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第二十一話 仕組まれた下剋上
男の目は輝きがなかった。
ひたすら暗いタールのような闇色の瞳に見つめられても、不思議と恐怖心は湧かなかった。
それもそのはず。
俺の肩はしっかり柚葉 が抱いたままだし、指輪からはよくダイヤが耐えられるなってくらいの妖力が溢れ返っているし、翳狼 は気を張りいつでも男が何かしら不審な動きをしたら襲いかかれるように身構えている。
「それで? 中で茶でも? なぞ言わんぞ、俺は」
「……はい」
静かだけど重い柚葉の声に男は力なく返事をして、視界から消えた。
男が消えたのではなく、土下座していたと気付いたのは柚葉がおもしろくなさそうに鼻を鳴らし、視線を顔を下に向けたからだ。
「申し訳ありませんでしたっ! ちゃんと言って聞かせたつもりが……」
「アレはなんだった?」
「はい、アレは……理不尽に人に殺された獣の集合体で、やっと人型をとれるようになったばかりの新顔の妖 だと……」
だから異常に凶暴だったのかと納得した。
楽しそうに俺をいたぶっていたのは、生前の怨みを晴らしていたという事だろう。
「それにしてはおかしいな? 何故そんなやっと人型をとれるようになったばかりの下級妖魔が西洋魔術を織り込んだ結界を張れるんだ? お前達妖魔の間ではすぐに結界と西洋魔術を学ぶのが今の流行りか?」
「いえ、それは……アレは流れ者と言いましょうか……ふらっと現れてエサ場を教えて欲しい、腹が減って死にそうだと言うのでこちらを教えたんです。きちんとこちらの鬼神様の言う事を聞くようにと言ったのですが……その……」
「俺の愛する者をずいぶんな目に遭わせてくれたものだ。頭を上げよ、話がしづらい」
そう言われても男は土下座のままで、身動ぎ一つしない。
「森に入ればそちらの狼殿に追い返され、我々はエサ場を失くし、空腹に耐えられぬ者は所構わず暴れ回り、もう私の手に負えません」
「あぁ、蘇生に忙しかったのでな。落ち着くまでは俺から愛する者を奪おうとした貴様らなど飢えようが共喰いしようがどうでも良かったのよ。それで?」
もう既に柚葉は面倒臭そうだ。
早く部屋に戻って温かいお茶が飲みたいと俺を見る目が言っている。
「どうか、再び我らにエサ場を与えてください! 今まで以上にキツく言って聞かせます! でないと……でない、と……」
シュッと風を切る音がしたと思った瞬間、腹に衝撃が来た。
男の口から伸びた舌がまるで鋭い剣のように突き出されていたが、俺を護る柚葉の妖力に弾かれ、引っ込める間もなくそのピンクと茶色の混じった舌は柚葉の手に掴まれていた。
翳狼は獲物を仕留める寸前の状態で男の首根っこを押さえ込んでいて、柚葉の合図でいつでも噛み殺せる準備をしている。
全てが一瞬だった。
「大丈夫か? 紫苑 」
「大丈夫。ポコって当たっただけ。痛くもなんともない」
ならば良い、と残虐な薄笑みを浮かべた柚葉が更に舌を握ると、掴まれた先の舌がものすごい勢いで腐り始めて、ぼとりと地面に落ちた。
「俺の力を見くびってもらっては困る」
「くそぅ……そいつを殺せば……」
悔しそうな男の声は舌先を失ったからか、先程まで聞いていたものとは違った。
ぐりんと眼球が一周し、男の骨格が嫌な音を立てて変わっていく。翳狼は視線で柚葉に指示を仰ぎ、柚葉は小さく頷いて待機を命じた。
「紫苑を殺せば、なんだ?」
「ふっははっ……鬼神にしてもらえるはずだったのに! まさか管理者の力がここまで強いとは!」
深い深い溜め息の後、柚葉は今まで取り込んで来たものの姿へと次々と変化する男に冷たい声で自分の立場を伝えた。そして俺の序列も。
「はぁ!? 聞いていないぞ……聞いていな、騙された……鬼神の長 、頭領なんて聞いてない……序列一位……勝てるはずがな……」
「誰に吹き込まれた。消える前に言え」
強い妖力をまとった言葉に男は地面をのたうちながら
「やまぶき」
と答えて、柚葉の脚に縋りついた。
「騙されたんです、貴方の傍にいる男は弱いって! 簡単だって! あぁ消えたくない……せっかくここまで来たのに……消えたくない……助けて……」
「貴様、たった今、紫苑を消そうとしただろう? 残念だが俺は寛大な質 ではない。翳狼! 片付けろ」
「御意」
「待って! 騙されたんだっ! 序列一位の相手に仕掛ける程俺はバカじゃない! 知らなかったんだ! 本当に! 貴方が頭領だって事も、そいつが頭領の伴侶だって事も! 殺せば俺を鬼神にしてくれるって言われただけで……」
「……そいつ、だと? 無礼者が。殺れ、翳狼。済んだら部屋に報告に来い」
「承知」
男を蹴り払うと柚葉はあっさり背を向けて歩き出し、俺が振り返る事も許さなかった。
背後から聞こえる悲鳴と肉を裂き骨を割る音で何が起こっているか推測するしかないが、脳裡には昨夜の天翔 の姿が浮かんだ。多分似たような事になっているのだろう。
「胸くそ悪い……久しぶりに紫苑の好きなレディグレイでも飲むか」
問いかけのような独り言のような柚葉の言葉に頷くと、柚葉は一瞬で五階のベランダに俺を抱いたまま飛び上がり、サッと結界を解いて、部屋に俺を残してキッチンへ行ってしまった。
「紫苑? 何があった?」
「え? あ、飛影 ……起こしちゃった?」
「寝てはおらん。目を閉じて羽を休めておっ――」
「殺されかけちゃった!」
心配させないように明るい調子で言ったのに飛影は慌てて俺の膝の上に移動して来て、何度も顔の角度を変えて俺を見る。
「大丈夫だよ、怪我一つしてないよ! すごいよね、柚葉の妖力って! 妖魔の攻撃跳ね返したんだよ! バリアみたい! それに柚葉もさ呪文も唱えないで相手の身体腐らせちゃうし、翳狼の動き、めっちゃ速い! 見えなかった!」
「……ごまかすな……怖かったのだろう? 当然だ」
怖かったのかと言われれば、怖かったのだろうかと首を捻る。
あまりに一瞬で恐怖心を覚える暇もなかった、というのが本当のところだ。
ただ、俺を邪魔に思い亡き者にしようとしている者がいる、というのは良い気分ではない。
「やまぶき……」
「何?」
「やまぶきが俺を殺せば鬼神にしてやるって妖魔に言ったんだって。飛影、やまぶきって人、知ってる?」
やまぶき……はて、やまぶき? と繰り返し呟く飛影。
「……四、五十年前に一度、抱いた女だ」
飛影の呟きを遮って、紅茶が置かれると同時に柚葉の苦々しい声音が頭上から響いた。
「あぁ、そう、なんだ」
「すまん」
隣に座った柚葉は俺に触れても良いのか躊躇っているようだった。
柚葉が淹れてくれたレディグレイは相変わらず香が良くて、冷えた身体と不安な心を鎮めてくれる。
「美味し……」
「紫苑、あの……」
「謝んなくて良いよ? 俺言ったよね? 連れ合いになったのが俺だけならそれで良いって。俺が産まれてもいない過去の事を言ったって意味ないし……それとも柚葉、その人の事本気で好きだった? 連れ合いになりたかった?」
「いや。そんな事思ったのは紫苑だけだ」
良かった。俺は誰かの代わりなんかじゃないんだとそう思い、温かい紅茶に口をつけた。
「鬼国へ行く」
突然立ち上がった柚葉は既に鬼化 していて、全身から怒りが漂っている。
あまりの怒気に嵌め込まれた窓ガラスがカタカタと鳴る程だ。
「待たれよ、主人 殿!」
解いたままだった結界の隙間から巨体を滑り込ませた翳狼が報告を、と言い柚葉の前に進んだ。
「今、紫苑様を一人にするのはよろしくない……甘言を吹き込まれたのがアレ一体とは限りません」
「だからと言ってこのままでは済ませられん。こんな卑怯な下剋上、聞いた事もない……!」
ぎりっと噛まれた唇の端から血が流れ、凄まじい鬼気に翳狼でさえも言葉を失い尾を垂れた。
沈黙の中、柚葉が鬼道を開こうと腕を上げた。
そんな柚葉をぼうっと見ながら、俺はこのまま行かせて良いのだろうと思った。
行けば、やまぶきに会ってしまう。
きっと柚葉は今は問答無用で殺すつもりなのだろうけど、どんな卑怯な手を使っても俺を消したいと願う程に柚葉を愛している人に会ってしまう。
柚葉は本当に殺せるだろうか?
一度でも身体を繋げた人を。
俺はそれを望んでいるのだろうか?
自分の為に柚葉に“同族殺し”をさせたいのだろうか?
「……行かないで」
渦巻く鬼気に触れた指先がチリっと痛んだ。それにもかまわず、柚葉に抱きつくと柚葉は慌てて鬼気を抑えてキツく俺を抱き返した。
「俺を殺すの失敗したって解ったら、きっと来るよ。柚葉がわざわざ出る必要なんてない。でしょ?」
ぺろりぺろりと口の端から顎へと伝う少し乾いた血を舐め取ってそう伝えると柚葉は一瞬眉間に縦皺を寄せてから鬼化を解いた。
「そうは言ってもな……」
あんな卑怯な騙し討ちは下剋上として認められないし、下剋上だったとしても失敗してなんの咎もないのはありえないと渋る柚葉に向かって飛影が羽を広げた。
「主人! ならば私が行こう! 事の経緯を教えてくれ。朱殷 殿に伝えて来よう。今は紫苑を一人にしないでいただきたいのだ!」
「嫌な予感がする……おそらく山吹 一人の考えではなかろうよ。いつもの道で行くのは止めろ、鬼道を直接朱殷の領地に繋いでやるから、そこを行け。帰りもだ、道は開いたままにしておくからな」
飛影の頭を撫でながら天翔におすそ分けし過ぎた妖力を補給させつつ、柚葉はついさっきの出来事を語って聞かせていた。
飛影は一言一句聞き漏らすまいと口を挟まず、たまに静かに瞬きをする。
「あとな……何があるか解らん。脚を出せ」
台湾土産に選んだ指輪の嵌った飛影の脚を掴んで何やらボソボソと呪文を呟いた。
「すまんな、これ以上は石がもたない」
「充分過ぎるお心遣い痛みいる! では長、鬼道を。すぐに戻る!」
柚葉の妖力で満たされた翡翠をなんとも嬉しそうな目で見た飛影は部屋の中をぐるぐると飛び回り、柚葉が鬼道を開いた途端に弾丸のような速さでぽっかりと開いた空間に飛び込んで行った。
「翳狼は紫苑の影に入っていてくれるか?」
「もちろんです。紫苑様の危機と判断いたしましたら独断での攻撃もお許しいただきたい」
「当然だ。紫苑を傷付けようとする不逞の輩は殺してしまえ。だが、お前も死ぬなよ」
「ありがたいお言葉……では紫苑様、失礼」
翳狼は天翔の時と同じく、すぅっと俺の影に入ってしまい、部屋には俺と不機嫌そうな柚葉だけ。
「……引き留めたの、間違いだった……?」
「ん? いや……さっきは悪かった……怪我はないか? 痛かっただろう?」
柚葉の怒りの鬼気に触れた指先は確かに一瞬だけ痛みを感じたけれど、俺の指は傷どころか赤くすらなっていなかった。
「大丈夫。俺の身体、柚葉の気で護られてるんだよ? 同じ柚葉の気に触れただけだもん、平気だよ」
そんな事よりも……引き留めたのは俺の我儘だったんだろうか。
山吹に会って欲しくないと思う嫉妬だったんだろうか。
そのせいで柚葉の長としての仕事に支障をきたしたんだろうか……。
「俺のせいで、柚葉のメンツ潰した?」
「俺のメンツなぞどうでも良い……紫苑?」
すまない、と詫びるのは俺を殺そうとしたのがかつての恋人だからだろうか? そう聞くと柚葉はかぶりを振って
「恋人などではない。請われたから抱いた。それだけの相手だ」
と言って自嘲の笑みを浮かべた。
「軽蔑したか? 頼まれて気が向いたから抱いただけ。ただの欲の発散だった」
「強い者の寵愛を受けようとして、せめて身体だけでもと思う者は多いのですよ。長となればなおさら……」
影から頭だけ出した翳狼が俺に対して申し訳なさそうに、それでも柚葉を援護する。
自分よりも強い者に従いたいと思うのはきっと本能だ。鬼神として目覚めたばかりの俺も柚葉に支配されたかった。
頂点に君臨する強き者に惹かれるのは本能だろうと思う……ライオンの群のように。
「うん、なんとなく解るよ。だから軽蔑はしない。けど……」
「けど? なんだ? 不安や不満は言ってくれ。俺のせいで紫苑を危険に晒してしまったのだから、包み隠さずなんでも話すよ」
「う、ん……あの、過去の女性関係やら男性関係やらは俺なりに理解してるつもりなんだけど……その、こ、子供……いたりすんの?」
ヤる事ヤってれば子供ができるのは当然で、もし俺のせいでその子供から“お父さん”を奪っていたらと思うとかなり苦しい。
鬼神の頭領の父親はさぞかし自慢だろう。その父親が人間に惚れて腑抜けて国を朱殷に任せて帰らないなんて……。
柚葉はぽかんと口を開けて固まっている。
「……子供? 子供なんていないぞ。あのな紫苑? 鬼神は人間のような生まれ方はしない。それに、言っておくが! 俺が精を注いだのは紫苑だけだ」
「は? え? ヤる事ヤってんのに? は? どゆこと!?」
鬼神も避妊具 を使うのか? と混乱する俺の頭を撫でて
「何故これっぽっちも愛していない者に俺の妖力を与えねばならんのだ」
と言った柚葉の唇が拗ねたように尖っていて、ずっと外出しだ、と付け足した柚葉の真剣な顔は信じるに値すると思った。
「ホントに俺だけなんだ……」
くしゃっと俺の髪を優しく掴んだ柚葉がゆっくりと唇を塞ぐ。どこまでも優しい慈しむようなキスが終わると
「こんなキスも、満たされるセックスも、紫苑が初めてだ。信じるか?」
と唇が触れ合う距離で尋ねてくる。
もし嘘だったとして、それを俺に信じさせたければ言葉に妖力を強く混ぜれば俺の記憶はそうなるというのに、柚葉はそのままの言葉で俺に伝えてきた。
それだけで、充分。
「信じるよ、柚葉」
「良かった。信じてもらえなかったらどうしようかと思った」
妖力で俺の記憶なんていくらでも弄れるのに、と言うと柚葉は目を丸くして
「その手があったか……忘れてた! でもな、もうしない。紫苑から記憶を奪う事もしたくない。ちゃんと解り合いたいんだ」
と照れ臭そうに目を細め、俺の言葉を待たずに再び唇を重ねた。
柚葉の舌が咥内を這う度に、無事で良かった、紫苑ごめん、山吹殺す、紫苑愛してる……と次々と柚葉の強い想いと考えが流れ込んできて、ひょっとして俺達は朱殷と白群 のように“なんでも解り合える二人”の第一歩を踏み出したんじゃないかと思った。
だとしたら。俺の想いも柚葉に伝わる?
柚葉の舌を絡め取って、大丈夫、大好きと繰り返す。
何度も唾液の交換をして、無意識で愛してる……と込み上げて来た想い。まさか伝わってしまったかと思わず目を開けると、目元を淡く染めた柚葉が
「俺もだ。愛してる」
とやっと綺麗な顔で笑った。
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