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第三十一話 苦手なものは誰にでもある
ぬくぬくの柚葉 の腕の中で気分爽快で目覚めて、横になったままで伸びを一つ。それに合わせるように小さく唸った柚葉はまだ眠っている。
たまには俺が朝食を、と抜け出そうとするとすぐに長い腕が絡んできた。
「……ダメ、紫苑 ……」
無防備な寝顔に可愛い寝言を知っているのも俺だけなんだよね?
それだけで、なんか……きゅんとしちゃった俺はいつから乙女になったんだろう。
いそいそと柚葉の腕の中に逆戻りして、ぬくぬくを堪能しつつも起きて欲しくて寝こけている柚葉の首や頰に忙しくキスをしていると何故かいきなり視界が変わった。
「あ、あれ?」
なんで柚葉、鬼化 してるの? さっきまで普通だったのに……ゆっくりと手を伸ばして角に触れると、目を閉じたままの柚葉がふっと息を吐き出した。
「……この世が滅ぶぞ……」
「はいっ!?」
素っ頓狂な俺の声にぱちりと目を開けた柚葉が不思議そうに首を傾けて、そのまま俺の首筋に顔を埋めて、耳朶を噛む。
「おはよう、紫苑」
「おは、よっ……ゆず、なんで鬼化?」
「ん? ……あぁ、寝惚けた」
寝起きからセックスに繋げそうな動きの柚葉をどうにか止めて、まだ眠気を残した目を覗き込んだ。
ゆらりとほんの一瞬揺らいだ瞳の奥。角と髪を触っていた手で頰を引っ張りまくるとぽつりぽつりと白状した。
「笑っても良いぞ?」
「んーん、笑わない」
夢を見たんだって。俺がいなくなる夢。
柚葉から離れようとする俺の手をあの男が引いていて、ニンマリと笑うと貴方が手に入らないならこの子で良いやって俺の首にズブズブと尖った爪を立てて……。
それで出たのがあの物騒な寝言だったと教えられた。
「……紫苑が悪い。勝手に抜け出そうとするなんて」
鬼化を解いた柚葉は拗ねたような顔をして頭を掻いた。
「ごめん。たまには朝ご飯は俺がって思って……ほら、朱殷 達もいるからさ。手伝いになればって思って……」
柚葉から渡されたシャツを身に付けると布地の冷たさに鳥肌が立った。裸でも抱き合っていたらとても温かいのに。
そんな事を思っていると、柚葉に抱きしめられていた。頰に当たるシャツを通して柚葉の体温が伝わってきて、すぐに俺を温めてくれた。
「……お見通し?」
「そう、だな……なんでだろう? 解ったんだ。紫苑が寒がってるって」
俺も寒いしと付け加えた柚葉を抱き返してお互いを温め合っているとけたたましくドアが叩かれた。
「ちょー! 長 ? しおーん? 起きてーっお腹減ったんーっ! ご飯ご飯ごは……」
チッと舌打ちした柚葉は軽々と俺を抱き上げてドアを開けてしまった。朱殷はシレッと
「ん、あら?」
なんて言ってワザとらしく頰を両手で押さえてみせた。
「何を出されても文句言うなよ?」
「言わんて! 私は長の作る物が大好きじゃ! 例えそれがインスタントのカップスープでも!」
「そうか。じゃあお前にはカップスープはナシだ」
「な、なんでっ!? 鬼国にはないんよ? 密かな楽しみじゃったのにーっ!」
全然密かじゃなかったよ。朱殷がインスタントのカップスープ大好きなの、多分みんなが知っているよ……と言いたかったけど、朝っぱらから邪魔したバツだと柚葉に言われて可哀想な程眉を下げてカップスープをねだる朱殷がなんだか可愛くて黙っておく事にした。
「気を付けてね?」
「留守を頼む。もし万が一あの男が来たら、絶対に戦うな」
「逃げろと?」
「……アイツの狙いは俺と紫苑だ。何をしてきても相手にするな。ただ、紫苑の絵の道具だけは鬼道に投げ込んで守ってくれよ? 紫苑の宝物だからな」
頼むなと白群 の肩を叩いた柚葉に、連れて行けと飛影 は大騒ぎだ。
柚葉は飛影の脚を取ると傷に薬を塗り直して包帯を巻き直した。
「良いか? あの男がもし来たら、お前以外の誰が朱殷と白群にアイツだと知らせるんだ? お前がいないと二人に危険が及ぶかも知れん……今俺が頼れるのはお前だけなんだぞ」
と神妙な声で言うと、飛影は途端におとなしくなった。もじもじと新たに巻かれた包帯を見て、柚葉を見て、俺を見る。
「紫苑もそう思うか? 私は役に立てるのか?」
「当たり前! でも俺、もう飛影に怪我とかして欲しくない。飛影の事欲しいとか言ってたし……良い? 二人に知らせたら絶対戦っちゃダメだよ? 危ないからね? 隠れるんだよ?」
「紫苑……そうか、私は役に立てるのか……ならば! 早速見張りに行かねばならぬな!」
飛影は胸を張って翼を広げた。その翼を逆再生でたたんで朱殷はここにおりさん、と飛影を胸に抱いた。
「しかし朱殷殿、見張りに出ねばすぐにお知らせできぬ! 私はアイツが大嫌いなのだ!」
「大嫌いでも、長と紫苑のお願いは聞かんとダメじゃろ? 長は見張りに出ろなんて言うてないし、紫苑は隠れろ言うとるんよ? ここにおっても解るじゃろ?」
「ぐぬ……確かに解る……森や風が教えてくれる……だが! せめて! 私は! アイツの頭にフンの一つでも落としてやりたいのだ!」
カァアと悔しそうに鳴く飛影と苦笑いする俺達。飛影は何故笑われているのか納得いかないようで首を回した。
「アイツの嫌味ったらしい金髪が私のフンで汚れるのだ……胸がすく!」
「止めとけ、阿呆 。紫苑の願いを無にするな」
「ダメか……? 紫苑……?」
「ダメ、絶対ダメ。朱殷と白群に抱っこされてて」
「抱っこ……くふふ、照れるではないか……」
とかなんとか言いつつも、やっぱり朱殷の胸の谷間にさり気なく頭を埋めた飛影。ちゃっかりしてる……と柚葉と視線で語り合って、俺と柚葉は翳狼 を伴って裏庭に出た。
あまり遠くへ行っても蔵書数は変わらないんじゃないかと隣の県の図書館へ行く事にした。
隣の県なんて翳狼の脚だとあっという間で、朝食の時、味の違う五種類のカップスープを次々と飲み干してうっとりと吐息を零した朱殷の幸せそうな顔を思い出して話しているうちに着いてしまった。
「どんな本を探せば良い?」
「うーん、西洋の宗教で……」
柚葉の手を引いて、それらしい本を探す。
「……こういうのを全部読むのか?」
聖書を手にした柚葉は既にうんざりとしている。
読まなくて良いと思うと言うと、あからさまに安堵の溜め息をついて本棚に分厚い聖書を戻した。
「多分……天使とか堕天使とか。あ、これ良いかも」
俺が手にしたのは三百ページくらいの文庫本で、タイトルは『分かりやすい天使たち』だ。
「アイツ、異国の神だろう? 天使? 天使ってなんだ?」
腑に落ちない表情 の柚葉にとりあえず本を渡して、次の参考になりそうな本を探す。
「これも……あとはこれも……で、必要な部分をコピーしなきゃ」
「買った方が早かったかな?」
「ううん、俺の考えをまとめたいだけだからコピーで充分。その分さ、朱殷にカップスープ買って帰ってあげたい」
朱殷って本当に嬉しそうにカップスープを飲むんだ。ちゃんと何秒混ぜんといけんの! って説明書き通りに数えながら、スプーンでクルクルかき混ぜて。
気が強くて、大食いで。柚葉の事だってたまに顎で使うくせに情に厚くて、俺を可愛がってくれる朱殷の大好物なら、柚葉にねだっても良いかなぁ……なんて。きっと白群も許してくれるはず。
「そうだな……朱殷には世話をかけているし、今回の事では白群にも心配をかけた……ん? 俺けっこうあいつらに良いように使われて……」
「あ、柚葉、これも!」
「あ、ああ」
最後まで言わせちゃいけない気がして、新たに本を三冊柚葉に渡した。
「ほう、今度は悪魔か……あのチビには可哀想な事をした……」
あのチビ……あの男が踏みにじって消した使い魔の悪魔。柚葉は何もしていないのに、ひどく悲しそうな顔をした。
「あんな八つ当たりで消されて良い存在などいない。俺はあの男を甘く見ていたんだろうな、助けてやれなかった」
「……それは、柚葉のせいじゃない。俺への見せしめだよ」
自分より遥かに劣る役立たずで出来損ないの俺が柚葉に愛される事が許せないんだと思う。
「次っていつだろうね? 早く資料まとめて対策立てなきゃ」
もうあのチビっ子悪魔みたいなのは見たくない。俺に止めさせるだけの力は今の段階ではないけど、俺の中に芽生えた違和感をしっかり形にできれば変わってくるかも知れない。
「昔は手で書き写したものだが、便利な世になったなぁ」
右へ左へと移動するコピー機の隙間から洩れる光を柚葉は魅入られたように見つめていた。
神様にコピーを手伝わせる俺って……。
申し訳ない気持ちで柚葉を見上げると、ぽすんと大きな掌が降ってきた。
「すごいな、紫苑は。時代の最先端技術を操れるんだな」
と笑った。
俺は機械の溢れた現代に生まれた。
テレビもDVDもパソコンもスマホも身近な道具だ。
柚葉と過ごすようになって、そういう物とは縁がなくなったけど、不便だと思った事はない。
井戸水は美味しいし、必要最低限の電気は太陽光発電……あの廃墟の管理会社の人間に暗示をかけて付けさせたらしい……で不便はないし。ガスの代わりに柚葉の鬼火だし。ロウソクの灯りは柔らかくて心が落ち着く。
何かに急かされているような焦燥感がない。
「早く帰ろうね」
図書館は静かだけど、それでも冬休みって事も手伝って利用者が多い。
今までは感じなかった雑念や怨念に近い嫉妬などがたまに肌を刺してチクリと痛む。
妖 の仕業だろうかと発生源を探してみたけど、まず目に入ったのは一心不乱にペンを動かし、参考書と睨めっこしている受験生だった。
なんのかんので、日本は競争社会に変わりはないんだと、参考書と向き合う背中を見て感じた。
養子縁組の話がなかったら、きっと俺も追われてたと思う。周囲の期待や、自分の志望、きっと周りのみんなが敵に見えて、絶対に焦ってしまうと思う。
「どうした? 大丈夫か、紫苑?」
「ん、大丈夫」
「ここは痛いな……紫苑の言う通り早く帰ろう。茶でも飲みながら、この……大量の資料を頭に叩き込まなきゃな?」
少し歩いて、安売りスーパーでありとあらゆるカップスープを次々とカゴに入れる柚葉が少し嬉しそうでなんだか俺も楽しくなる。
「これだけ買えばいいだろ」
「あとはお茶の時の甘い物があれば朱殷も白群もご機嫌なんじゃないかな?」
「そうかな?」
ふっと目尻を下げて微笑む柚葉の事を朱殷は鬼神の頭領として格が違うと、俺にこっそり教えてくれた。
どんなに無惨な場面に遭遇しても眉一つ動かさず、黙々と鬼神としての仕事をこなす柚葉は、何年何百年と変わらない人の世の無情に嘆きはしても決して見捨てなかったという。
「もうな、ええやん、こんな阿呆な人間共、殺してしまえって言うてもな、短い生の中必死に生きて悪に染まる者もいれば善き者のまま死にゆく者もいる……愚かで愛おしいじゃないか…って言われたら! 自分がえらく短気な考えなしに思えてな。私が頭領やったら何百年も前にこの国、滅んどるわ」
と口をへの字に曲げて天井を見上げていた朱殷は話に聞き入っていた俺に視線を戻すと
「私が頭領じゃのうて良かったな? 紫苑産まれてないわ。それはダメじゃな。紫苑に会えて良かったって本当に思うしな」
と言って笑いながら俺の頭を撫でた。
「朱殷は? 人間、嫌い?」
「はぁ? 私の連れ合い、元人間よ!? でもな? こないだ来たような阿呆は嫌いじゃわ。けど、長の言う事も解った気がするん。私らからしたら一瞬の生命じゃもん。みんな一生懸命なんじゃなぁって。一生懸命間違った道で生きる者も苦しかろ? そういうの、私が頭領じゃったら他の者に教えてやれんかったと思うん」
頭領はあの人しか務まらんと呟いた穏やかな顔の朱殷と、今、目の前で朱殷と白群への土産を買いながら機嫌の良い柚葉との間に流れた俺の知らない長い時間とその間に培われた信頼が羨ましかった。
朱殷は柚葉を信じているから、本来なら頭領が就く事はない人間界の管理者として国を空ける事を納得したのだろうし、柚葉も朱殷と白群を信じているから大事な国を任せる事ができたのだと思う。
妬ましいとは思わなかった。
ただ、いつか、俺もその輪の中に入れたら良いなと、人間だった俺からしたら珍しく前向きに考えられたのは自分でも意外だった。
「でも、まぁ、私が尻を叩かんといけんヘタレの色ボケじゃけどな?」
とあえて付け加えた朱殷の軽口に白群も俺も、新しい茶葉とお湯を持って戻った柚葉を見て吹き出さないようにこらえるのが大変だった。
「帰ろう紫苑……何を笑っている? 何かついてるか?」
不思議そうに片手で頰を撫でた柚葉になんでもないよと答えて、人気のない場面に鬼道を開いた。
おはぎにロールケーキにチョコレート、クッキー。そして大量のカップスープ。
「これだけ買ってやって文句を言われたら、俺はあいつを殴るかも知れん」
なんて恐ろしい事を言うから、誰を? と思わず聞き返すと笑いを含んだ声で
「白群」
とだけ返ってきて、俺は翳狼の背中で声をあげて笑った。
まぁ、白群なら、ガタイも良いし……柚葉のパンチくらいどうって事ないよな?
「主人 ! ご無事のお帰り何より! あの男はまだ来ていないようだ。森も風も静かだ」
「そうか。ご苦労」
「紫苑、早く私にあの男の弱点を教えてくれ! 次に会ったが百年目だ!」
白群に抱かれた飛影が俺達の顔を見た途端にまくし立てて、両脚をバタつかせた。
「待って、待って。まだ目を通してもいないんだって!」
「うむ、そうか……すまない。つい興奮してしまって。私は弱い。嘴も爪も天翔 や翳狼にはとてもじゃないが及ばぬ。だが、どうしても一泡吹かせてやりたいのだ!」
真っ直ぐに俺を見て吐き出したのは飛影の本心だ。
それでも……。
「一泡吹かせるのは良いけど、俺の為に死んじゃダメだ」
あの時だって飛影は柚葉の使い魔でありながら、俺の事も主人と認めて命懸けの攻撃を繰り返していた。
そんなの、絶対ダメだ。柚葉が哀しむ。
「む、主人の為に死ぬは誉れ……」
「そんなの認めない!」
「……解った……解ったから、そんなに怒らないで欲しいのだ……」
柚葉や飛影の想いを知っているから尚更だ。俺なんかの為に死んじゃいけない。
珍しくキツい口調になってしまった俺に、しゅんと頭を下げた飛影。
「私はな、気味悪がられると思っていたのだ。カラスのくせに人の言葉を喋って……でも紫苑は私にとても優しく接してくれた。成長を見守ってきた紫苑と今共に過ごせて嬉しいのだ。主人に対して第二の主人と認めて欲しいなど出過ぎた願いも、主人は聞き入れてくれた。本当に嬉しかったのだ」
嬉しかったのだ……と繰り返す飛影を白群から受け取って胸に抱く。
「まだ温泉にも行ってないよ。美味しいお刺身とかステーキとか鍋とか、晩御飯は豪華だろうなぁ……」
「むむっ! すまない、紫苑」
「露天風呂とかあるかなぁ。檜風呂も良いなぁ」
「連れて行って欲しいのだっお留守番はもう飽きた!」
「ん。行こうね」
これでまだ俺の為に死ぬとか言い出すようなら、柚葉にお願いして絶対に破られない結界の鳥籠を作ってもらって監禁しよう。
「飛影も騒ぐなよ。俺達はこれから勉強会だ」
「うぇ、こんなに? こんなに読まんといけんの!?」
「……朱殷よ」
「な、なん?」
「コレを読んで頭に叩き込むのと俺達に美味い茶を淹れるの、どっちが……」
「さっ! お茶淹れて来よ! 辰臣 、行くよー!」
満面の笑みでコピー紙の束を柚葉に押し付けた朱殷が白群の手を取り、部屋を出て行く。振り返った白群の顔が心底申し訳なさそうで、俺は笑って手を振った。
「さて、と…………紫苑?」
「んー?」
「片仮名が多くないか?」
「へ?」
隣に座った柚葉を見上げると長い人差し指でトントンと不満気に資料を叩いて眉を寄せている。
「まぁ、異国……西洋だからね?」
「そうか、仕方のない事か…うぅ」
俺がペラペラと五ページ進むうち、柚葉が読み進めたのは三ページ。唸りながら、あれ誰だっけ? とブツブツ独り言を言いつつコメカミを揉んでいる。
ページをめくってまた戻る、を繰り返し……三歩進んで二歩下がるどころか、三歩進んで五歩下がっている様子の柚葉に俺はたまらず声をかけた。
「柚葉もゆっくりお茶してて良いよ?」
「いや、しかし……」
「あとで解りやすく説明するよ。だから、ね?」
ブツブツと隣で天使の名前を連呼されるのもツラいものがあるし。
「はい、長。紫苑も。お茶菓子ありがとう。どんな?」
「あ、ああ、とりあえずガブリエルとリャファ……ラファエルというのは覚えた」
「……何した人よ?」
「…………天使、だ」
「うん……まぁ、アレよ。お茶、飲みさん」
ポンと朱殷に肩を叩かれて、柚葉はバツが悪そうな顔で溜め息をついて頭を掻いた。
柚葉にも苦手な事があるっていうのがとても新鮮で、朱殷に労られる姿も新鮮で、気付いたら俺はちょっとだけ肩の力が抜けて、笑いながらロールケーキに齧 りついていた。
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