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第四十八話 不安に揺れる心

旧正月の前日、夕食後のお茶を楽しんでいると、風呂敷包みを抱えて朱殷(しゅあん)白群(びゃくぐん)がやって来た。 「お久しぶり! 持って来たん」 「向こうでも済む事だろうに……さては紫苑(しおん)を言い訳に遊びに来たな?」 「ん、まぁ、それもないとは言わんけど、明日は今まで通りのお正月とはちょっとワケが違うん!」 ね? と白群に笑いかける朱殷は今日も楽しそうだ。さっそくテーブルの上のお茶とお菓子に視線は釘付けで、柚葉(ゆずは)が勧めるのを待っているようだった。 当然柚葉はそんな朱殷の様子にはとっくに気付いているけど、わざと素知らぬ顔をしているみたいで。 「二人ともお茶、同じで良い?」 「はぁぁ……やっぱり紫苑は優しいん」 ぺちんと手を叩いてくるりと長い髪を広げながら半回転した朱殷は、小さく声を上げた。 「これこれ! はなちゃんからな、紫苑にお土産って頼まれたん。明日会うんじゃからええじゃろ? って言ったんじゃけど、他の鬼神の目もあるからって変に遠慮しとるん」 「え……明日は(はなだ)と話せない?」 それはかなりショックだった。 初めて行く鬼国で、俺と普通に接してくれる本当に数少ない一人と久しぶりに会うのに挨拶すらできないかも知れないなんて寂しい。 「話せば良いだろ。なんの問題もない」 傍目にも見事な落ち込みっぷりだったのか、ぽん、と柚葉の手が頭に乗った。 「ホント? 柚葉、良いの!?」 「どの酒が美味しかったか教えてやれば良い。次はどんな酒が飲みたいのか、ちゃんと紫苑の口から言えば良い」 「お酒ばっかりなん!」 からから笑う朱殷に白群は相槌を打って 「酒! そう、それしかないからな!」 と顔をくしゃくしゃにしてさもおかしそうに笑う。 「縹のお酒、大好きなくせに」 「どうせまた囲碁か将棋で負けたんだろう」 呆れを含んだのんびりとした柚葉の言葉に無言で朱殷はこくこくと頷いて、俺は白群って負けず嫌いなんだなと思いつつ新しいお茶を淹れる為にお湯を沸かす。 「あ! 思い出したん! さっきのはなちゃんのお土産のお酒な、お湯割りにしたら香りがふわぁってなって美味しいって言いよったん。試してみて?」 「そうなんだ? うわぁ、飲んでみたい! ……良いかな? 柚葉?」 「俺が作ってやろうな」 相変わらず俺の酒量は増えない。それはせっかく縹と縹が丹精込めて作ったお酒に失礼なんじゃないかな? と思わなくもないけど、楽しんで飲むものだと言われると、すぐに酔っ払ってしまう俺には今の薄い薄いお酒が合っているんだと思う。 「じゃあ明日、絶対感想言う! あ、柚葉? カップはこれを使っても良い?」 「良いよ、紫苑」 「……なんか、前にも増してらぶらぶな気がするん……」 鋭い朱殷の指摘に柚葉はふふっと鼻で笑って、照れくさそうに俺を見た。俺も少し耳が熱くなった気がする。 今年最初の柚葉のお願いは“名前を呼んで”だった。それに応えた俺は何度でも呼ぶと“約束”した。 あの日以来、俺達の間では今まで以上にお互いの名前を呼ぶ回数が増えたと思う。 柚葉に呼ばれる度に胸の奥のとても深いところがじんわりとして、自分の名前がただ個人を識別する為だけにつけられた記号じゃないんだと思える。 だから俺もいっぱい柚葉を呼ぶ。 「やっぱりらぶらぶなん!」 「へへっ、そうだよ! 朱殷と白群みたいにね、俺達もらぶらぶなの! ね? 柚葉!」 「いや、すぐに追い越すぞ? なぁ? 紫苑?」 「そんなぁ! 俺達のざっと二百年、そう簡単に追い越されちゃたまらな……」 ギロッと柚葉の一睨みに言葉を飲んだ白群は朱殷の肩を抱き寄せると何かを耳打ちした。 うんうんと頷いて聞いていた朱殷はいつもの太陽のようなぽかぽかの笑顔で 「前祝いじゃ! (おさ)、紫苑、何食べる? 辰臣(シンシン)がおつまみ作ってくれるって! もちろん私も手伝うん。らぶらぶの先輩からのちょっとした気持ちなん」 朱殷の言葉に柚葉は目を細めると 「それはそれは楽しみだなぁ? 先輩?」 と少しだけ意地悪く言うと、白群は目を白黒させて朱殷を見た。 「任し! 買い出し行こう? 辰臣。あ、二人は何が食べたいん?」 「冷蔵庫にある物で。そんなわざわざ出かけるな。それに紫苑の淹れた茶をムダにするな」 「……んむぅ、人の世はお店がいっぱいで楽しみなん!」 ツンと唇を尖らせた朱殷は二十四時間開いているスーパーや、なんでも揃うコンビニエンスストアが大好きだ。 期間限定の文字に滅法弱いし、新商品のデザートを見つければ、ほくほくの笑顔で俺達の分まで買ってくれる。 あとは百円ショップも大のお気に入りで、お土産と称してあれやこれやと買いこんで、俺に得意満面で戦利品の紹介をしてくれる。 一番感動したのは何かと問うと、目を輝かせて 「野菜の皮剥くヤツ! あれはすごいん! 撫でただけでニンジンの皮やらがスルーっと剥けるん! 国のみんなにも買うてあげたんよ。あとはな、洗ったら何回も使える密着するフタみたいなヤツ。真ん中をピッと押すとお料理がいつまでもカピカピにならんのん! あれは便利な!」 と身を乗り出して語ってくれた。あまりの興奮っぷりに、今度街に出る事があったら俺も買おうと密かに心に決めた。 「この時間だと百円ショップは開いてないんじゃないかなぁ?」 「んん〜開いとらんかったら残念じゃけど、また次の機会の楽しみと思えば良いん。今はおつまみの材料を買う事が大事なん! でも長の言うように紫苑のお茶はしっかりいただくん」 「そか。冷めないうちにどうぞ。あ、おつまみってさ、このお酒にはどんなのが合うのかなぁ?」 「花の香りがって言うとったから和でも洋でも合うとは思うん」 「そっかぁ……どうしよ? 柚葉」 「そうだなぁ、明日があるからな? 軽いのが良いだろうな」 それだけ聞くと二人はにこにこしながら手をつないでさっさと買い出しに出てしまい、また俺と柚葉の二人になった。 「ったく騒がしいな……な? 紫苑」 「楽しくて良いよ! でも何を持ってきてくれたんだろ? あの風呂敷」 「明日解る……楽しみだな?」 「……ぅうーん……正直、ちょっと不安、かも」 初めて行く鬼神の国。 柚葉が治めている国に俺は“伴侶”という少し前では考えられなかった立場で足を踏み入れる。 それに不安がないといえば嘘になるし、そういうマイナスな感情もすぐに伝わるから、正直に申告した。 「俺も朱殷も白群もいる。それに縹もな。あいつはああ見えて本当に強い。例え何かあっても……まぁ、そんな事はこの俺が許さんが……最悪何かあっても紫苑を守ってくれる者達はたくさんいる」 「ん。解ってる……んだけど、ね」 そんな不安を抱えたままの俺に買い出しから戻った二人も 「大丈夫なん。私らも一緒じゃしな!」 とあっけらかんと朱殷が答えると、すぐに白群の 「そんな暗い顔すんなって! ホントに大丈夫だからさ!」 と言う明るい声が被ってくるし、飛影(ひかげ)はおつまみを分けてもらい、上機嫌で 「紫苑に無礼を働く者がいるならば、この私が両の眼を抉ってやるのだ!」 なんて物騒な事を胸を張って言うし、それを聞いた翳狼(かげろう)はきゅうっと瞳孔を細めると 「……喰い殺す……紫苑様を傷付けようものならば、例え鬼神殿であっても迷わず喰い殺すまでの事。その為のこの爪と牙……」 と更に物騒な事をボソボソと呟いて、ふふふ……と昏く笑った。天翔(てんしょう)までが喉をクックックと鳴らして 「その時は手伝わせていただきましょうぞ。我が主人(あるじ)、どうか許可を」 と朱殷と白群を見つめ、二人は特に考えた素振りも見せずに 「ん。そんな阿呆(あほう)がおったら、迷わず()っておしまい」 「おー、殺れ殺れ! 満場一致だ」 とほぼ即答でしれっと返した。 「ちょっと! いくらなんでもそれは……」 ダメだと思う! と思わず大きな声をあげると、みんなが口を揃えて 「何か問題でも?」 と一斉に首を傾げて、お互いの顔を伺っている。 「とりあえず、飛影や翳狼の心意気は物騒かも知れないけど安心だろ? ここにいる全員と縹と、あとは一緒に茶を飲んだ連中……みんな紫苑の味方だ。な?」 ポンと肩を叩く白群の力強い手に頷いて、柚葉に作ってもらったお湯割でちびちびと唇を湿らせた。 それでもやっぱり……不安は不安だよ。 でも……ここにはいないけど、縹のお酒からふんわりと立ち昇る甘くまろやかな花の香りにまで応援されている気がして、ようやく俺は少しだけマトモな顔で笑う事ができた。 「明日は早いぞ」 柚葉の鶴の一声で早々に解散となったが、朱殷も白群も文句は言わなかった。 それどころかテキパキと食器や酒器の後片付けを率先してやってくれて、俺と柚葉はのんびりとお風呂を楽しんで、いつもよりずいぶんと早い時間に横になった。 大丈夫だよ、と言い聞かせるように俺を抱く柚葉に唇を寄せて、言葉にしたくない不安を流し込んだ。我ながら卑怯な手だとは思うけど、自分の口から 「柚葉と関係を持った人達が俺を受け入れてくれると思う?」 なんて言えやしなかった。 嫉妬のようで嫉妬じゃなくて。 怒っているわけでもなくて。 ただ漠然と不安で。 「……そんなヤツらが何人生きてるかな?」 「ん、ん?」 ペロリと唇を舐めた柚葉の言葉に首を傾げた。鬼神の生命は人間の世がある限り続く……はずなのに? 「“自分(アレ)は長のお手付きだ”という後ろ盾のようなものの為に脚を開く力弱き者が、そんなに長く下剋上や妖魔との戦いに勝ち続けられるとも思えん……が、そんな事はどうでも良い。誰も俺を愛さなかったし、俺も愛さなかった。それだけだ」 みんな柚葉の愛が欲しかったんじゃないの? 「……俺を頭領としか認識していなかった連中だ。どうでも良いな?」 くすくすと笑う柚葉はすぅっと人差し指で俺の頬をなぞると、唇が重なる寸前で柚葉の掠れた声が聞こえた。 「……俺も名前なぞ知らんしな」 「そっんぅ……んっ」 「俺の名を知りたがったのも、呼んでくれたのも紫苑だけだ」 それで充分だろ? と絡んだ舌が伝えてくれる。 「……充分、だよ……柚っあぁ、まっ!」 「待たない!」 ぐっと身体を拓く熱い昂りも待つ気はさらさらないらしく、俺は柚葉にしがみついて喘ぎ混じりの呼吸を繰り返した。 注ぎ込まれる精液は熱く、髪の先までじんわりと妖力が満ちてゆくのが解る。深い緑の目に見つめられて、それが嬉しくて仕方がないんだと伝わるように名を呼んでキスをねだった。 ――あんたら互いを喰らい合う鬼じゃ―― いつか聞いた朱殷の言葉がふっと頭に浮かんで、自然と口の端が上がった。 「柚葉、もっと……ね? ゆず、もっと」 「っは、ああ、いくらでも……と言いたいところだが……」 さわさわと角を撫でられると、無意識に腰が揺れる。欲しくてたまらないのに何故かいつもと様子の違う柚葉に焦れて、なんで? なんで? と駄々っ子のように腰に回した脚の踵で柚葉を蹴った(つもり)。 「腰が抜けては困る」 「むぅ……柚葉が我を見失わなければ良い」 「それはあまり自信がない」 何それ、と笑い合いながらも眉を下げた柚葉の角に触れた。途端にナカで質量を増した感覚にぶるりと身体が震え、柚葉は甘い声で 「加減できなくなるぞ?」 と囁きキスを返す。そんな柚葉の角を撫で続けながら俺は 「そんなの……前みたいにチョチョイと治してくれたら良いじゃん」 と耳朶を舐めながら囁き返し、腰に回した両脚でぐっと柚葉を引き寄せた――。 「……今度はゆっくりスるから……」 その宣言通り、あくまでゆっくりと。 決して激しくなく、それでいて物足りなさも感じさせない柚葉の手管に俺は良いように喘がされた。 何度も耳元で繰り返される荒い呼吸に混じった俺の名前にまた涙が滲んだ。 柚葉に名を呼ばれる度に、俺は自分の名前がとても貴重な宝石か何かなんじゃないかとさえ思ってしまう。 「っ、バカだな……そこらの宝石(いし)とは比べられない価値がある、のに……紫苑、紫苑……お前はこの世にたった一人だ」 替えはない、解るだろう? 柚葉の想いを乗せてナカに放たれた熱い飛沫に一際高い声で啼いて、そして泣いた。 「泣くなよ」 と俺を抱きしめたままの柚葉の掠れた声にまた涙が零れて、ぎゅっと抱き返して 「嬉し泣きなら、良いでしょ?」 「明日、目蓋が腫れて不細工になるぞ?」 「……見れるレベルに治して」 ぶはっと豪快に吹き出した柚葉につられて俺も笑う。 笑いながら泣く忙しい俺のぼやけた視界の中で美しい鬼が俺に向かって手を伸ばすのが見えた。 「……ぅ、ん……」 「紫苑? 風呂は?」 「んー、起きてから……」 「朱殷に急かされるぞ?」 髪を梳かれながら、もぞもぞと布団に潜り込み柚葉の腕枕でベストポジションに落ち着いた俺は、ちゅ、と汗ばんだ胸に吸い付いき、柚葉の心臓の音に耳をすませた。とくとくと絶え間なく聞こえるその音に簡単に涙腺が緩む。 どうも今日の俺はおかしい。 改めて鬼国へ行く事への気負いとか、不安。そもそも柚葉がいなかったら鬼国へ行く事はなかっただろうし、その場合俺はどうなっていたんだろう? やはり流されるまま周りの顔色を伺って、自殺する決意も反抗する勇気も持てないまま生きたのかとか。 そんなとりとめもない事をつい考えてしまっては、俺を助けてくれた柚葉への想いを一人募らせている。 ぐずっ、と鼻をすすると厚い胸板に顔を押し付けられて、久しく聞いていなかった強く妖力を込めた柚葉の声が鼓膜を揺らした。 「紫苑? “深く眠れ”」 「ぁ、ゆず…」 「ずっと一緒だ。安心して眠れ」 待って、と言いたくても声も出ず目蓋がゆっくりと落ちていく。 俺を覗き込む柚葉の穏やかな微笑みに心底安堵して 、寝てる間にうっかり離れたりしないように脚を絡ませて隙間なんかできないようにしっかりとしがみつくのが精いっぱいだった。 ――きっと 大丈夫。俺には柚葉がいるから、大丈夫。 「そうだよ、紫苑……おやすみ」 甘い囁きを最後に俺は夢の世界へと落ちた。

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