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第三十九話 年の瀬の二人

(おさ)、年越しの宴はどこでやるん?」  もっきゅもっきゅとハムサンドを詰め込む朱殷(しゅあん)にここじゃダメなのか? とお代わりのカップスープを出しながら柚葉(ゆずは)は首を傾げた。 「狭かろう?」 「狭いって……どれだけ持ち込む気なんだ?」 「いっぱいよ! それにこの館、五階しか掃除しとらんじゃろ? 長と紫苑(しおん)が出かけとる間に他の階も使えるように掃除しとこうか思うんじゃけど、どう?」  妖魔に襲われたあの日以来、俺は三階と四階には足を踏み入れていない。 「大掃除はありがたいが、四階は絶対に使わん」 「……紫苑が怖がる? 怖いん? 紫苑?」  あの時受けた嵐のような暴力を思い出す。あの妖魔が何を吹き込まれ俺を襲ったにしろ、あれは俺のせいだ。  それを俺が思い煩い続ければ、柚葉も自分を責め続ける。そんな不毛な事はもうやめようとあの時決めた。 「大丈夫。もう怖くない」 「ムリしとらん?」 「うん。いつか掃除しなくちゃなって思ってはいたんだ……つい後回しにしちゃったけど……」 「ほんなら、二人が出かけとる間に掃除終わらせておいてあげるわ」  任し! と微笑む朱殷は白群(びゃくぐん)に目配せして唇の端を微かに上げた。 「……お前らコタツとか持ち込む気じゃないだろうな? 年が明けたらまたここは妖魔に解放するつもりでいるんだから……」 「妖魔に解放するんは一階と二階で良かろう?」 「あのな、ここは有名な四階建てのお化け屋敷――」 「そんなん対妖魔・対人間の結界張って二階から上は老朽化が進んで上がれんように見せかけたら良いわ。五階は今まで通り結界で隠しておけば問題なしじゃろ」  何事かを企んでいますよっていう目をした朱殷はトマトコンソメ味のスープを吹いて、顔にかかる湯気と匂いに頰を緩めている。 「これ新作じゃろ?」 「美味しい?」 「ん。どうじゃろな? 匂いはなかなかに爽やかなん。で? 長、許可して?」 「そう、だな。お前が何を考えているのかは謎だが……良いだろう。頼む。俺と紫苑は一休みしたら出るから天翔(てんしょう)、よろしくな?」  頭に乗った飛影(ひかげ)から延々と話を聞かされていた天翔は、飛影を落とさないようにゆっくりとこちらに顔を向けた。 「どこへでもお運びいたしますよ、お任せを」  細められた視線はとても優しく、自分が何故呼ばれたのかを既に知っているようだった。 「お願いします! 翳狼も大変そうだけどがんばってね!」 「お任せあれ、紫苑様。お二人の顔に泥は塗りません。少しでもお役に立てるならばいくらでも駆けましょう」  ふわりふわりと左右に揺れる尾とピンッと立った両耳からは、託された仕事をきちんとやり遂げるという強い意志が感じられた。 「私も力持ちになったのだから、手伝うぞ!」  お留守番は嫌だという飛影に朱殷は 「ほんなら飛影も手伝うて! たっくさんあるからね! 期待しとるよ!」  と上手くおだてて、笑いながら飛影のメンツも立ててくれた。  やっと留守番以外の役を任された飛影は大喜びで朱殷の膝に乗り、いつものように豊かな胸の谷間に顔を埋めて甘えようとした途端、その身体は朱殷本人によって隣の白群に渡されてしまった。 「ちょ、今スープ飲んどるん。抱っこはあとでね? 危ないよ?」 「ぐぬぅ……」  心中をごまかすように首を竦めて、胸の毛繕いを始めた飛影に俺と柚葉はちらりと視線を交わして白群には解らないように微笑み合った。 「荷物を運び込むなら鬼道はここに開けておこう。紫苑のアトリエには入るなよ?」 「解っとるて。安心して早よ行きんさい。洗い物もしとくん」  ひらひらと手を振る朱殷にお礼を言って、大きな天翔の身体に柚葉に固定してもらう。 「して、行く先は?」 「どこが良いかな?」 「とりあえず大きな街で遠いトコ!」 「海外ですか? お連れしますよ?」  楽しかったあの旅行を思い出したけど、きっと置いて行ったと知ったら朱殷は頰を膨らませるだろう。 「ううん、国内で」 「じゃあ、あの街にしよう。和物なら京の都だろうが、紫苑の画材を買った街なら遜色ない物が手に入るだろう」  そう言うと柚葉は天翔へ行き先を告げた。 「さ。紫苑様、落ちぬようにしっかりと掴まっていて下さいよ。貴方に見た事もない景色をお見せしましょうね」  ばさりと翼が空を捉える音と同時にものすごいスピードで地面が遠退き、あまりの浮遊感に思わず口を押さえた。  台湾へ行った時とは明らかにスピードが違う。あの頃の俺に天翔は手加減してくれていたのかも知れない。 「吐きそうか? 大丈夫か?」 「う、うん、大丈夫……びっくりしただけ……ひぇーっ、高いっ!」 「申し訳ございません、紫苑様。真上へ一息に昇る必要があったもので……」  この世界を見せたかったからだと柚葉が言う。  人が住まい、生きている街。それと隣り合わせに広がる緑地、恵みをもたらす川と海の美しさ。  美しいだけじゃない世界を愛おしいと思う気持ちは多分柚葉と同じ。  愛おしく、守りたいと思うのも、きっと。 「同じだよね?」 「同じだよ」  耳元をくすぐる柚葉の声は甘く、俺達は空の青が黒と混ざり合うギリギリのラインでそっとキスを交わした。 「長、そろそろ紫苑様にご説明を……」 「ああ、すまんな。紫苑? 今からまた一気に地上に戻る。舞い上がるよりもずっと速度が出るからしっかり掴まっていろ」 「解った」  確かにすごいスピードだ……が、落ちるんじゃないかとか、吹き飛ばされるんじゃないかとか、そんな恐怖は感じなかった。  ただ、目にも留まらぬ、とはこういう事をいうのだろうと、呑気に鼻を摘んで耳抜きをしながらはたと思い至ってしまった。  未確認飛行物体って、まさかの……。  あとで柚葉に聞いてみよう。  人気のない山の頂上付近に降りた天翔は俺の無事を確認すると、するりと俺の影に入ってしまった。 「ここから先は長が街の近くまで鬼道を開いて下さいましょう。私は紫苑様の中から物見遊山を決め込む所存!」  楽し気な天翔の声に柚葉がそれは良いなと、応えて右手をかざす。  繋げた先はあの神社だった。 「さすがに毎度ヒャッハーとは遭遇しないな。行こう、紫苑」  当たり前のように差し出された手を当たり前のように取る俺に投げかけられる柚葉の視線が柔らかい。  くすぐったさに胸の奥がチリリと焦げた気がした。 「翳狼はさ、なんか和風の感じ! 組紐とかで、色は何色が良いかな? 銀色に映える色だから……ねぇ、柚葉も考えてくれてる?」 「考えてるよ! 組紐は良いな。色は薄紫だ」  俺の瞳の色だと言いたいんだろうけど、本当にそれで良いんだろうか? 飛影が翡翠をあんなに喜んだのは柚葉の瞳の色に似ていたからだ。 「緑が良い」 「薄紫だ。もう決めた……和物なら、呉服屋にでも行ってみるか」  黒のロングコートにグレーのマフラーをゆったりと巻いた柚葉はやたらと人の目を引く。そのくせ本人は周りの目を気にする事なく俺の手を離さずに歩く。  周りからはどう見られているのかと気にならなくもないけど、きっとこの師走の忙しさに忘れられてしまうだろうと勝手な期待で俺も手は解かない。 「デートだな、ゆっくりしよう」  弾けるような笑顔で言われてしまい、あっさり頷く単純な俺。  ごめんねと心の中で翳狼に謝って、足の向くまま気の向くままにあちこちの店を冷やかして回った。 「ね、ね、この服……」 「欲しいの?」 「柚葉に似合う」  Vネックの襟元は柚葉の綺麗な首筋を際立たせるだろうし、黒髪と深緑の瞳にオフホワイトはきっと合う。お手頃価格な割に手触りも良くて、俺の頭の中ではこの少し気の早い春物のニットを着て笑う柚葉がいて――。 「俺のは良いから紫苑のを買おうよ」  その一言に自分でもはっきりと解る程に落胆した。 「俺はあそこで暮らして長いからそれなりに服もあるけど、紫苑は違うだろう?だから紫苑のを」  がっかりが顔にも出ていたんだと思う。柚葉は言葉を切って、宥めるようにくしゃりと俺の髪を優しく掴んだ。 「似合うのに……俺がお財布持ってたら絶対柚葉に買ったのに」 「お似合いですよ? 試着だけでもいかがですか?」  いつ声をかけようかと待ちかまえていた若い女性店員さんの援護に頷いて柚葉に服を押し付けると、柚葉は苦笑いを残し試着室へと消えた。 「お二人ともモデルさんみたいですね! 本当に素敵です! ひょっとしてご兄弟ですか?」  セールストークには曖昧に微笑んで、兄弟に見えるのならそうだと答えた方が良いのだろうかと悩んでいると、シャっと小気味良い音を立てて試着室のカーテンが開いた。 「着たぞ?」 「すごい! 似合う!」 「お似合いです! さすが!」  選んだ俺を褒めるように興奮した店員さんの手が俺の腕を軽く叩くのを見た柚葉がギュッと眉根を寄せて、脇目も振らずに俺の前に歩み立った。 「そんなに似合うか?」 「うん!」 「そうか。コレならお前がつけたキスマークもちゃんと見えるしな」  言い終わると同時に柚葉は店員さんを牽制するかのように俺の腰に両腕を回して抱き寄せ、甘過ぎる笑みを浮かべた。 「き、す、まーく……」  恐る恐る店員さんの視線を追えば、柚葉の首筋に赤く残る痕に釘付けになっていた。瞬き、忘れてませんか? 呼吸、大丈夫ですか?  あわあわしている俺の頰を撫でると、柚葉は溜め息をついて店員さんに顔だけ向けて 「今見聞きした事は忘れろ。紫苑にベタベタ触るな」  と妖力を込めて言葉を発した。  店員さんの目が一瞬濁り、次の瞬間にはさっきと何も変わらない表情で 「お似合いでしたね! 気に入ってくださると良いんですけど……」  と俺の腕を触る事なく、少しの期待と不安の混じったに再び閉まった試着室のカーテンを見つめていた。  申し訳ない……。ひたすら申し訳ない。  片手に試着した服を持って再び俺の前に立った柚葉を軽く睨む。  全く大人気ないっていうか心が狭いっていうか……。  店員さんだって仕事なんだから、俺をおだてた方があまり乗り気じゃなかった柚葉を褒め倒すより効果大だと思っての咄嗟の無意識での行動だろうに……。 「逆でも紫苑はそう思える?」 「え……と、そりゃ嬉しくはないけど……」 「……お客様?」  ワケの解らない俺達の会話に恐る恐る入ってきた店員さんに服を手渡すと、柚葉は会計をと告げて視線を床に落とした。 「確かにダメだな……朱殷なら、あいつの性格も解ってるし平気なのに……見知らぬ人間に触れられるのは、すごく嫌だ……が、あの子には悪い事をした」 「行こう? お姉さんが会計待ってる」 「しお……っ」  逆だったら? 本当は嫌だよ。決まってる。  狭い店内が一瞬騒ついた。  ぽかんと品定め中の服を持ったまま俺達を見つめる人もいれば、慌てて目をそらす店員さんもいる。ねぇあの二人……と囁き合う声も聞こえるけど、今は無視。  柚葉の腰に腕を回しぴったりと寄り添ってレジへと進む。柚葉は俺の行動に目を瞠った後、吹き出した。 「紫苑は男前だな?」 「哀しい表情(カオ)なんかさせたくない」 「男前だ」  ふふ、と笑いを洩らした柚葉の腕が俺の肩を抱くと、再び店内が騒ついた。 「おかっお買い上げありがとうございます! あの、ポイントカードはお持ちじゃないです?」  仲の良過ぎる兄弟にも最早見えなくなった俺達に半ばパニックの店員さんのしどろもどろな問いかけに笑って首を振る。  マニュアル通りのやり取りにも首を振って、店を出る瞬間振り返った柚葉がパチンと指を鳴らした。 「消した」 「消さなくても良いのに」  変な客が来たな〜って暫く騒がれて後は忘れられるだけなのに。 「うん、でも、ね。もったいないから消した」  あんな大人気ない柚葉は可愛かったけど。そう思うと俺の手を引いてゆったり歩く嫉妬心を隠そうともしない鬼がひどく愛おしく思えた。 「次こそは紫苑の物を買うからな?」 「うん。ありがと」  あっという間に俺の両手は紙袋やビニール袋でいっぱいになった。  使うんだから文句はないだろうとシャツや下着類をポンポン買い込む柚葉の手を止めるのに成功したのはやたらと派手に鳴った俺の腹の虫だった。 「楽しいな」  キノコたっぷりの和風パスタを頬張る俺を目を細める柚葉のはにかんだ笑顔にまた胸の奥がチリッと焦げた。 「楽しくて、嬉しい!」  思わず前のめりになって答えた俺に満足そうな柚葉が笑みを返す。  楽しいよと繰り返した柚葉の手が伸びてくしゃりと俺の髪を包むと、隣のテーブルで食事をしていた女の子二人組が()せた……。 「……次こそは翳狼の。買いに行こうね」  あっという間に忘れ去られるとは解っていても、気恥ずかしいものは気恥ずかしい……。残りのパスタとサラダを詰め込む。そんな俺に柚葉はにっこりと笑いかけて、表面に水滴のついたコップから水を飲んでいる。  何をしてもサマになる……ちょっと悔しい。 「翳狼のを見た後は何か菓子でも買って帰らんとな……朱殷がうるさそうだ」  確かに。  わざわざ大掃除をかって出てくれたのにお土産なしだと、まん丸に頰を膨らませてしまいそうだ。  歩き出した柚葉に手を引かれるまま、街の喧騒を縫って行く。 「確かここだったかな?」  一見して解る超高級和装店の前で足を止めた柚葉は一人頷くと迷いもせずに店内へと入ろうとする。  俺はというと、ウインドウに飾られていた豪華絢爛な反物や、年季を重ねた看板に完全に気圧されている。 「どうした紫苑」 「……ちょっと雰囲気に負けた」  俺みたいな和装に対してなんの知識も持ち合わせていない若造が大量の紙袋を持ったまま気安く敷居を跨いで良い店じゃない事は確かだと思う……。 「この街じゃ一番の老舗のはずだ」  薄紫の帯紐を見せてくれと伝えた柚葉の言葉に被せるように、緑のも見たいとお願いした。  上品な藍色の和服を着た年配の女性が静かで美しい所作で立ち上がると、途端に柚葉が不思議そうに口を開いた。 「薄紫だと言ったろ?」 「でも翳狼だって柚葉の色が欲しいはずだよ! 翳狼の気持ちもちゃんと考えてあげようよ」  あんなに喜んだ飛影を覚えてるでしょ? 主人(あるじ)の眼の色だ! って部屋中飛び回って……と力説する。 「……解った。俺の意見を押し付け過ぎたな。すまん」 「あ……ごめん。俺も言い過ぎた」  無言で俺は店内に視線を泳がせ、色とりどりの反物や仕立て上げられた着物を見た。  微かにお香の匂いがする店内に俺達の存在は異質だし、うるさかったと思うと、お店にも柚葉にも申し訳なくなった。 「なぁ、紫苑? 俺達の瞳の色は無視して、翳狼には何色が似合うと思う?」 「え……柚葉のあげない……? 怒った……?」 「違う違う。帯紐を何色にするかで揉めるなら、いっそ帯紐は翳狼に似合う色にして、装飾品に俺達の色を使うのはどうかと思ってな。例えば……ほら、あれ。帯留め。帯飾りだってある。どうだ?」 「見て来て良い?」  おそらくは職人の手作業だろう細やかな細工のされた帯留めや帯飾りの美しさに思わず溜め息が出る。 「どのような方に贈られますので?」 「とても気高く美しい者へ」  背後で交わされる二人の会話を聞きながら、俺は一つの飾りに見惚れていた。  薄紫の花とそれを取り囲むように配置された緑と金の葉と(ツタ)。  モチーフにされた花の名前なんて知らない。  それでも……。  ――なんて綺麗なんだろう―― 「紫苑! 白銀には何色が良い?」  翳狼の煌めく肢体には何色だって似合うだろう。だけど、その肢体とこの飾りとの両方に合う色はなんだろう? 「ね、柚葉。これ見て……で、一緒に考えて?」  隣に立った柚葉は、俺の指差した飾りに目を細めて 「あぁ、これは良いな……すごく良い」  そう満足そうに囁いて、つぅっと繊細な細工の施された蔦を愛おし気に撫でた。

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