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第四十九話 紫苑の白

 ぬるめのお湯にゆったりと浸かって射し込む朝陽の中でついにこの日が来たんだ、とこっそりと奥歯を噛みしめる。  鬼国とはどんな所なんだろう。  俺がずっと勘違いしていた昔話に出てくるような岩肌剥き出しの要塞のような場所っていうワケじゃないのはみんなの話を聞いていれば解る。 「(はなだ)の酒蔵……」  きっと立派なんだろうな。昔テレビで見た老舗の酒蔵みたいに大きな酒樽がズラリと並んでいるのかな。 「見たいのか? 紫苑(しおん)?」 「え?」 「縹の酒蔵。見たいんだろう? 今、言った」 「立派なのかなって思って」  スッと濡れた髪に差し込まれた指にくすぐられて、思わず肩を竦めると耳元で落ち着いた柚葉(ゆずは)の声が聞こえた。 「立派だぞ。改装、改築に飽き足らず増築までしてな。しかし鬼国で飲まれる酒は全て縹が作っているし、とにかく美味いからな、文句も言えない」 「見せてくれるかな?」 「紫苑の願いなら、見せてくれるだろ」  俺はこんなに優先されて良いのだろうか?  誰もが俺が望むなら、俺の為なら、と言ってくれる。それは心から嬉しいと思うし、ありがたいと思う。  けれど、みんなの言葉に見合うような何かを俺は返せているんだろうか? 「愚か者が」  低く甘い声の次にかぷりと耳朶を噛まれて、突然の刺激にぱしゃんと湯を跳ね上げてしまった。 「さ、上がろうか。準備をしなくては」 「……ん」  甘噛みされた耳朶がじんわりと熱を持って、柚葉の言葉が頭の中をぐるぐる回る。 「俺って愚か者、なの?」 「ああ、愚か者だ。だが、そこが良い」  洗いたてのふかふかのタオルで俺の髪の水気を取っていく柚葉は小さく笑うとそっとむき出しの額にキスをした。 「計算高くなく、無垢で純粋で美しい。その素晴らしさが解っていない紫苑が愛おしい」 「……めっちゃバカにされてる気がするんだけど!」  尖ってしまった唇を柚葉の人差し指が優しく押して 「そういうトコな」  とニッと唇の端を持ち上げた。 「やっぱりバカにしてるでしょ!?」  お返しにいつもより乱暴に柚葉の髪をタオルでもみくちゃにすると、大げさに痛がってみせてくれたので許してあげた。 「絡まったぞ?」  きちんと梳いてくれよ? と文句を言う柚葉の手を引いてバスルームを出ると、いつもは洋装の朱殷(しゅあん)が黒地に豪華な真紅の花の模様の施された和服をきちんと着て立っていた。 「うわ、綺麗!」 「うふふ、ありがと紫苑。(おさ)(みそぎ)は済んだん?」 「ああ、紫苑が荒っぽいおかげで髪が少々絡まったがな」 「じゃったら、行こか」  こっちこっち、と手招きされた部屋は朱殷と白群(びゃくぐん)に用意した部屋の隣で、そこにも妖力で作り上げた衣紋掛に豪華な和服が二枚掛けてあった。  一枚は闇のような黒で裾に金、銀の他に赤や青、緑の様々な色で控え目ながらも繊細な模様が施されていた。  もう一枚は純白。 「お前は外せ」 「お手伝いは?」 「いらん。紫苑の肌を見せたくないからな」 「そう言うと思うたん。辰臣(シンシン)と一緒にお茶でもいただいて待っとくん。またあとでね、紫苑」  肩を竦めてそう言い、くすりと笑って朱殷が部屋から出た。  パタンとドアが閉まり、柚葉は俺の手を引いて黒い着物の前に立った。 「見ろ、紫苑。これが俺の紋だ」  そう言って一番目立つ(エリ)に入った紋様を指差す。黒地に深い緑色で入ったそれは派手に目立つ事はないけれど、存在感はすごかった。 「……今日で見飽きたこの紋ともお別れだな。そう思うとなかなか感慨深いな」 つぅっと紋をなぞる指の動きは滑らかで、お別れだと言った表情はとても穏やかだった。 「え? お別れ?」 「そう、この紋が今日変わるんだ。楽しみだな」  柚葉の言っている事はさっぱり解らなかった。  “俺の紋”という事は家紋じゃなくて柚葉個人のものだろう。そもそも鬼神は人間みたいな家族を形成して、次代に生命を継ないでゆく存在でもないし……なのに柚葉個人の紋が変わる、とはどういう事だろう? と思っていると、柚葉の手が俺の服に伸びた。 「さ。着替えるぞ」 「まさか着物着るの?」 「正月だしな、正装で行かなきゃいけない。俺には仕事もあるし。まずは足袋から。さ、足を出して」  足元にしゃがんで俺に足袋を履かせた後は、テキパキと着物を着せながら、気負いのない調子の柚葉の言葉が続く。 「俺は長として、鬼国にうっかり間違えて人間が足を踏み入れないように結界を張り直さなければならない。あんな所に入れてしまうような人間ならどうせいずれ死ねばぐずぐずのヘドロのような妖になって結局鬼国入りするんだろうが、まぁ、まだ生きてるからなぁ。もしかしたら改心するかも知れないし……」  ううむ……と唸りながらも、人の心という不確かなものに希望を寄せている柚葉はとても寛大に思えた。 「柚葉はやっぱり優しいね」 「そうでもないぞ? 今も俺から紫苑を奪おうとしたり、紫苑を傷付けようとするヤツは容赦なく消す。その気持ちに変わりはない。それでも優しいと言ってくれるなら……」 「そんなの、俺もだし。消せないかもだけど、でも!」  じっと俺の目を見ていた柚葉は、ふっと表情を緩めると、一言 「最高だ」  と呟いて、しゅるりしゅるりと器用に帯を結んでは、その上から新たな着物を重ねていく。  できあがった俺は全身真っ白。  そんな真っ白な俺を横に、柚葉は慣れた手付きでさっさと幾重もの着物を身に付けていく。  せっかくの柚葉の紋が、少し長めの襟足の髪のせいでほとんど隠れてしまったのが惜しいと思った。 「あ。飛影(ひかげ)! 飛影にアレ!」  行こうか、と手を差し出してくれた柚葉の手を握った途端に思い出した。 「ああ、そうだった! 早速呼ぼう」 「翳狼(かげろう)も呼んで!」  柚葉が飛影と翳狼を呼ぶ間に、俺は慌てて寝室へと走って、ベッドヘッドの小さな引き出しから包装されたままの和装店の紙袋を引っ張り出した。 「あまり走ると着崩れるぞ? 何をそんなに慌てているのだ? 今日もお正月なのだぞ?」 「紫苑様? どうされました?」 「っへへ、飛影、翳狼、おはよ」  着崩れてない? と柚葉を見れば 「その程度で崩れるようなヘタな着付けはしておらん」  そう言い飛影にコツンと優しいゲンコツをお見舞いしていた。 「お正月なのにっ!」 「だからだ! 騒ぐな、静かにしろ。紫苑?」  呼ばれて、飛影と翳狼の前に座ってピリッと目の前で包装を解いた。  飛影の頭は興味でぴょこぴょこ動きっぱなしだし、翳狼はきょとんとしてまっすぐな目で俺を見ている。 「あのね。翳狼への贈り物を買ったお店で柚葉とも相談したんだけど。結果翳狼への贈り物は二つになったでしょう? 飛影に悪いなぁって思ってたんだ」 「何を言うのだ。私は一度、主人(あるじ)からの贈り物を失くしてしまった愚か者なのだぞ? いただけるだけでありがたいし、何より紫苑が選んで、お二人から贈られたこの指輪が誇らしいというのに!」  ググッと左脚を前に突き出して、モデルの時と同じポーズをとる飛影の頭を撫でて、翳狼へと向き直る。 「あの頃は翳狼とは一度しか会った事がなくて、お土産買えなかったし、本当の意味で贈り物をする大切さっていうのが解ってなかったと思う。ごめんね?」  それでね、と袋の中を見るように促すと翳狼の鼻がぴくりと動いた。  飛影は翳狼の身体が大き過ぎてよく見えていないようだ。 「これはまた美しい」  翳狼の感嘆の声に思いっきり首を伸ばした飛影が見えない、と不満そうに喉を鳴らす。 「これをね、飛影にもと思って。翳狼のと色違いなんだけど、どうかな?」  翳狼にと用意した物に比べると随分と短いけれど、柚葉と相談して決めた帯紐を飛影にも見えるように取り出した。  色は赤だ。赤に翳狼のと同じように金糸や銀糸が混ざり、とても鮮やかで飛影の漆黒の肢体には良く映えると思う。 「あ、主人? 紫苑? わた、私はもう、既にいただいているのだぞ?」 「うん……翳狼のは二つで一つみたいなものだけど、やっぱり二つは二つでしょ? 飛影は一つなんだもん。それに、ね? 柚葉?」 「ああ。お前は翳狼を妬む事も羨む事もせず、なかなか懐の深いところを見せたからな。ご褒美だ」  ご褒美だなんて言うけど、本当は飛影が二つもらった翳狼を見ていじけたりした時の為にもと買っておいた物だ……ナイショだけど。 「そんな妬むなど! 私は本当に心から翳狼にとても似合っておると思って……ああ!」  ジタジタと足踏みを始めた飛影の首に帯紐をかけて、翳狼のと同じ手順で編んでいく。帯留めはないから最後だけほんの少し編み方を変えて、解けにくくした。 「翳狼は嫌ではないのか? 私はまたまたまたいただいてしまった」  不安そうに目を細めて翳狼を見上げる飛影の頭を大きな舌が舐め上げた。 「何が嫌なものか。とても似合っているのに」 「本当か? くふふ、嬉しい……」  結い終えた俺の手を飛影がクルクルと喉を鳴らしながらツンと突いた。 「あり、がと……ござい、ま……ずっ」  いつもの尊大な口調の飛影はそこにはおらず、俺の手の甲に嘴を擦りつけ、そのままくるんと転がってしまうんじゃないかと思う程深く頭を下げている。 「あぁ、もう泣かないで! せっかくのお正月だよ?」 「飛影、頭を上げろ。紫苑が結い上げた飾りをよく見せてくれ」  こちょこちょとからかうように飛影の首をくすぐる柚葉の指に催促されて、飛影はやっと顔を上げた。 「こ、これでいかがであろうか?」 「おう、良いな!」 「あの、私も見たい……どのように美しく紫苑が手をかけてくれたのか、この目で見たいのだ、が」  ダメだろうか? と小首を傾げた飛影を抱えて姿見の置いてある部屋へと移動した。 翳狼を手招きして、鏡の前に座ってもらって、その頭の上に飛影をそっとおろした。 「うはぁ! 本当に翳狼とお揃いなのだ! あの一本の紐がこんなにも美しい形になるなんて……それが私の首元を飾るなんて……」 「うむ、お揃いだな。これで我らが同じ主人に仕えていると、誰の目にも瞭然だ」  ふぁさふぁさと揺れる翳狼の尾に、飛影は一瞬言葉をつまらせ、涙声でそれでも明るく 「この気持ちをきっと感無量というのだな! 私とした事が、言葉が出ない、のだ」  そう言ってもっとよく見ようと鏡に向かって首を伸ばした。 「あらら、ここにおったん? 準備は?」 「準備はできたぞ。見ろ、白も似合うだろう? 俺の紫苑は」 「ホント! 可憐さが際立つわぁ! んーと、こういう時は人間は写真を撮るもんなんじゃろうけど、私らは私らなりに目と心に焼きつけとくん。紫苑? よく見せて?」  もっとからかわれるかと覚悟していたのに、朱殷は少し離れた所から瞬きもせずにじっと俺を見つめ、俺は照れ臭さに頭を掻いた。  朱殷は穏やかな微笑みを浮かべたまま、俺の周りを何度か周ると大きな声で白群を呼んだ。 「ちゃんと、覚えておきたいん」 「大げさだなぁ! 毎年お正月には正装なんでしょ? 来年なんてすぐだよ」 「あ。また長、言うとらんの?」  何やら俺の認識は違うらしい。朱殷は呆れた! と言って小さな溜め息を零した。  どういう事かと柚葉を見れば、柚葉は悪びれた風もなく 「驚かせたかったんだ、バラすなよ」  と朱殷に文句を言い返している。朱殷は腰に手を当てて、ゆるりと頭を左右に振った。 「先に知っとらんかったら戸惑うじゃろ。んっとに、もう。あのな、紫苑。今はその真っ白な着物はな、一度鬼国へ行ってしまえば私らのような黒に染まるん」 「ええ! そうなの!?」 「紫苑は辰臣(シンシン)と一緒。人間として産まれて人間として生きて……そして人間としての紫苑は死んだん。そして経緯はどうであれ、鬼神となって初めて鬼国へと行く。その白を死装束ととるか花婿衣装ととるかは紫苑の自由じゃ」  そう言われて見下ろした自分の身体を包む純白の着物は……俺には。  今柚葉と一緒に生きている俺は、人間だった頃とは比べ物にならないくらいに毎日を笑って過ごしている。そんな俺に柚葉が死装束を思ってまとわせるなんてありえない。  それに死装束は合わせが逆だと聞いた事があるけど、柚葉は普通に着付けてくれた。  気付けば自分を抱くように腕を回していた。  真っ白なこの着物が愛おしい。 「死装束には思えないよ」  この真っ白な着物が染まれば、それはまた一つ柚葉との絆が深まったという事。その為の色が黒だというのなら、俺にはなんの文句もない。 「お! 紫苑の白! 似合うな! 俺にも見せてくれ」 「ね? 綺麗なん。いっぱい見ておこうね」  俺も着たんだぞ、と懐かしむような照れ臭そうな白群は隣に立った朱殷の肩を抱いて、眩しそうな目で俺を見る。 「や、やだな、そんなにまじまじと見ないでよ。恥ずかしい……」 「んーにゃ、見るん。今しか見れんのんじゃもん。なんていうか、アレじゃな……な?」  な? と白群と柚葉に同意を求めた朱殷はそっと両手で胸を押さえた。 「……愛しい我が子の嫁入りには、人間(ヒト)はこんな気持ちになるんじゃろうか?」 「なるんじゃねぇの? やべぇ、泣きそう」  嫁入りって! と口を開きかけた俺の肩を柚葉が抱く。  まぁ、確かに……初めて柚葉の国に行くんだし、それに俺、抱かれる方だし……あながち間違ってはいないとは思う。  思うけど、思うけど! 「そう難しく考えるな。朱殷(アレ)のは言葉の綾だ」 「う、ん。気にするのはやめる」  身体を寄せ合って本気で目を潤ませている二人を見たら、俺の中の言葉に対するわずかばかりのわだかまりなんて、なんだか本当にどうでも良くなってしまった。  だって今日はお正月。柚葉にとっては長としての責務も果たさなければならない大事な日に、鬼国の事なんて右も左も解らない俺を連れて行ってくれるだけでも充分過ぎる程に大切にされていると思う。 「当たり前だ、伴侶なんだから」 「ん。照れ臭いけど、嬉しい」  ぽわんと温かくなる胸の奥の方は、一足先に春が来たみたいで、更にむず痒い気分になる。 「お前ら、紫苑の姿、しっかり目に焼き付けたか?」 「ん! ばっちりなん!」 「あぁっ! 私の姿も見ていただきたいのだ! 私だって今日は晴れ着なのだから!」  ぴょんと翳狼の頭から飛び降りた飛影がいつものように胸を張る。 「うふふ、ホント! 綺麗な赤やねぇ……良かったね、翳狼とお揃いじゃね」 「早速気付いてくださったか! そうなのだ、色違いで、紫苑が結ってくれて、私はもう、嬉しくて嬉しくて天にも昇る心地なのだ」  くふふ、くふふ。見て見て? と様々なポーズを決めて見せてくれる飛影に場の空気が明るくなる。 「浮かれてないで行くぞ。今日は忙しくなる」  行こう、と伸ばされた柚葉の手を取ると励ますような波動が全身を包んだ。  きゅっと柚葉の手を握り返すと、そっと背中に温かい掌が二つ置かれた。 「みんな一緒なん。じゃから、ね、紫苑?」 「うん……やっぱりドキドキはするけどね!」  いつものように裏庭に開かれた鬼道の前に立つ。  傍には翳狼。の頭の上にしゃんっと胸を張って背筋を伸ばした飛影。  背中をそっと押してくれる朱殷と白群。  そして美しい和服を着て、繋いだ手を離すつもりなんて微塵も感じさない柚葉がいる。  だから俺は大丈夫。

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