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第五十話 花咲く水面
鬼道を抜けたはずなのに、まだ道は続いていた。左右にずらりと並ぶ黒衣をまとった鬼神達。皆が腰を折り、頭領と副頭領の帰還を待っていた。
「すごい、たくさん……」
「あぁ、今日は人間界の管理者も全てこちらに帰っているからな。さ、紫苑 、鬼化 しろ」
「え? う、うん」
既に朱殷 も白群 も鬼化していた。
鬼化に使う妖力は人間の世界で鬼化するよりずいぶんと少量ですんだ気がするのは、ここが鬼の郷だからだろう。
俺の鬼化した気配を感じたのか、近くにいた鬼神達が更に深く頭を下げたので、思わず柚葉 の手を引いてしまった。
「紫苑の気も充分に強いからな、畏怖と敬意だよ」
気にするな、と穏やかな視線で教えてくれた柚葉はよく通る声で頭を上げるようにと命じ、俺は居並ぶ鬼神達の注目の的となった。
「俺の伴侶だ。無礼があったら、殺す」
正月早々の柚葉の物騒な発言にも鬼神達は短く返事をし、俺はやっぱりひょこんと頭を下げてしまった。
「誠に頭を下げてくださるとは」
一番柚葉に近い位置に立っていた鬼神がくすりと笑う。
「それが紫苑だからな」
鷹揚に答えた柚葉は彼が序列三位の鬼神だと教えてくれ、彼は俺の正面に進むと
「雄黄 と申します。以後お見知りおきを」
と片膝をついて丁寧に名乗ってくれた。
真っ直ぐに俺を見る鮮やかな黄色の目には悪意はない。内心ホッとしつつ、立ち上がってくれるようにとお願いする。
「抜け駆けとは、雄黄殿、許すまじ」
「伴侶様、我が名は京藤 。四位にございます」
「私は五位の黒緋 」
「え、と。雄黄さんに、京藤さんに、黒緋さん」
「いかにも! 人間界でお困りの事があれば、この京藤、すぐにでも御側に駆けつける所存にござ……」
「やかましい! 前を塞ぐな、道を開けよ。貴様らのむさ苦しい顔しか見えん。紫苑が鬼国嫌いになったら貴様らのせいぞ!」
自分より背も高く、ガタイの良い鬼神達に囲まれてあわあわしていた俺を柚葉の一言が救ってくれた。
ざぁっと開けた視界の中に縹 を見つけて、思わず口元が綻んだ。縹も笑みを浮かべて小さく片手を上げてくれた。
よく来たな。と言ってくれているようで。
待ってたよ。と笑ってくれているようで。
やっぱり縹は鬼神らしくなくて荒々しくない、緩やかに流れる水のようだ。
「縹よ。あとでお前の自慢の酒蔵を紫苑に見せてやってくれ」
「もちろん。喜んで」
覚えていてくれた柚葉の手をきゅっと握り直して、改めて鬼国を見渡した。
鬼国は自然が豊かだった。
連なる山々に、広がる野原や畑。今が冬なのが悔やまれる。
春ならば畦道 を彩る野花が楽しめるだろうし、朱殷が梅の木を折ったって前に言っていたから、梅があるなら桜も咲くだろう。
夏は辺り一面緑で、秋には紅葉が楽しめそうだ。
合掌造りの家の屋根には薄く雪が積もり、やはりこちらも冬なのだと実感した。
ここが柚葉の国。
どこか遠くの方から禍々しい気を感じるけれど、それもここまで来て害を及ぼせる程のものではなさそうだし、俺が鬼になったからだろうか?
やはり綺麗で、何故か安らぐという気持ちの方が強い。
「寒くはないか?」
「ん。大丈夫」
「そうか? 少しでも具合いが悪くなったりしたらすぐに言うんだぞ? 我慢はするなよ?」
「解った」
俺達のやり取りを一番近くで聞いていた鬼神の一人が
「輿をお持ちしましょう」
と言うのを柚葉は断り、俺の手を引いて歩き始めた。
「知っての通り、紫苑は初めての国入だからな、色々と見せてやりたい」
「よろしければどうぞ私の背にお乗りください」
すり、と寄り添ってくれた翳狼 の身体に触れると柚葉は
「ならば……まずは千古不易の滝へと行ってもらおうか」
と言い、身を屈めた翳狼の背にひょいと俺を担ぎ乗せた。
「朱殷、白群、見届け人として同行を頼む」
任し! といつもの朱殷が胸を叩いていつもの調子で声を張り上げるのかと思ったのに
「大任仰せつかり、恐悦至極にございます」
と柚葉に指名された二人は厳かに答え、深々と頭を下げた。
柚葉は短く、頼むな、と声をかけると二人を待たずに翳狼に出発を命じた。
周りの景色を楽しめる程度の速度で進む翳狼の背の上で、ぎゅっと柚葉の手首を掴む。
「朱殷達は?」
「あの二人は天翔 を使うだろう? 俺達の頭上を飛び越える事になるだろうからな、少し遅れて来る。運ぶ物もあるしな」
「私が天翔……いや、せめて翳狼くらいの大きさがあればお運びできたのだが。残念だ!」
隣を同じ速度で飛ぶ飛影が心底残念そうに言い、柚葉にもう大きくなれないかと聞いている。
柚葉はしばらく考えて
「やってやれぬ事はない、が。そうなると、もう紫苑に抱いてもらう事もできなくなるぞ? それで良いか?」
と含み笑いをしつつ飛影に問いかけた。
「なんと! それは困るのだ! 私は抱っこも肩に留まるのも大好きだ……それに森の仲間も驚いて、もう遊んでくれなくなってしまうやも知れぬ!」
「だからな、やめておけ」
「うむ。主人 の仰る通り……お二人を運べぬだけで、今まで以上に力持ちにはなれたのだし、この身体に不満はないのだ……やめておく。お、紫苑! あの立派な屋敷が見えるか?」
「え? あれ? 屋敷ってより……」
遠目から見ても立派な建物は屋敷っていうよりはお城。みたいなんだけど。
天守閣からの眺めはさぞ素晴らしいだろう。
「あれが主人の屋敷なのだ。紫苑も鬼国へ来た時は泊まる事になる。中は広くて、部屋がいーっぱいなのだ! まるで迷路だ。そしてお風呂も広くて最高なのだぞ。むふふ」
「今日、泊まるの?」
聞いてない……着替えとか、いや、まず、心の準備が。そりゃ柚葉がいれば大丈夫な事に変わりはないけど……。
「いや、帰る」
きっぱりと言い切る柚葉の言葉に心のどこかでやはり安心して、そっと背中を柚葉に預け、流れていく景色を眺めた。
「柚葉、春にまた来たい」
「鬼国 へ?」
「うん……きっとすごく綺麗だ……よね?」
耳元で微かに柚葉の安堵の溜め息が聞こえた。
「美しいぞ。画材を持って来よう。その時は泊まろうな?」
「ん」
いつの間にか遠くに見えていた山が近い。目の前には鬱蒼とした森が広がり、入り口になりそうな獣道すらない。
翳狼も脚を停めて、無言で俺達を振り返った。
「開門」
柚葉のたった一言で幾重にも絡み合い、完璧に閉じて山を守っていた木の枝や地面から伸びた草がスルスルと解け道を開けるのを俺はぽかんと口を開けて見ていた。
「すご……」
「そうか?」
大した事じゃないよ、と笑う柚葉と今までなかった道に唖然とする俺を乗せて再び翳狼は歩き始めた。
「間もなくです。紫苑様」
ザクザクと冬の土を踏みしめる音が辺りに響く。飛影は飛ぶのを止め俺に抱かれて、あの木は珍しい花をつけるのだとか、美味しい木の実をつける木を教えてくれている。
「柚葉の仕事?」
確か長としての仕事があるって言っていた。結界を張り直し、強化するって。そんな重大な場に俺が同席して良いのだろうか?
「仕事より、もっと大事な事だよ、紫苑」
「へ? うわぁ! すごい!」
フッと冬の柔らかな陽射しが顔に当たると同時に、鼓膜を心地良く揺らす水音が辺りを包む。
一条の滝から流れ落ちる水量は激しくもなく、飛沫が光を受けてキラキラと虹色に輝いている。
滝の水が流れ込み作り出した湖はどこまでも透明で底が見える程に澄んでいて、冬眠をしない小魚がゆったりゆったりと泳ぐのさえ見えた。
「今年は暖冬だな。好都合だ」
「えぇ? 鬼国にも暖冬とかあるの?」
「人の世とは背中合わせ。当然なのだ!」
「人間界が大雪に見舞われると、この湖すら凍ってしまうのですよ? それはそれで美しいのですが、今回ばかりは……いえ、例えそうだったとしても長が手を打たれますね」
くふふと喉を鳴らす翳狼が尾を振っているのが気配で解った。
翳狼の背から降りようとしていると、上空を大きな影が飛び陽の光を一瞬遮った。
朱殷と白群を乗せて静かに着地した天翔は大きな嘴に何か樽のような物を咥えていた。
「いよいよ、だな。飛影」
「うむ。楽しみだ!」
俺以外は全員これから起こる事をちゃんと理解しているようだ。
白群は天翔の嘴から樽を受け取り、朱殷は抱えていた包みから厚手の茣蓙 を取り出して滝の側に敷くと、その上に漆塗りの小さいながらも手の込んだ細工の施された卓を置き、盃を二つ並べた。
「おいで、紫苑」
「な、何? 何が始まるの?」
「んーと、ここは千古不易の滝と呼ばれとるん。千古不易っていうのは“永遠に変わらない”っていうような意味なんじゃけど、そりゃそうじゃな。この国じゃ変わりようがないん。で、まぁ、私らも日本 の神じゃからな? ゲン担ぎするん。でな」
「伴侶の契りを交わす時にはこの滝に来る。俺と朱殷もここで伴侶の契りを交わしたんだ」
「……へ? は、ん、ちぎ、り?」
「要は結婚式じゃな! 私らはその見届け人なん。滞りなく長と紫苑が千古不易の契りを交わすんを見守らせていただくん!」
「この上ない名誉だな」
白群は角の生えたようなあまり見かけない赤い樽から柄杓にお酒を汲み出すと二つの盃に並々と注いだ。
「入れ過ぎじゃない?」
「気にするな、唇をつけるだけで良い」
柚葉に促されて盃を持ち、そっと唇をつけた。それだけでもふわりと漂う柔らかく甘い縹のお酒の匂いに二口目はつい口に含んでしまった。
美味しい! とはしゃいで感想を言える雰囲気でもないので、キョロキョロと視線を動かしてこの場を観察する。
「盃の交換を」
再度盃を傾けようとした瞬間に朱殷から告げられて、あたおたと隣に座る柚葉の盃と交換した。底にちょっぴり残った柚葉の盃と、半分は残っている俺の盃。お互いそれを見て、ふふ、と口元を綻ばせた。
「千古不易の誓いを紫苑へ捧ぐ」
凛とした迷いのない柚葉の声。その宣言の後、柚葉はクッと盃を傾け、小気味良い音を立てて卓へと伏せて置いた。
「せ、千古不易の誓いを柚葉へ捧げます」
飲み干して、盃を返さなきゃいけない……そして気付く。
柚葉の盃にほんの少ししかお酒が残っていなかったのは、この為だと。
お酒に弱い俺への思い遣り。それを全部飲み込んで、柚葉に倣って卓に盃を伏せた。
「それではお二人、湖に入られませ」
朱殷の指示に従って立ち上がると、柚葉の手が当然のように伸びてきて俺の肩を抱く。
何も言わないけれど、俺を包む柚葉の気がとても穏やかだ。
湖の畔 に立つ俺達に
「暫しお待ちを」
と告げて白群はさっきの酒樽から柄杓を使ってお酒を三度湖へと撒いた。
「あっ、魚……」
「大丈夫だよ、この酒はこの滝の水から作られた物で、度数も低いらしい。清めと契りの為の酒だから湖に住まうものには害はない、と縹が言っていた……まぁ、ひょっとしたら酔っ払ってしまうかもな、とは言っていたけどな」
清めのお酒を撒かれた湖は幾重にも波紋を浮かべ、すぅっと水面の色を変えた。
ある所は淡く、ある所は濃。赤。橙、紫、緑。青。そして白。
「うわぁ……すごい!」
水面に花が咲いたみたいだ。
朝顔? 紫陽花?
「確かにここまで色鮮やかなのは……さすが長」
うんうん、と頷く白群の言葉の意味は飛影が得意気に説明してくれた。
儀式の主役から溢れる妖力に反応しているらしい。
柚葉が俺の為に花を咲かせてくれたようで、俺は水面を見つめて浮かれた。
「俺だけじゃない。紫苑の力もだ。俺一人じゃこんなに美しく水面を飾る事はできない」
「えっ? 俺!?」
「心を映す水鏡だからな。俺一人じゃ無理だ……さぁ、行こうか。冷たいだろうが少し我慢してくれ」
この水に浸かれば、完全に完璧に、今まで以上に俺は柚葉と一つのものになれる?
そう思うと、美しい水面をかき混ぜてしまう惜しさより、早くと急いてしまう気持ちの方が断然強まった。
足袋を通してジンと水の冷たさが伝わり、思わず息をつめてしまった。身体の震えに呼応するかのように再び水面が揺れ、美しい色が混ざり合う。
「すまない。冷たさを遮断する結界術をかけてやりたいが、それをすると……」
「ダメなんでしょ? 大丈夫、ちょっとびっくりしただけ」
言い淀む柚葉の手を握り直して、滝の前へと進む。水飛沫が顔にかかって、一瞬針で刺されたかのような痛みにも似た冷たさを感じた。
「千古不易の誓いを。阿僧祇 の時を生きるこの魂を紫苑に捧ぐ」
次は、俺の番……だよな。
「せ、千古不易の誓いを柚葉に。俺の全てを柚葉にささ、捧げます」
噛んじゃった……柚葉が言ったのと文言も違ったし、大丈夫かな? 不安で見上げた柚葉はふわりと優しく微笑んで、そっと身を屈めて俺を抱きしめると、唇を重ねそのままゆっくりと湖の底に膝をつくようにと次の行動を示してくれた。
同じように柚葉を抱き返し、冷たい水に沈んでいくのは、不思議と心地良かった。
重なっただけの唇から、触れている部分から、身体が互いの温もりを拾って広がっていく。
何分くらい湖の中にいたのだろう。
お酒に酔っ払ったのか小魚がちゃぽんと跳ねる音が聞こえて、揺れた水面が顎を濡らした。
「……目を開けて、紫苑」
「ん、もう良いの?」
そう告げる唇が自分の唇に擦れてくすぐったい。言われるがまま目を開けると、目の前には俺の大好きな柚葉の深い緑の瞳。あぁ、離れた唇がもう恋しい。
「紫苑、見て?」
「うわぁ」
俺達の周りを囲むゆらゆらと立ち昇る真白な湯気のような靄 。たくさんの色を浮かべていた幻想的な水面は元通りの透明に戻っていた。
酔った魚が身体を斜めにしたままじっとして半分夢の中にいるようで、指差して柚葉に寝てる、と言うとパチンと指を鳴らして起こしてくれた。
魚は俺達の側を三回跳ねると湖の奥へと消えてしまった。
「上がられませよ」
朱殷に頷いた柚葉は俺を抱き上げると水の中を苦もなく進み、ふかふかのタオルを広げて待っていてくれた白群へと俺を託した。柚葉自身は朱殷からタオルを受け取って濡れた髪から水気を切っている。
「かように美しき契りの儀に見届け人として参加できました事、至上の喜びにございます。この度は誠におめでとうございます」
朱殷らしくない堅苦しい喋りにも柚葉は動じも茶化しもせず
「寒い中、ご苦労。紫苑と共に感謝する」
と声をかけ、スタスタと俺に歩み寄ると白群にもお礼を言って、温かいお茶を出してくれるようにと頼んだ。
「すぐに温まる」
「はい、紫苑」
白群から差し出されたステンレス製のコップに思わず吹き出してしまった俺に、朱殷は
「じゃってタオルも水筒も、こっちんがあったかくて便利なん! 長の洋館から持ってきたん」
といつもの彼女に戻ってペロリと舌を出して肩を竦めた。
その口調に儀式は終わったんだ、とホッとして、すぐに慌ててタオルを外した。
「あ……ぁ、すご……」
……柚葉と同じ闇のように深い漆黒の着物……
俺は誰の目にも明らかに、柚葉と同じ魂 になったんだ。
それを自覚した瞬間、ふつふつと胸の奥から言い表しようのない想いが湧き上がる。
そして白群から渡されたコップを空に投げ出して、柚葉の胸に飛び込んだ。
まだびしょびしょに濡れたままの着物から、柚葉の体温と気が湯気のように揺れている。
その胸に飛び込んで、柚葉の匂いと焚きしめられたかすかなお香の匂いに包まれて俺は泣いた。
ただひたすら。
嬉しくて、嬉しくて、泣いた。
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