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第四十七話 名を呼ぶということ
てっきり夕飯もしっかり食べて帰るのだと思っていた朱殷 一行は午後四時を過ぎると帰り支度を始めて、なんだかんだと騒ぎつつ五時前には裏庭に鬼道を開いてしまった。
「また来るん」
「もっとゆっくりしていくのかと思ってた」
そう言うと朱殷はクルクルと髪を巻きつけて遊ばせていた人差し指を止めて肩を竦めた。
「上二人が国を空けるっちゅうのも、ね。お土産も配りたいし」
「あ、そか」
「大丈夫! 長 に報告、紫苑 にご挨拶。言い訳は色々あるん。またすーぐ遊びに来るよ?」
「儂 は来れるかどうか怪しいからのぅ。麹次第の身じゃし……何か良い酒ができたら朱殷様に託そうかの」
「朱殷が国を空けるよりはお前が空けた方が問題ないだろう? 紫苑もすっかり懐いたようだしな、手隙の時は来ると良い」
縹 の気遣いというか遠慮を柚葉 はあっさりと見抜き、好きに来いと言ってくれた。
ゆっくりで良いから一人でも多く柚葉が信頼している人と仲良くなりたいと願っている俺には、柚葉の言葉はひどく嬉しかった。
「そう仰られると、アレじゃな。毎日でも来とうなるな。紫苑に白群 の知らぬトランプ遊びも教えて欲しいしのぅ」
「あ! そうなん。私も!」
「え、そんなら俺も……てか朱殷が来るなら当然俺も! 良いだろ、紫苑?」
「ぷっ! 白群必死過ぎ!」
思わず吹き出せば、白群はいつもの裏のない笑顔を返してくれた。
「だってよ、朱殷と縹だけ新しいの覚えて、一人バカにされたくねぇんだよ! それにな。やっぱり紫苑に会いたいしな……もちろん長にも」
「貴様、俺はついでか?」
「とんでもない! 長の淹れてくださる茶は美味いし、紫苑は可愛いし、そこに朱殷もいるとなれば俺の極楽です!」
「ふん。調子の良いヤツめ。来たら晩飯は作ってくれよ?」
鼻で笑ったくせに柚葉の笑顔も本物で、俺達のしばしの別れはみんなが笑っていた。
「んじゃ、帰るん! 天翔 、よろしくね?」
「お任せを。朱殷様。長、紫苑様、飛影 に翳狼 も。またお会いしましょう」
「うむ。次の勝負では負けぬからな! 次が楽しみだ」
「荷物も多い。もし手伝いが必要ならば私が」
「ああ、確かに」
山盛りの福袋に目を留めた柚葉は飛影と翳狼にも運ぶのを手伝うように命じた。
「助かる〜」
と朱殷の小さな声にまるで微笑んでいるかのように柚葉の気が柔らかく揺らぐ。
「道は開けたままにしておくからな。気を付けて帰って来い」
「ありがたいお言葉!」
「行って参ります」
「お土産持たせるん。長、紫苑、ありがと!」
みんなが鬼道に消えると今までの賑やかさが嘘のように静かになった。
風が木々の合間を吹き抜ける音に思わず顔を上げると、すっかり葉の落ちた大銀杏の木の枝が微かに揺れていた。
「春が来ればまた芽吹く」
「楽しみだね」
この木もガキんちょだった頃の俺を知っている。
柚葉が守り続けたものの一つだ。
「さすがに冷えるな。紫苑? 中へ入ろう?」
「うん。コタツみかん、する?」
「ははっ、それも良いが……俺は違うものが、な」
「うん?」
朱殷達が残していってくれたコタツは三階で、俺が連れ込まれたのは五階で。
当然、こうなる。
「ちょっ、待って……待っ、あっんんっ! ふか、い!」
「痛い?」
いつもの柚葉らしくない性急さは簡単に俺を煽った。
寝室に入った途端、キスと同時に鬼化 して、挿し込んだ舌で縦横無尽に俺の咥内を貪る柚葉に喰らい尽くされたい欲が背筋を走った。
「痛くな、けど……急で、びっくり、した」
ナカを探って解す指の動きはいつもと同じく優しくて、それでいて眼の光はついさっきまで穏やかに微笑んでみんなに別れを告げていた男のものだとは思えない程に欲望に塗れギラつき、押し当てられた柚葉の欲の塊は驚く程に熱くどくどくと脈打っているような気さえした。
そんな熱い塊で俺の身体を気遣いながらゆっくりと拓くと、挿入の途中で手早く俺の手足を自分に絡ませ、一気に身体を起こしてしまった。
急な体位の変化と自分の体重のせいで思いもよらない早さで奥深くまで柚葉を迎え入れた俺は情けない事に甲高い声と一緒に涙をぽろぽろと零してしまい、柚葉は心配そうに痛いか? と囁きながら掌と唇で涙を拭う。
「焦りすぎたな。すまない」
「んっ、んん、良い、よ、へーき……あ、んっ」
「その声が聞きたかったんだ」
奥を突かれる衝撃に零れる甘ったるい喘ぎ声に柚葉は満足気に破顔する。
「良いな。俺だけが知っている声、だ」
甘くうっとりと耳元で聞こえた掠れ声に無意識でびくりと腰が跳ね、あぁ、と柚葉が溜め息を零した。
「ゆず、ゆず……キス、したい」
しがみついて肩口に顔を埋めて呟けば、俺の声が聞こえたのかそれとも伝わったのか、柚葉はあやすように背中を撫でて、俺の首筋から鎖骨、顎へと唇を運ぶ。
ゆっくりゆっくり……それでも片手はしっかりと腰を押さえつけていて、これ以上は無理だろうってトコまで柚葉に貫かれ、痺れるような快感を与えられている。
「やっ、も、柚葉! なんで? キスしよ? キスして?」
「……うん、するよ。でもね」
焦らないでって背中に当てられた掌が言うけど、俺から言わせたら焦らせているのは柚葉の方で、なんだか悔しくてどう反撃してやろうかと回らない頭で考えていると――。
「紫苑、名前、呼んで?」
「え……柚葉? なんで? 俺、呼んでるよ?」
「うん。でも名前呼んで欲しいなぁって」
眉を下げて俺を見上げる柚葉は最初の激情から解放されたのか表情が和らいでいた。
至近距離で見つめ合う柚葉の口元には微かに笑みが浮かび、美しいと思うと同時に何故だか胸が痛んだ。
俺の知る限り柚葉を名前で呼ぶ人はいない。あの朱殷でさえ、きちんと“長”と呼ぶ。
俺は名を呼ばれない寂しさをほんの少しは理解している、つもりだ。
俺を産んだ母親からは“あんた”と呼ばれていた方が多い記憶があるし、新しい母親からは“貴方”。どうしても必要な時は氷のように冷めた声音で“紫苑さん”と。それは呼ばれたと数えていいのだろうか……?
だから。少しは解る。
ヤキモチ焼きの柚葉が朱殷や白群だけじゃなく縹にも俺を名前で呼ぶ事を許可したのはそんな俺の気持ちを知ってるから……だよね?
「いーっぱい呼ぶ! 柚葉、覚悟しろ!」
名前だけじゃ足りない事も解ってる。
でもそれは俺と柚葉だけで交わされれば充分な言葉だから。
「俺ね、みんなに名前呼んでもらってすごく嬉しいよ。俺ちゃんと存在 んだなぁって思えて。でも、柚葉に呼んでもらうのが一番好き。すごく特別で。柚葉大好き」
ぽかんと口を開けて、目を丸くした柚葉は素早く唇を重ねると、俺を串刺しにしたままごろんと仰向けになってしまった。その微かな衝撃でさえ洩れそうになる嬌声を奥歯を噛みしめてこらえると、くつくつと笑う柚葉の腹筋が微かに動くのが掌を通して伝わった。
「あぁ、やっぱり紫苑はすごいな」
「んと、何がすごいのかよく解んないけど、いっぱい呼ぶよ? ずっと呼ぶ。この世が……俺達が消える時も、絶対呼ぶ」
馴染ませる為か動かない柚葉に焦れて、腰を揺らすとそれを柚葉の手が阻む。
どうして? と柚葉を見れば、微笑みを浮かべて片手を小さく上下に振って、おいでおいでをしていた。
柚葉の意図が掴めないまま上半身を倒すと、途中で後頭部をそっと押さえられ引き寄せられた――今日の柚葉は行動が謎だ。
「どしたの?」
「紫苑? それは約束か?」
「うん。お正月二回するのも、いっぱい呼ぶのも、約束」
「そうか……約束か」
ふふ、と幸せそうな柚葉の吐息が綺麗な三日月の形を描く唇から零れて、隙間から覗いた赤い舌に引き寄せられるようにキスをした。
絡み合う舌と混ざり合う唾液の行き来する音を聞くだけで、鎮火していた欲望が簡単に燃え上がる。
「ふ、ぁっ……柚葉……柚葉もっと……」
「っ、もっと? 何?」
もっとキスして。
もっと激しくして。
もっと奥まで俺を侵食して。
もっともっと柚葉を晒け出して。
もっと俺にも柚葉の心の穴を埋めさせて。
言いたい事は山ほどあるはずなのに、快楽の靄 に理性がどんどん負けてしまう。
「ぅ、ゆず、はが好き……柚葉が好き……好き……」
「紫苑? 俺も。紫苑が好きだ。どうしようもなく好きだ。だからずっと傍に」
「ん。ん。いる。傍にいる……離れてもきっと指輪が教えてくれ……んぁああっ!」
突き上げられる強さに顎が上がった。それを見逃さず、痛いくらいに吸い付いて痕を残していく。その唇、独占欲さえも愛おしく、またさっきとは違う涙が溢れそうだ。鼻の奥がツンとする。
「離さないからな、そんな心配は必要ない」
離れても絶対に見つけてやる、と言う柚葉は今までのお互いの想いを確かめ合うゆったりとしたセックスを切り上げて、寝室に入った時と同じような獰猛さで俺を突き上げ始めた。
熱い……熱い……気持ち良い……。
限界まで身体を押し拓かれ、ナカをずりずりと擦りあげられて柚葉の欲が俺の欲を刺激する。
長い時間緩やかな刺激を受け続けていた俺は柚葉の激しい律動で簡単に絶頂まで引き上げられてしまう。
頭のてっぺんから尾骶骨まで突き抜ける痺れに似た強い快感。
目の前の柚葉がいれば、全てがどうでも良いとさえ思えるあの雷 のような恍惚が、クる。
「ゆずっイく、も、イっちゃう! まっ、待って! ゆっくり、もちょっとゆっくり……!」
我慢しなきゃ。俺だけこんなにあっさりと気持ち良くなったらダメだって、柚葉にも気持ち良くなってもらいたいのにって思って必死に耐える俺の両手を胸から引き剥がして、それぞれに柚葉の指がそっと絡んだ。
両手を取られて思わず視線を下げれば、余裕のない表情 の柚葉と視線がかち合う。柚葉はきまり悪そうに笑って
「イって良いよ、紫苑。俺もそんなに保ちそうにない……っは、なんか、色々といっぱいいっぱいだ」
と目を細め、狙って俺の弱いあの場所を突く。
「あっ、んっ、ソコっ! コソ弱いのにっ!」
「……知ってる、よ」
妖しい色気を放つ柚葉がにやりと笑う。
ああ、喰われるんだ。そして俺も喰らうんだ。
やっと重なった唇にやたらと安心して、柚葉の思うがままに俺は喘がされた。
喘がされ続けた……。
むすっと唇を固く結んで布団に潜り込む俺とは正反対に柚葉は超がつく程ご機嫌だ。
「久しぶりに紫苑の好きなレディグレイを淹れようか? それともコーラ?」
「……むぅ」
「紫苑? むぅ、じゃ解らないよ? 何か飲みたいだろ? 何が良い? 朱殷もいないし、やっぱりゆっくりとレディグレイにしようか?」
弾んだ声と共にベッドが軋んだ。ぐっと布団を引き下げられて、ちゅ、と柚葉の唇が額に落ちる。
「しーおん? 機嫌直して? それともお茶は食事の後にするか?」
喘ぎに喘いで、喉はカラカラ。誰もいない開放感から声を抑えもせず、何度も繰り返し柚葉を求めて、抜かないでと駄々をこねて気絶するまで追い込まれて……目が覚めたら飛影と翳狼は既に帰っていたとか、なんだかいたたまれない。
それでもあんなに昏い目で遠くを見つめていた記憶の中の柚葉が、今は眩しいくらいに瞳を輝かせて笑っている。
その事実を目の当たりにしてしまえば、これ以上ヘソを曲げているのもバカらしくなった。
「まずコーラ。んでご飯。それからレディグレイ」
「了解。待ってて」
俺の頭を一撫でして部屋から出て行こうとする柚葉に掌だけを向けて蔦 を放つ。
「それより先に柚葉にはやらなきゃいけない事があると思うんだけど」
わざと怒ったような声音を出せば、蔦を通して柚葉が声を立てずに笑っているのが伝わってくる。
「やっぱり?」
「とーぜん! 早く!」
「うーん……せめて今夜一晩くらいはこのまま……っ、痛い! 紫苑、痛い! 蔦、絞め過ぎ!」
ついでに棘も出ちゃえって思わなくもないけど、どうやら俺の蔦は本当に正直みたいで、俺がどんなに願っても怒っても棘が出ない。
「二回目だよ!? 腰立たなくなったの二回目! 手加減するって約束したのにっ!」
ズキズキと疼く腰を片手で摩りながら、早く治してとぼやく俺は柚葉のしょんぼりとした
「甘やかしたいのに」
という呟きには躊躇なく言い返させてもらう。
「腰がこんなに痛いのに甘やかされても嬉しくないし」
「そう言われると……」
痛いんだよって全身全霊で訴えかけると、身動きできない俺の世話を焼けるとウキウキしていた柚葉の気が揺らいだ。
これはあともう一押し。
「俺だって甘えたいのに。痛いのヤダ」
「すぐ治そう」
自分の腹黒さと柚葉の切り替えの早さに思わず盛大に吹き出してしまって、痛めた腰が悲鳴を上げたのも更に功を奏したような気もする。
「……なぁ紫苑? 紫苑だって、その、悪いんだぞ?」
「……なんで?」
「そうか……無意識、か。覚えてない? ずっとずっと俺の名前だけ呼んでた。それが嬉しくてな……見事に煽られた」
「なっ! イテッ……だって……むぅ」
あんなに何度もイかされて、頭の中はぐっちゃぐちゃで、意味のある言葉なんて柚葉の名前以外にある?
でもそれを言葉にしてしまうのは恥ずかしいから口をつぐむ。
「どうだ? 少しは楽になってきたか?」
身体の芯からぽわんと温まる感覚は事後の怠さと相まって睡魔を連れてくる。
気を抜けば眠ってしまいそうだ。
「ん。ゆずはぁ……」
「眠い? 痛い?」
「んー気持ちい……。あのさ。お正月楽しかったねぇ……」
「ああ、大騒ぎだったな」
「来年も……」
「いや、今年は今月末が旧正月だ」
「ふぅん、そうなん……えっ!?」
まだ若干痛みの残る腰の存在を忘れて反り返って柚葉を見ると、きょとんとした表情の柚葉が腰を摩る手を止めて、満面の笑みを浮かべた。
「だからな、二回目の正月は月末だ。共に行こうな、鬼国へ」
俺が、鬼国へ……?
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