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第七話 宿借り

 鬼化(きか)が解けたのは十日後だった。 朝起きて、洗顔を終えて鬼化が解けた事に気付いて、屋敷の周りを掃除している柚葉(ゆずは)の元へ。  張られた結界を一旦解いて、再び張り直す。こういうのも練習の一つだ。柚葉に褒められたくて、かなり複雑なモノを作り上げた。  五階のベランダから飛び降りてもなんの問題もない身体に感謝しつつ、ひらりと手摺を乗り越えると、目標着地点には既に柚葉がいて、両腕を広げて待っていてくれた。  まったく、本当になんでもお見通しだな、と一人ほくそ笑んで柚葉の腕の中へとダイブした。 「紫苑(しおん)、危ない」 「危なくないの、知ってるでしょ?」  五階どころか多分十階から飛び降りても大丈夫そうだ。それを解っていながら柚葉は俺を抱きしめ、心配する。  相変わらず過保護で溺愛してくれる柚葉にありがと、と頬擦りをした。 「掃除、終わったの?」 「いや、まだ。昨日は肝試しが数人来ていたからな……来ても良いけど、他人様の敷地にゴミを撒いていくのはどうしたものか……」  (あやかし)使って脅しあげてやろうか? と呟く柚葉は面倒くさそうに手にしたゴミ袋に踏み潰されたタバコの吸殻を入れた。 「手伝う」 「あれ? 紫苑、鬼化が解けたのか?」  角のなくなった頭を撫でられ、頷くと 「自分の意志で鬼化できるか?」  と問われてしばし悩んだ。  自分の意志で、なんて考えた事がなかったけれど、それもいずれ必要になるだろう事は理解できた。 「あとでやってみる……今は掃除」  大通りから何本も枝分かれして、道は徐々に細くなり、舗装もされていない林に続く道だけになる。  その林の中を枝葉を掻き分け進めば、やがて林は森へと姿を変え、道は獣道のみとなる。 このまでの道のりでもそれなりに肝試しは楽しめるだろう。  街灯もなく、たまに梟が鳴き、夜行性の動物が動き回るせいで、森に慣れていない人間は簡単に驚き、暗闇に恐怖する。  それでも多くの人が洋館までやって来るのは、決定的な恐怖を味わっていないからだ。それを洋館で体験できるとワクワクしながらやって来て、大した事は何も起きなかった事に安堵して帰って行く。  大人数であればある程、肝試しはお祭騒ぎに変わり、自分を大きく見せたいヤツはどんどん不遜な態度に変わり、終いにはゴミを撒いて帰って行く。  それを片付けるのはいつも柚葉。  タバコの吸殻や空き缶、菓子の空袋などはまだ良いと柚葉は言う。 「確かに壁にスプレーされたら落とすの大変そう……」  ざらりとした壁に寄り掛かった柚葉はにっこりと微笑むと 「まぁ、壁に術をかけて落書きできないようにしてしまえば良いんだが……それもな……愚かな若者の特権を奪うようで嫌なんだ……」 「なるほど……って、薄っすら術かけてんじゃん!」 「それは……少しでも掃除を楽にしたいじゃないか……」  悪びれる風もなく鼻の頭を掻く仕草さえ優雅に答えた。  確かに……デッキブラシと市販の洗剤でアーティスティックでド派手な落書きを消すのは骨が折れる。 「なぁ紫苑? この“喧嘩上等”や“天上天下唯我独尊”や“夜露死苦”なんかは、何度も何度も何度も書かれるんだが、流行りなのか?」  ヨレたスプレー文字をなぞる柚葉の言葉に顔が熱くなる。  恥ずかしい、というかなんというか……。 「いや、流行ってはいないと……」  思いたい。 「ふぅん……日々、喧嘩に明け暮れた挙句、伝承に聞くセリフの解釈とはな……唯一この世に君臨したと自意識過剰な誤認識。その上夜露の厳しい季節に苦しみ死に逝くのが望みの奴がたくさんいる、という事か。ふふ、人は愚かでなんとも愛おしいな……」  夜露死苦、をそんな風に解読した人は初めてだ。  柚葉の雰囲気に、ただの当て字だよとは言えず、柚葉の手からデッキブラシを奪った。 「……まぁ、昔気質な暴れん坊達の常套句っていうか……落書きする時の決まり文句みたいなモンだよ」 「なるほど、納得した。こういう絵画が浮かばない時に書くんだな?」  スプレーアートが浮かばない時に天上天下唯我独尊を書くかと言われれば、それは違うのだが……。 「美的感覚の違いってヤツじゃない?」  ごっしゅごっしゅと壁を擦っていくと、単色で書かれた漢字と色鮮やかな新鋭アートは混じり合って、お互いの色を殺し合いながら黒ずんだ液体になって地面に吸い込まれていった。 「紫苑のおかげでずいぶんと早く掃除が終わった。ありがとう」 「それは良いんだけど……このゴミ、どうすんの?」 「ああ、溜まれば飛影(ひかげ)に運ばせる。あいつはカラスだからな、ゴミ置場にいてもおかしくないだろ?」  自治体指定のゴミ袋を両脚に引っ掛けて飛ぶ飛影の姿は想像するだけで笑えた。ゴミを荒らすカラスはたくさんいても、せっせと分別されたゴミを運ぶカラスは飛影くらいなんじゃないだろうか?  そのうち有名になって、テレビに出ちゃうかも、と柚葉に言うと 「そうなると厄介だな」  と呟いた。 「あいつは調子が良いからな。おだてられて人の言葉を喋って聞かせてしまうかも知れん」 「……そんなに阿呆(あほう)ではないぞ?」  ばさばさと俺の頭に舞い降りた飛影が溜め息混じりに文句を言う。 「やあ、紫苑。久しぶり」 「五日ぶりくらい?」 「鬼化も解けたか。これで人の中にも行けるな。うん、鬼化最中の長い髪も美しかったが、この短い髪も良く似合っているな」  つんつんと痛くない程度で俺の髪を嘴で引っ張る飛影にお礼を言うと、ずいぶんと機嫌の悪くなった柚葉が俺の頭から飛影を落として、深い溜め息をついた。 「俺が言う前に……呼んでもないのに来るし……貴様……」 「おや? (おさ)はまだ紫苑に伝えていなかったのか? 相変わらずヘタ……奥手だの?」 「……貴様、今、ヘタレ、と言おうとしたな? な?」 「バレた? いやいや、してなっ! 言ってなっぐぇっ! 長! 主人(あるじ)って!」  まん丸の飛影の目が必死で俺に助けを求めている。  俺はこの二人の関係性について内心首を捻りながら柚葉の手から飛影を救出した。  主従関係のはずなのに、飛影は柚葉に言いたい事をぽんぽん言う。柚葉も真剣に怒るでもなく、うるさいなと外へ投げ出すだけ。  主従関係というよりは、古くからの友人って感じだ。 「で? 飛影が来るって事は?」 「そう! 人が来るぞ! それを伝えようと思って飛んで来たのに!」  俺の言葉を助け船に、ぎろりと柚葉を睨んで飛影は俺の肩に止まって毛繕いを始めた。 「人? こんな早くに? 肝試しには早いし……廃墟マニアとかかな?」 「老人だった。あの足ならまだここへは辿り着かんだろうと思ってな。一応報らせに参ったのよ」 「老人……死にに来られたなら面倒だな」  うんざりと呟いた柚葉に飛影がすぐに声をかけた。 「それはなかろう。荷物を持てるだけ持っておったし、生きる気力もそうないが死臭もせなんだ。おそらくは放浪だろう。なので結界は承知の上で如何なさるか飛んで来た次第なのだ」 「ホームレスかな……柚葉、どうする?」 「居付かれても厄介だ。二、三日様子を見て出て行ってもらおう」  どうやって出て行ってもらうのかは、なんとなく想像がついた。  きっとこの洋館に新しい恐怖伝説が追加されるのだ。 「喰わないの?」 「喰わん。老人だろう? 喰う程の欲ももう持ってはいないだろう」 「そっか……あ!」  人間の浸入を報せる結界が鈴のような音を立てて、飛影の見た老人が林から森へと入ったのが解った。 「早々に部屋へ戻ろう」  そう言って掃除道具を片付けた柚葉がひょいっと俺をお姫様抱っこして微笑む。  昔の俺なら恥ずかしがって暴れたかも知れないけど、今はもう違う。  ぎゅっと柚葉の首にしがみついて、早くお茶にしようよ、と甘える余裕さえあるのだ。  柚葉は嬉しそうに俺の額に唇をつけて 「そうしよう」  と答えて、一気に五階まで戻ってしまった。  飛影は柚葉の頭の上に移動していて 「仲良き事よ」  と俺達をからかって柚葉に文句を言われている。慣れた様子で柚葉の文句を右から左へと聞き流し、ソファの上に居場所を移して、柚葉の淹れるお茶を待っている。  ベランダの結界、褒めて欲しかったのにな……。  恨めしくベランダに続く窓を見ていると、頭の中でガラスが割れるような音が響いた。 「来たな」 「……みたいだね」  どんなおじいさんなのか見てみたいけど、バレるとヤバいので柚葉が戻るまで我慢。  それでも声は聞こえてくる。 「こっりゃあ大層なお化け屋敷だ。キレイなもんだ! ってクソ、鍵締まってんのか……」  ガチャガチャと玄関のドアノブを揺すって、諦めたのかガンッと蹴り上げる音の後は静かになった。  そのうちガラスの割れたままにしてある肝試しさん専用入り口に気付くだろう。  一階は完璧な廃墟だ。壁紙も剥がれ、腰を下ろしたらすぐに崩れてしまう腐った木の椅子が置いてある。  それでも二、三日なら雨露凌ぐには問題はないだろう。  実際に生活を共にするわけでもないのに、できれば良い人だったら、と思いながら柚葉が戻って来るのを待った。

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