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第八話 失敗作
ホームレスのおじいさんが一階に住み着いて今日で三日目。
柚葉 が決めた期限だ。
「追い出すの?」
「あぁ。見る限り極悪人ではなさそうだが、どこから仕入れたのか山のように酒を持っていてな……」
一部屋空き缶と空き瓶で埋まりそうだと、いつものように俺を膝に乗せて柚葉は苦笑した。
「それに……聞こえないから平気だと言っても紫苑 は声を抑えてしまう……楽しさ半減だ」
と不満気な柚葉の首筋にごめんとキスをする。
おじいさんがいるのは一階で俺達は五階で、しかも結界張り巡らせて声どころか気配さえも向こうには解りはしないのに、ついあの時の声を抑えてしまう。
それを柚葉はおもしろく思っていないのは充分理解している、けど。
いくら欲望に忠実になったからって、それを晒せるのは柚葉限定であって、第三者がいればさすがに羞恥心が発動する。
唇を噛む俺を見て眉を寄せる柚葉は声を出せと無理強いする事なく、むしろ派手な声が出ないように優しく穏やかに抱いてくれた。
……俺達にはシないっていう選択肢はない……
「腹は減らないか? 紫苑」
「うん。クッキーもあるし」
お茶と一緒に出されるクッキーやパンケーキは市販の物だったり柚葉の手作りだったりで、その日によって違う。今日のは市販のチョコチップクッキーだ。それを一つ手に取って柚葉の唇に押し当てた。
「……そうじゃなくて……喰らいたいと思わないか? お前を鬼にしてからずいぶん経つが……」
鬼になってから今日まで俺は人の魂を喰いたいと思った事がない。喰らいたいと思う事が鬼としての本能らしいが、俺の腹は一向にその気配を見せない。今まで……人間だった頃と変わらぬ食事で満腹するし、満足なのだ。
「柚葉だって、食べてないじゃん……」
鬼神がその力を維持する為にどれだけの質と量の魂が必要なのかは俺には解らないけど、柚葉自身も魂を喰らってはいない。
俺に隠れてっていうのは四六時中一緒にいるし匂いで解るから、していないのは確実だ。
柚葉は喰らいたいと言い出さない俺を心配してくれている。
そして俺はそれがイヤだ。すごくイヤだ。
「不思議と腹が減らないんだよ」
「……なら良いけど……」
ぎゅっと柚葉の首筋に顔を押し当てて、新たな自己の現実から目を背ける。
――自分の意志での鬼化 ができない――
柚葉に抱かれ、意識が朦朧として前後不覚となると気付けば鬼化している。おそらく柚葉はそんな俺の突然の鬼化に合わせ自分も本来の姿に戻って俺を抱いている。それは欲望に忠実な者にとってどれ程の忍耐を強いるのだろうか。
最初から本来の姿で抱き合えれば良いのに……人間だった時も鬼になった今も変わらず柚葉に気を遣わせている、というのがものすごくイヤだ。
何が引き金で鬼化するのかも解らない。
人の魂を喰いたいと思わない時点で俺は失敗作なのかも知れない。
せっかく柚葉と同じモノになれたのに、柚葉と同じ時間を過ごせるようになったのに、このままじゃいつか愛想を尽かされるんじゃないか、と心の奥底で怯えている。
鬼神の頂点に立つ男の隣が失敗作だなんて笑えない。
「柚葉、ごめん……」
「……紫苑が謝る事は何もないだろう?」
甘やかすような宥めるような声音は決して俺を責めないけれど、逆に俺はそれがツラい。
自分の意志で鬼化できないという事は、いざという時妖力を完全には解放できないという事で、やはり柚葉に頼らなくてはならないという事だ。
俺が柚葉の足手纏いになるという事だ。
「それはそうと、陽が落ちたら、あのじいさんを追い出そう」
「うん。任せる」
はぁ……と柚葉の溜め息が首筋に落ちて、胸が痛む。
「紫苑、何を思い悩んでいる? だいたい察しはつくが、ちゃんと知りたい。言ってくれないか?」
ん? と促す深い緑の瞳に映る俺はなんと情けない顔をしているのだろう……。
「……鬼化、できない……何度やっても失敗する……」
鏡に映った自分の姿を思い出して、神経を集中しても頭から角が生える事もなければ髪が伸びる事もない。
ただ瞳の色が薄紫なだけ。
「結界の張り方も解き方も覚えた……でも鬼化だけできない……」
「それは問題か?」
「……また柚葉の迷惑になる……」
「また? 迷惑をかけたのは俺の方だろ? お前を鬼にしたのは俺だ。勝手にな。だから謝る事はない……何があろうと俺が護ると誓った」
「でも……」
反論しようとすると、頑固者め、と囁いた柚葉の声に目を閉じて、頭に蘇った古い記憶を消し去ろうとした。
腰に手を当てて、不機嫌さを隠しもせずに俺を見下ろす本当の母親……。引っ込み思案だった俺にいつも苛立っていて、俺を失敗作と呼んだ人。
「……失敗作……」
「紫苑!」
初めて柚葉の声に俺を咎める色がついて、俺は自分が失敗作だと口に出してしまった事を知った。
「まだ鬼化するキッカケが掴めていないだけだ。紫苑はちゃんと鬼化できるじゃないか……自分の事を失敗作なんて言うなよ」
じぃっと見つめられて、いたたまれなくなった俺は柚葉から顔を隠すように俯いた。
「俺、昔から、鈍臭くて……」
「そうか? でも紫苑は失敗作なんかじゃない。俺を信じろよ。庭に出ようか、紫苑」
ひょいっと俺を膝に乗せたままの体勢から軽々と立ち上がり柚葉は歩き出す。
「あ、歩く! 歩くよ!」
鬼化もできない上に移動も柚葉に抱えられて、なんて。これじゃ本当におんぶに抱っこじゃないか……。
降りようと暴れる俺をキツく抱きしめた柚葉は声に妖力を混ぜた。
「イヤだ。俺が離したくない。おとなしく運ばれろ」
途端に身体から余計な力が抜けて、それでも腕だけはしっかりと柚葉の首に絡めている。
「ズルいな……そんなに力を込めて言われたら……」
がんじがらめ、だよ。
蜘蛛の巣に掛かった蝶……は良く言い過ぎか。蛾だな、俺は。
蛾でもこんなに綺麗な鬼に喰ってもらえるなら文句はない。
「紫苑の悪いトコだな。自己評価が低過ぎる」
「……う、ん……」
「でもそれは紫苑のせいじゃない。そう思うように仕向けられただけの話だからな?」
「……そ、かな……俺、ホント鈍臭くて……」
「紫苑の昔話が聞きたいな」
そう水を向けられ、俺は柚葉の淹れてくれたあの美味しい緑茶の入った湯呑みを両手に包んで、ゆっくりと話を始めた。
昔から人見知りで、友達を作るのがひどく苦手で、一人で過ごすのが好きで……。それで母さんは苛立っていた。幼稚園の、多分年少組の時だと思う……同じクラスに父さんの会社のお偉いさんの息子がいて、仲良くするようにって言われたんだけど……上手くできなくて……。虐められてたワケじゃないよ。ただどうやって輪に入って良いか解らなくて、気付いたらやっぱり一人で。それを迎えに来た母さんに見られる度に怒られて……絵ばっかり描いてるからダメなんだって言われて、綺麗な色のクレヨン捨てられたんだ……あとで解ったんだけどさ、そのお偉いさんの息子が絵画教室ってのに通ってたんだって。だけどお絵描き大会で俺が金賞獲っちゃって……ははっ、空気読むとか解んなくてさ。俺、鈍臭くさいから……。
褒めてもらえると思ったんだ。
でも、違った。
その辺りから父さんと母さんは俺のせいで喧嘩ばかりするようになって、父さんは家に帰るのがどんどん遅くなって……母さんも度々出掛けるようになって……。
「ん。もう良いよ。解った」
ふんわりと肩を抱いてくれた腕は、俺には毛布のように温かく思えた。
「涙が止まったら、お茶を飲むと良い」
「……ふぇ!? な、泣いてる? ウソ!」
「……なぁ、紫苑。成長した今なら解るな? それが大人のエゴでしかない、と。自分の子供に無理強いした、ただの自己保身でしかない、と。解るな?」
慌てて涙を拭う俺の頭を大きな掌で包んだ柚葉はまるで子供に言い聞かせるかのようにゆっくりと妖力のこもっていない言葉を発した。
「紫苑は何も悪くない……好きな事をしただけだ。それを取り上げられて責められるなんて、本来なら紫苑が怒るべきなのに、大人は最大限に親という立場を利用して紫苑を追い詰めた。紫苑は悪くないよ……俺の言う事は納得できるか?」
柚葉の言葉を頭の中でゆっくりと噛み締めて、こくりと頷いて一口緑茶を飲んだ。
「俺から言わせたら、失敗作なのは紫苑の親の方だ。紫苑は優し過ぎる。俺にはもったいないくらい、完璧だ」
愛してる、と囁く柚葉に捨てられたら……俺はきっと生きてはいけない。
身体はそんなに簡単に死なないとしても、心は確実に死んでしまう。
「そんな過去が今もお前を苦しめて、鬼化できない事が更に負担になっているのなら……ちょっと人に相談してみようか? 俺としては俺に抱かれて鬼化するなんて愛しくてたまらんが、紫苑はそれじゃイヤなんだろう? 知恵を貸してくれるかも知れん奴を一人知っている。どうだ? 俺以外の鬼神と会うのは怖いか?」
怖いかと言われれば怖いに決まっている。柚葉は俺を愛してくれるけど、その人はどうなんだ?やっぱり失敗作のくせにって思うんじゃないのか?
でも……今のままじゃ、一人で鬼化なんてできないだろう……これは賭けだ。
「その人、良い人?」
「ふふ、鬼神に良い人かどうかというのは難しい質問だな……鬼だからな? でも信頼できる奴だ。紫苑の事もきっと気にいるだろう。だが紫苑がイヤなら、焦る必要はない。時間はあるんだ、ゆっくりと鬼化のキッカケを探っていこう」
長 が信頼できると言うのなら、そうなんだろう。
「……解った。信じてみる……会ってみる」
「そうか。でもムリはするなよ? 飛影 ! 飛影、大銀杏の木の結界を解いてやる。入って来い!」
ばさりばさりと聞き慣れた飛影の羽音がだんだんと大きくなって、珍しく飛影は柚葉の肩にも俺の頭にも降りずに、俺達の正面に据えてある庭石に降り立った。
「御用は?」
「朱殷 をここへ。長としての命ではない、個人的な相談だ。急かす必要はない。あと翳狼 に一階に住み着いた老人を日が暮れたら殺さずに追い出すよう伝えてくれ。良いか? くれぐれも殺すなよ? 脅すだけで良い」
「御意」
いつもの漫才みたいなやり取りはなかった。
飛影は恭しく頭を下げ、次の瞬間には大きな翼をはためかせ、大銀杏の木の上へと消えて行った。
「飛影……俺には一言も話さなかった……」
ネガティヴな思考に陥っている俺には、飛影の態度がひどくよそよそしいものに思えて、柚葉より先に飛影に愛想を尽かされたのだろうかと苦い気持ちになった。
「紫苑、お茶のお代わりを」
「……ん。ありがと」
傍 でお茶を淹れ直す柚葉がくすりと笑った。
「紫苑? アレは確かにお調子者だが、愚か者ではない。そんな泣き腫らした目の紫苑に己がかけられるような言葉が見つからなかったのだろうよ」
「……目、真っ赤?」
「真っ赤。ウサギみたいだ。ウサギみたいで可愛いが、アレの態度にそこまで落ち込まれると……俺が妬いてしまうぞ?」
とん、と押し倒された視界にはより濃く色付いた紅葉が広がり、それを全て隠すように深い緑でいっぱいになる。
「綺麗だね」
「あぁ、綺麗だ」
俺の不安ごと覆い尽くしてくれる柚葉の身体に腕を回すと、少しだけ心が軽くなった気がした。
柚葉の舌が口の中で蠢く度に不安が薄れ、裸に剥かれ柚葉を受け入れる頃には、何も考えられなくなった。
「大丈夫だよ、紫苑」
甘い柚葉の声に目を開けると、立派な角の生えた柚葉が微笑んでいた。
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