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第三十二話 ハンバーグと人参

 二日経っても四日経ってもあの男は来なかった。  一体いつが男の言う“次”なのかは解らないけど、資料を呼んで考えをまとめる時間が取れるのはとてもありがたい。 「ねぇ? 柚葉(ゆずは)って神様だよね?」 「ああ、そうだぞ? ちょっと特殊だけどな」 「特殊? それ聞きたい!」  テーブルの上に読みかけの資料を投げ出して向き直ると、うーんと唸る柚葉は言葉を探しているようだった。 「……まず、基本的に俺達は(やしろ)を持たない。崇め祀られる対象ではないという事だ。出雲にも行かん」 「出雲って出雲大社? あ! 神無月?」  そうだと頷いた柚葉は俺を膝に乗せて嬉しそうに俺の頭を撫でる。  鬼神になった事は受け入れたけど、俺が興味を持って鬼神について話を聞きたがった事はなかったから、それが嬉しいのかも知れない。 「……ヒャッハー共に襲われたのを覚えているか? あの神社には狐がいた。小さな神社だけどな、昔は散歩がてら立ち寄る者も割と多くて。けれど時代の流れと共に失われていったんだよ」 「人が減ったの?」 「いや。時間が人を追い立てるようになってしまった。学校や仕事……神社に寄って手を合わせる時間すら惜しくなり、そんな大人の背中を見て育った子供もあっという間に大人になって時間に追われていく……実際、手を合わせなくても生きていけるし。でも、社に祀られた狐は違う。自分が守ってきた領域を見つめて、例え一人でも訪れる人間がいる限りは社に留まっていた」 「一人も来なくなったら? 死んじゃ……」 「死なないよ。ただ、もうこの場所に自分は必要ないんだなと思って去るだけで、狐を祀る他の地に行くんだ。だからあの社の狐もどこか違う場所で供えられた酒でも飲みながら人の世を眺めているだろうよ。そのうちひょっこり遊びに来るかもな?」  来たら紹介しよう、と俺の頭を撫でる柚葉は何故かどことなく嬉しそうだ。 「……ん? そりゃ嬉しいだろ? 長い片想いが叶ったんだぞって自慢できるんだからさ」  くすくす笑う柚葉はまた俺の気持ちを読んでいた。  また少し、言葉がなくても解り合える二人に近付いたのかも知れない。 「じゃあ、俺達鬼神は? 社もないし、祀られてもいないのにこうして存在している意味は?」 「……見守る為、かなぁ。(あやかし)が人に害を加えないように……って俺は失敗したけどね。あとは抑止力かな」  悪い子は鬼に食べられる。  悪人は死んで地獄の鬼に釜茹でにされる。  日本各地に今なお残る鬼伝承は親から子へと伝えられた形のない畏怖の想い。 「良い事も悪い事もお天道様が見てる」  人差し指を立てて天を示す柚葉の指につられて天井を見上げた。  当然そこには洋館の白い天井があるだけで実際に太陽は見えなかったけど、つい生唾を飲み込んだ俺を抱きしめて 「紫苑(しおん)は良い子だな」  と冗談めかした口調で柚葉が笑う。  むっと視線を戻せば、柔らかい眼差しをした柚葉と見つめ合い、頭の芯が微かに揺れた。 「紫苑、お前の事はお天道様が見てるよ。だから寂しくない。大丈夫だよ」  そう言って子供だった俺の頭を撫でてくれたのは……。 「大切な事は全部柚葉が教えてくれてた」 「それが大切な事だと解らない者だっているよ」  俺の前髪に梳くように指を滑らせて、肩を竦めた柚葉の笑顔が俺にはお天道様に見えた。  包み込むようにあったかくて、時に厳しくて、俺のたった一つの大事なもの。 「どうした?」 「んー……嬉しいから」  ぎゅうっとしがみついた俺の背中を摩る柚葉の手が温かいだけで幸せな気分になれる。 「紫苑も俺のお天道様だぞ? お前がいなくなったら……」  この世が滅ぶと言う寝言を思い出して、浮かれてしまう俺はお天道様失格だとは思うけど、そこまで想ってもらえるのは純粋に嬉しかった。 「なんだ? 笑い事じゃないぞ? 紫苑を失えば、俺は荒御霊(あらみたま)となる」  疫病を撒き散らし、作物を枯らし、人々を苦しめる怨霊のような祟り神になると宣言する柚葉の声はもう笑ってはいなかった。 「……そんなん、朱殷(しゅあん)が泣くよ……」 「そう、だな。そうなったら俺を殺すのは朱殷だろうしな」 「ダメだよ! 絶対ダメ! 朱殷は柚葉の事すごい尊敬してるんだよ!? 朱殷に、そんな事させたら、絶対ダメだ!」  ふっと洩れた柚葉の吐息が首を掠めた。 「紫苑がいなくならなければ良いだけだろ? そんなに慌てられると、いなくなるんじゃないかって不安になるぞ?」 「いなくなんないよ! バカ!」  やっと手に入れたのに、好き好んで自分からいなくなるワケがない。  俺が消える可能性があるとするなら……あの男だ。  あの男は強いし、力のコントロールにもモタつく今の俺じゃ勝つのは難しい。 「柚葉、戦い方教えて?」 「紫苑は戦わなくて良い。俺が守る。だから……」 「それじゃダメだ。前と一緒になっちゃう。また俺が良いタイミングで鬼化(きか)できて、妖力を使えるとは限らない。そのせいで柚葉や翳狼(かげろう)飛影(ひかげ)が傷付くのはイヤだ」  俺は必死だった。  もうあんな先見(さきみ)はしたくないし、前は先見を覆せたから良いものの、俺が使い物にならなくて大切なものを(うしな)ってしまうなんて。  そんなの、イヤだ。 「……解った。戦い方にも色々ある。身を守る事も立派な戦いだ。結界の張り方はもう完璧だろう? それを応用して一瞬で防壁やこの間飛影を捕らえたような籠を編む。まずはそこから」  ぽん、とあやすように頭に置かれた大きな掌に無理矢理頷かされて、俺は柚葉の膝から下りて裏庭に出た。 「まずは俺の拳を包めるくらいの大きさの結界からやってみるか?」 「うん。えっと……」 「焦らなくて良いぞ? 集中して……そう、呼吸を整えて……」  胸の位置で掌を合わせた柚葉に倣って同じように手を合わせ、目を閉じて深呼吸をする。  合わせた掌から一枚の鉄板が現れるのをイメージしてゆっくりと手を広げた。 「……ダメだ」  薄っぺらい貧相な結界は柚葉の拳に包むどころか、俺の落胆の溜め息でほつれ始めた。  窓に鍵の代わりに張る結界とはワケが違う。もっと強く、もっとしなやかで頑丈な結界が作れなくてはダメだ。  それに時間もかかり過ぎている。 「もう一回!」  深呼吸して、手を合わせて。  何度も何度も同じ手順を繰り返した。柚葉は口を挟む事なく、そっと俺の傍に立ち、不出来な結界が少しずつマシになっていく様を見つめていた。 「紫苑、陽が暮れる。次で最後にしよう」 「ごめん……」  もし妖力が抑えきれなくなった時の為に裏庭に出たのに、妖力の爆発どころか鬼化すらしない。  情けなさに溜め息も出ない。 「紫苑はどんなイメージで結界を張ろうとしている?」 「え? っと、鉄板。強くて、どんな攻撃も防げるような……」 「鉄板はちょっといきなり過ぎるかな。うーん、例えばハンカチがたくさん重なっていたらどうだ? かなり強いと思わんか?」 「ハンカチ? たくさん……?」  ふわっと目の前に広がったのは柚葉が作り出した結界だ。胸の前で合わせたままの俺の手をふんわりと包む。 「鉄板は確かに強い。でも何度も相手の攻撃を受けていれば強いからこそ割れてしまう。でも重ねて強度を増した布は相手の力を吸収する。そのイメージの結界なら()ちも違ってくる」  柚葉の作り出した柔らかな結界の中でどう手を動かしても、俺は破る事ができなかった。 「……そっか……受け止めて吸収、か……思い付かなかった……強くなきゃって、そっちに必死だった」 「柔よく剛を制すと言うだろう」  さぁやってみて、と俺の手を自由にしてくれた柚葉は再び数歩下がって銀杏の木に身体を預けて、俺に頷いてみせた。  柚葉が褒めてくれた結界を思い出して、ゆっくりと手を合わせる。あの窓に張った結界を頭の中で何枚も重ねて。  頭の中のイメージもどんどん鮮明になっていく。大丈夫。柚葉もきっとできるって言ってくれた。だからきっと――。  じんわりと熱くなった掌をそっと開いた。 「……むぅ……」  確かにさっきまで何度作ってもすぐにほつれていた結界は俺の不満を聞いても形を崩す事はなかった。それでも思っていたのとは正直違った。 「上出来だろ?」 「でも、これじゃすぐ破られる」 「いーや、上出来だ」  唇を尖らせたままの俺を柚葉は褒めて……いや、慰めてくれるけど。  俺が作りたかったのはシルクのスカーフを何枚も重ねたような厚みも立派な強い結界だったのに、俺の掌の間でヒラヒラしているのはせいぜいティッシュ四枚程度の厚みしかなくて、結界の編み込みの粗い部分も目立つ。 「紫苑はイメージの切り替えと組み立てが上手い。明日はもっと上手くいくよ」 「……むぅ」 「むぅ、しか言ってないぞ?」  むぅ、としか言えない俺を抱き上げた柚葉はいつものように一瞬で五階へと移動して、お疲れと微笑んで頰にキスをしてくれた。 「食事にしよう。何食べたい?」 「……ハンバーグ」 「そうしよう。手伝って?」  少々落ち込み気味の俺とは対照的に柚葉は機嫌が良い。  鼻歌を歌いながらタマネギを刻む柚葉を見ていると不思議と気が凪いできた。 「紫苑? ぽけっとしてないで米炊いて?」 「はーい」  タネを捏ねて、フライパンで焼く頃には俺も笑えるようになっていて、ふざけて柚葉にハートの形のハンバーグをねだったりもした。柚葉は俺のおねだりをあっさりと却下して、全部小判型のハンバーグにしてしまった。 「星とか作りたかった」 「星は……まぁ良いけど、ハートは崩れたらイヤだ」 「あ。星なんかもっと崩れるね」 「いっそ、そぼろにするか?」  せっかくキレイな形で焼けているハンバーグを菜箸で崩そうとする柚葉を慌てて止めた。 「そぼろ丼も好きだけど、もう口がハンバーグになってるから!」 「冗談。俺もハンバーグの口になった。紫苑、ソース作って?」  付け合わせはどうするとか、ちゃんと野菜を食べろとか…そんな会話すら楽しくて人間(ヒト)だった頃の寂しさや虚しさは簡単に上書きされていく。 「柚葉って料理上手だね。鬼国でも自分でやるの?」 「いや、側仕えの者がやる。それにこういう食事はあまり食べなかった。料理は紫苑に出会ってから始めた。昼前には来ていただろ? 一緒にお昼を食べただろ?」 「ああ、そっか……あれ? 鬼神の頭領がなんでここにいたの? 頭領、副頭領は鬼国を守ってるんじゃないの?」  あの時は……と目を閉じた柚葉は美味しそうにブロッコリーを噛み締めて、しっかり咀嚼して飲み込むまで口を開かなかった。 「あの時は複数の妖魔がこのすぐ近くの社の神を襲ってその一部を喰らった。その後そいつらも一つになって、膨大な力を持つ神と妖魔の混ざり合った不完全なモノになってしまってな。しかも、この屋敷を根城にして人を(かどわ)かして、神隠しだの連続猟奇殺人だのと騒がれてな。不完全なモノといっても神を取り込んでしまったからには俺か朱殷が始末しなくてはならなくて……ってどうした紫苑、箸が止まってる」 「……う、ん……大丈夫……でもどうして柚葉か朱殷なの?」 「神を殺せるのは神だけだからだよ。それに襲われた神にもこの地を任せていた鬼神の管理の甘さを詫びる必要もあったからな。俺がいるのに、朱殷に頭を下げさせるつもりはない」  それが柚葉のプライドなんだろう。  一族を代表して責任の全てを背負って、頭を下げる事のできるプライドは生半可なものじゃないと思う。 「下げる必要のない頭は下げられんぞ? 俺はそこまでお人好しではないからな。でもあの時は来て良かった。不完全なモノを片付けてここを掃除していたら、小さな紫苑がやって来た。会えて良かった」  ふふっと思い出し笑いをする柚葉は俺の皿に人参を移して頬杖をついた。 「野菜食べろって言うくせに」 「盛り付ける時にこっそり俺の皿に一つ多く人参を盛っただろ? ごまかされんぞ?」 「バレてた?」 「バレてた」  テーブルの向こうから伸びて来た手が頰を包んで、指先が唇の端を拭う。  指先についたソースを舐め取りながら 「紫苑は子供の頃から人参が苦手だ」  と柚葉は目を細めて俺を見た。 「……もう食べられるよ」 「じゃあ食べて?」  人参のやたら甘そうな外見と、口に入れた瞬間のなんとも言えない臭みに裏切られたようであまり得意じゃなかった。でも家ではワガママなんて言えなかったから、その分柚葉には食べたくないって甘えていたと思う。 「人参の色は綺麗だと思うんだけどさ」 「ピーマンは好きなのにな?」 「アイツは最初から苦そうな顔してるから……騙された感がないでしょ?」  至ってマジメな俺の発言を盛大に笑う柚葉にはへの字口を返して、人参を頬張った。  きちんと色に合う甘さに調理された人参はすんなりと喉を通っていった。 「お利口さん」 「だから食べられるってば!」 「ご褒美に美味いお茶を淹れてやる」 「だーかーらー!」  文句の途中の俺の前から皿を片付けて、柚葉は足取り軽くキッチンへと向かった。  柚葉は俺に甘い。  食後のコーヒーは当然柚葉の膝の上で、柚葉から神や鬼神の話を聞いたり図書館でコピーしてきた資料を読んだりして過ごした。  相変わらず片仮名が多いと文句を言う柚葉はすっかり読むのを諦めて、俺の腰に片腕を回して首筋に唇を落としている。 「くすぐったい!」 「んー、紫苑は資料を読まなくちゃならない。だから俺はこれで我慢してるんだから、許してくれ」  そんな理由で甘える柚葉は、俺の肩越しに資料を覗き込んで、ガブリエルの名前を見つけると指差して 「こいつはすごく偉いヤツ。確か……大天使だ。違う?」  と確認してくる。  俺の答えを待っている柚葉の顔は自信と少しの躊躇(ためら)いが混ざり合っていて、俺を見る目は子供のように真っ直ぐだ。 「大正解! すごい」 「ふふん! こいつの名はやたらと見かけるからな。さすがの俺も覚えた」  得意満面の柚葉は失礼かも知れないけど可愛い。 「大正解したから、紫苑キスを……」 「……仲良くいちゃついておられるところ、申し訳ないのだが。お客が来たようだ」  窓辺に現れた飛影に柚葉が舌打ちをして手をかざして結界を解くと、嘴で窓を叩く。  窓を開けてやると俺の頭に落ち着き、ぐぅ、と喉を鳴らした。 「客? あの男ではないのなら放っておけ。久しぶりの肝試し連中だろう」 「主人(あるじ)よ、私はカラス故、夜目が利かぬ……だが、あれは……私の記憶が定かならば……」  珍しく言い淀む飛影を頭から下ろして抱き抱えると、くるりと首を回した飛影がじっと俺を見た。  どうした? と飛影を急かす柚葉に飛影は 「あれは……紫苑の弟だ……」  と緊張に乾いた声で答えを返した。  どうして優希がこんな時間にこんな場所へ? 顔を見合わせた時、林の入り口にかけた結界の震える鈴のような音が響いた。

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