることが多くなったと、キッチンへ消えていった背中を見送って思う。ビニール袋から飲み物と薬を取り出す表情は、ちょっと見慣れないほどに緊迫していた。高岡さん怒ってんのかなと、布団の中でおとなしく目を閉じながら思う。しかしそんな不安は、次に目を開けたときにはテーブルに用意されていた食事が打ち消した。高岡さんの「まじで心配」を象徴するように、野菜のたっぷり入ったうどんは美味い。
「あぁー……超うまい……」
「よかった。味濃くない?」
「全然。あー……メシ食ったら一気に元気になった感じします……」
「メシちゃんと食ってんの?」
「……カップ麺とかなら」
「そのわりには伊勢ちゃんちいつも米とか野菜とかちゃんと揃ってるよな」
「実家の母ちゃんが送ってくるんすよ。料理できないし腐らせるの悪いからいいって言っても容赦なくて」
「いいじゃん。優しい家族がいんの最高じゃん」
「でもいつも余っちゃうんですよね……あー俺が高岡さんだったら毎日こんなメシ食えんのに……」
二杯目をもぐもぐ食べながら勢いまかせに訳のわからないことも口走ってしまうのは、熱のせいだ、きっと。衰えない食欲を振りかざす俺の隣で、高岡さんも同じように麺をすすりながら、言葉さえもゆっくり噛み砕いて飲み込むのだった。
「そういうのすげぇうれしい」
「だってメシの才能って一番……」
「最近セクハラばっかしてるし、連絡なかったから昨日のアレはさすがにやりすぎたって反省してたんだよ。だからうれしい。俺が色々思い込んでても、伊勢ちゃんは会ったら一緒にコンビニ行こうとか、メシうまいとか言ってくれんの、うれしい」
「……中学生みたいなこと言いますね」
「うるせぇよ。……俺も自分で思ったよ」
「俺、高岡さんのこと基本的に尊敬してるんで」
「中学生なのに?」
「そうです。意味わかんねぇこと言うし、やるし、訳わかんない人ですけど、尊敬してるんで。好きなんで」
「……」
「俺、高岡さんのこと好き……ですよ。でも高岡さんに昨日みたいなことされるたびに、自分の好きは恋愛の好きとは違うんだなって思います。高岡さんとは同じ気持ちになれないって思うんです」
沈黙に耐え切れず箸をすすめる。昨日までキッチンで寿命を待つばかりだった野菜は甘く、噛むたび気持ちがぶれそうになるのをうつむいて耐える。ようやく沈黙を破った高岡さんの言葉は、予想外のものだった。
「……尊敬されてんのかぁ」
「え、そっち!?」
「うん。伊勢ちゃんが俺のこと恋愛対象として見てないことなんて分かりきってたし、それはいいんだけど、尊敬されてんのは予想外」
「してますよ。まじでいい人だなって思ってます。俺も高岡さんみたいになりたいって思います」
「メシ作れるから?」
「それも……ありますけど、例えばさっき友達に『風邪ひいたから発表行けない』って連絡したら『逃げやがった』って言われたんすよ。冗談だって分かってるしそれはそれでいいんですけど、高岡さんみたいに心配してくれる人ほかにいないから」
「それも伊勢ちゃんに下心あるからやってるのかもよ。伊勢ちゃんと付き合えないって分かったら急に冷たくなるかもよ?」
「んー……でも、だからって俺から嫌いになることはないと思います」
「なんで」
「……勘。」
すっぱり言い切ったら高岡さんは声を出して笑った。
「どんな泣けるセリフくるかと思ったら勘かよ、適当じゃねぇか」
「だって分かんないんすもん! ……もう全部分かんないんですよ。俺高岡さんのこと好きだけど、恋愛としては好きじゃないし、でも付き合えないなら友達関係もなくなるのかと思ったらそれは絶対嫌だし、冷たくされたらそれはそれで仕方ないとは思いますけどやっぱ寂しいし……もーほんとどうすりゃいいの……」
これまでには見せることのなかった感情が覗いても、それは本来の高岡さんの姿なのだろう。揺れたりぶれたりを繰り返しているのは俺だけだ。人の気持ちを無視して自分の世界に匿いながら、失うのを怖がるのはエゴイズムだ。口から言葉が飛び出すたびに一歩戻ってやり直しをしたくなる俺の前で、高岡さんはまろやかな表情をしていた。
「伊勢ちゃん、男好きになったことある?」
「ないっすよ。ないから悩んでるんですもん」
「案外悩むほどのことじゃないかもよ」
「それこそ適当じゃないですか」
「じゃあ試しにキスしてみよっか」
「……それはだめです」
「なんで?」
「……風邪引いてるから」
「……お前ね。そうやって毎回毎回思いつきの言い訳してるとそのうち逃げられなくなんぞ。元気なときに『今は風邪引いてないからキスできるでしょ』って詰め寄られてもうまく言い逃れる方法瞬時に思いつかないだろ?」
「その時はその時です」
「……片づけしとくから、寝てな」
高岡さんは、こちらを見ずにひどく落ち着いた調子で言う。食器を持って立ち上がる背中を見ていたら熱が上がってきた気がした。布団にもどってこんこんと眠り、次に目を覚ましたときには高岡さんはもういなかった。
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