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第五十二話 日輪の舞

てっきり柚葉(ゆずは)の屋敷に連れて行かれるのかと思っていたら、翳狼(かげろう)は朱い鳥居の前でピタリと止まった。 「着きましたよ、紫苑(しおん)様」 「えっ? 神社?」 (やしろ)は持たないって言ってたはずなのに、と柚葉を振り返れば、ふふっと笑って 「自国に社くらいあっても良いだろう? まぁ、目的は参拝じゃなくて、宴会場だけどな」 と言いつつ、そっと翳狼の背から降ろしてくれた。 「主人(あるじ)、紫苑、おかえりなさい!」 鳥居に停まって待っていてくれた飛影(ひかげ)の声が降ってくる。 ふわり、と俺の腕に舞い降りた飛影はものすごくご機嫌で、左右に可愛らしく頭を振り振り 「ご馳走がズラリいっぱいなのだ! しかも、私用にとマヨネーズも用意してくださってて……あぁ、そんな事より、だ! この胸の飾り。それはそれはたくさんの鬼神殿達に褒めていただいたのだ。紫苑が結ってくれた、と教えたら紫苑の器用さに皆、目を丸くしていた。もう、私は紫苑を褒められると嬉しくて嬉しくて! 誇らしくてならんのだ! くふふ!」 と一息に喋って、今度は俺達を待つ料理の豪華さや、お酒の多さ、初めて会った鬼神達が話していた俺の事を本殿に到着するまで話し続けた。 「紫苑を疎かにするような発言をする輩はいたか?」 「安心なされよ、主人。そのような不届き者はおらぬ。いたならばこの私が許してはいないのだ!」 「だろうな。もしいたら朱殷(しゅあん)白群(びゃくぐん)も許してはいないだろう? ここに血の臭いがしない、という事はそんな阿呆はいなかった、という事だな。よしよし」 しかし、と突然歩みを止めた柚葉はひどく真剣な目で 「紫苑にちょっかいをかけようとする輩はどうだ? 紫苑に色気を振りまこうとする不届き者は?」 と飛影を問いつめて、飛影はううむ、と唸る。 「紫苑ともっと話したいと思っている鬼神殿は当然たっくさんいると思うのだが、邪な想いを口にする者はいなかった……私がきちんと伝えたのだから、安心なされよ」 何を伝えたんだ、飛影……。 「それに朱殷殿もご機嫌でいかに千古不易の契りが素晴らしいものであったか、涙ながらに長々と語っておられたので、うん、大丈夫だと思うのだ」 「そうか。ならば良い。さぁ、新年の宴といこうか」 「披露宴も、なのだ!」 披露宴と聞いて少しばかり胃がキュッとなった俺とは正反対に飛影は腕の中で 「お刺身、海老天、マヨネーズ。お寿司はチラシで栗きんとん!」 と並んでるであろう料理を調子をつけて連呼している。 「お酒は大吟醸。(はなだ)殿の力作なのだそうだ。紫苑には何やら特別なお酒を用意してあるらしいぞ」 俺を振り返る飛影の目が優しい。 お酒に弱い俺への労りというよりは、縹がわざわざ俺を気にかけて別のお酒を用意してくれていた事が嬉しいようだ。 「大吟醸、か。酒に酔えば本性が剥き出しになるヤツもいるだろう……紫苑に無礼を働く者がいたら……解るな?お前達」 「もちろん!」 「お任せを」 お酒を勧められたりするのかな……断っても良いのかな……俺なんかが断ったら気を悪くしちゃうんじゃないかな…… 「その時は柚葉、助けてね?」 「あぁ、任せろ。そんなヤツ、一瞬で消してやる」 「そうじゃなくて!」 考えている事は伝わっているはずなのに、柚葉からは物騒な返事。 俺はそんなの望んでないのに。ただちょっとだけ、お酒を断る手伝いをして欲しいだけなのに! 「……解ってるよ、ちゃんと」 「ホント? お正月なんだからね!? しかも、ひ、ひ、ひろーえんっで血腥いのは嫌だからね!?」 「俺もいくら鬼でも血腥い披露宴は嫌だな。紫苑が笑っていなくてはなんの意味もない」 からりと笑って肩を抱く柚葉をむぅ、と念押し代わりに睨んでから目の前の襖を開けた。 中は俺の想像していたものとは全く違っていて、一部屋が軽く二十畳はありそうな和室が全ての襖を取り払われて繋がっていた。 これなら確かに全ての鬼神達が一堂に会せる。 ズラリと並ぶ膳に思わずぽかんと口が開いてしまう。 「俺達はこっちだ」 促された先はやっぱり上座というか、披露宴でいうなら高砂と呼ばれる席で、緊張しながら柚葉の後について朱塗りの膳の前に座った。 「足が痺れたら崩して良いんだぞ?」 「……そうする」 慣れない和服に慣れない正座。崩して良いと言われても、崩し方すら解らないのが俺の現実。 でも柚葉は挨拶をして少ししたら抜け出すと言っていたし、きっと大丈夫……なはずだ。 「お務め、誠にありがとうございました」 「おかげで向こう一年、国の平安が保たれます」 サッと着物の裾をさばいて正面に正座して頭を下げる朱殷と白群。その後ろには鬼国に入った時に挨拶をしてくれた雄黄(ゆうおう)京藤(きょうふじ)黒緋(くろあけ)達が続いている。 俺はまだこの三人の名前しか知らないけれど、この国に属する全ての鬼神達とその使い魔が居並び、深々と頭を下げている図には感動さえ覚えた。 これだけの数の鬼神達に頭を下げさせる程の事を柚葉はし続けてきたんだ……そして、今日も。 「千古不易の契りが滞りなく済んだ事は聞いたな? ならばこれは聞いていないだろう。なにせ初めて話すからな」 そういうと柚葉は得意気に(うしとら)の檻での出来事を語り出した。 「用も済んだし背を向けて、出ようとしたんだがな。紫苑が先見をしたんだ。俺に張り付いて潜り込もうとする愚か者の姿を。何をしているんだ? と思った時にはもう、紫苑の手から伸びた(ツタ)がヘドロ状の魂のど真ん中をぶち抜いていてな……俺が紫苑の先見に助けられるのは二回目だ。すごいだろう?」 「(おさ)の先見よりも早い? とは」 「しかも振り返りもせずに(ほふ)るとは……」 ざわついた空間に飛影の声が響く。 「一度目は本当は私だ! 知っておろう? 私があの異国の愚か者にいらぬちょっかいをかけてしまった時。紫苑の先見のおかげで命拾いをしたのだ」 「紫苑様は本当にお強く、そしてお優しく、側にいながら何もできなかった私にお言葉をかけてくださいました」 「むむ? 紫苑はなんと言ったのだ?」 「ふふっ……ナイショ。嬉しいから、ナイショだ」 ズルい! と地団駄を踏む飛影に柚葉は小さな声で 「おい、飛影。そろそろ静かにしないとご馳走が遠退くぞ? 良いのか?」 とこっそり伝えると飛影の地団駄が止んだ。 なんのかんのと騒いでいても、ご馳走はたっぷり食べたいらしい。 「表に出る事はなくとも、日本(ひのもと)の神に座を連ねる誇りを忘れぬよう。迎えた新たな一年、切磋琢磨し、己に課せられた使命を忘れる事のないように。明日からで良い……今日は新年と俺達への祝いも兼ねて、好きなだけ飲み食いして騒いでくれ」 割れんばかりの拍手と新年を祝う声で始まった宴会。 みんな楽しそうに笑ったり、人間界の話をしたり。 さっき柚葉が言った艮の檻での話は何故か伝言ゲームのように遠くの席の鬼神達にまで伝えられている。話が広まるにつれ、俺に向けてのみんなの気が色を変える……俺としては“すごい事をしてやろう”とか“一目置かれたい”とか思ってした事じゃないから、本当にもうどうして良いか解らない。 しかもその伝言ゲームに誤りがないか、飛影がついて回るんだから、なんだか肩身が狭いっていうか、恥ずかしいっていうか。 せっかくのご馳走の味も縹の作ってくれたお酒の味も解らなくなりそうだ。 いっそ飛影の羽根を使って呼び戻そうか、とさえ考え始めた矢先、襖の隙間から差し込む眩い閃光と建物自体がガタガタと揺れる程の爆音に包まれた。 「ひいぃやっ!」 と叫んで飛んで戻って来た飛影は俺の着物のたっぷりとした袖の中に潜り込んでその身を隠し、翳狼はすぅっと俺の影に入れてしまった。 白群も天翔を呼んで自分の影に入れてしまった。 「な、に? 地震? 雷?」 「……あぁ、雷……神也、だ」 俺の戸惑いが解決しないうちに、スパーン! と小気味良い音を立てて庭に面していた襖が開いた。 呆気にとられている俺達の前に立つのは全身に光をまとわせた美しい女性で、その姿に後ろの方からは眩しいと呻く声も聞こえた。 「間に合うた、かの?」 鈴の音のように澄んだ声が響く。 突然の闖入者を咎める者もいない――彼女の問いかけに答える者も、いない。 「間に合うたかの!?」 あまりの無反応に苛ついたのか、少し語尾がキツくなった。 「ゆ、ゆず、あの……」 あの人、誰? と聞きかけた俺の言葉を柚葉の深い溜め息が搔き消した。 「何をしに来た。天照(アマテラス)」 「おお! 常闇の神、おるではないか! という事は隣におられるのが伴侶殿?」 足音も立てずにするりと光が迫って来る。 「恐らく今日契りを交わすだろうと教えられ、慌てて駆けつけた次第……あぁ、その揃いの紋を見る限り、既に儀式は終わったのだな」 「それはそれは大変美しく素晴らしい式でございました」 「おお、常闇の姫! 久しいの。息災か?」 「おかげさまで」 アマテラス……って、あの、アマテラス? 認識した途端にこくっと喉が鳴った。どうりで文字通り神々しいワケだ。 「何をしに来たんだと言ったんだ」 「何って、お祝いに。常闇の神は出雲にも来てはくれぬし、無礼は承知で乗り込まねば伴侶殿のお顔を拝見する事も叶わなかったであろう?」 「……血腥い俺が出雲に行ったら興醒めも良いとこだ。己の立場を良くわきまえている、と褒めて欲しいものだ」 「何を言うやら……光あれば闇が生まれるは当然。私が日輪ならばそなたは氷輪……私の世界で産まれた闇を全て背負わせてしまって申し訳ないと思っているのだぞ? 出雲でも、毎年常闇の席は空けてあるのに……そうじゃ! 伴侶殿、人間であったのだろう? 出雲に来られた事はおありか?」 屈託のない笑顔を向けられて、咄嗟に言葉も出ず、俺は左右に首を振るだけ。 「ならば今年の神有月には出雲に!」 「悪いが行かん。俺と紫苑はのんびりと過ごしたい」 「紫苑? そうか、伴侶殿の名は紫苑と仰るのか! 美しい名だ。名は体を表すというが、誠に美しい。なぁ、伴侶殿? 一つ私の質問に答えていただきたいのだが、良いか?」 「え、あ、はい」 「道端に生える草は神か? それとも神が創ったものか? 伴侶殿はどう思う?」 小首を傾げて、口元を扇子で隠してクスクスと笑う彼女はひどく幼く見えた。 「神だと思います」 飛影が教えてくれた森の木々の話。子供の俺を覚えてくれている木もあの森には存在する。 人間には確かめようがないだけで、草木は意思を持ち感情を持っている。そして人間の身勝手を咎める術なく、ただ静かに受け入れている。 手折られても時を経てまた花をつけ、アスファルトで舗装されても隙間から芽吹く強さは尊敬する。 俺は子供の頃から、その強さが欲しかった。憧れていた。 結局、人間は自然には勝てない、と思う。 だから、神だ。 「ほぅ、即答か……常闇の、見目だけでなく心まで麗しい伴侶殿を得られたな。なぁ、伴侶殿? なんせ慌てて来たもので、祝いの尾頭付きの鯛もないのだ。酒は鬼国の酒が一番美味だと言われたしの。そこで一つ、舞わせてはもらえぬか?」 「舞? 踊り? ですか?」 「天照の舞なぞ、滅多に見れぬぞ?」 自信あり気に扇子を口元から外してニッと笑う天照は、俺が勝手に想像していた全てにおいて完璧な一分の隙もない神の象とは違って、ずいぶんと親しみやすそうだ。 なんとなく……柚葉に似ている……かも知れない。 「……確かに表と裏、陰と陽、そう思われても仕方がないが、なんとなく嫌だ」 俺の耳に口をつけて囁く柚葉の声が本当に嫌そうだった。 「天照(アレ)はどちらかというと、朱殷だろう?」 「……そう?」 確かに朱殷にも似ているとは思う。 明るく、どこか無邪気で、でもきっと厳しさも強さも持っている(ヒト)だ。 「ダメか? 楽師も連れて参ったのだが……」 「日本(ひのもと)を護る御柱の中心が何をバタバタと」 「だから祝いだと言うておろうが。人の話を聞いとるのかえ? それに私だけではないぞ? 常闇に会いたいと言うから首根っこ引っ掴んで連れて参った。ほれ! 何故に気配を消しておるのだ? 出て参れ、空狐」 ニョキッと縁の下から二つの獣の白い耳が覗いた。 その耳は翳狼のよりは小振りで、緊張しているのかプルプルと震えている。 「何やら覚えのある気配がすると思ったら、貴様か! 何故隠れているんだ?」 「だ、だってよぉ、天照様に鬼国の酒が一番だって教えたの、俺だし、常闇が伴侶殿同伴で国に帰るなら絶対に今日しかねぇって言ったのも俺だし、怒られるかなぁ〜って?」 だからビクビクしているのか、と思うとなんだか柚葉のお友達はお茶目さんみたいだ。 自分から会いたいって言ったくせに、いざとなると怖くなって、それで天照に引きずられて鬼国(ココ)まで来たのかと想像してしまって、小さく笑ってしまった。 「て? じゃないわ、さっさと顔を見せろ。無礼者」 「まぁまぁ、長。天照様も空狐様も駆けつけてくださった事ですし、とりあえずは我らが自慢の鬼国の酒を一献、味わっていただきましょう?」 縹の手によって並々と注がれたお酒に天照の頰が緩んだ。 「なんと良い香りか!」 「おっ! これこれ! この匂いったら、最高級のヤツ!」 お酒の匂いにつられた空狐がピョンと身軽く身体を宙に踊らせ、すとん、と床に着地した。 真っ白な髪は長く、ところどころ跳ねているのは寝癖なのか、そういうスタイルなのか……。琥珀を思わせる目がまず柚葉に止まり、つつ、と滑るように隣に座る俺を見た。 「紫苑? でっかくなったなぁ!」 「えっ!?」 俺の記憶は全て柚葉から返してもらったけど、こんなに目立つ男と会った記憶はない。 「えと、あの、初対面……じゃないんですか?」 俺、忘れてる? だとしたらすごく失礼だ。 でも陰から見られてたって事もあるし、どうなんだろう? 「おう、初対面だぞ! 常闇から聞いた紫苑はランドセルを背負ってるって言ってたのが最後で、俺、社変えたからな。すんげえチビでガキんちょだと思ってたら、とんでもねぇ美人でしっかり大人で驚いたぜ。人の時間は流れが早いな」 「そんな幼い頃から常闇は心を決めていたのか! なんとまぁ!」 「……あの、お二人共、初めまして。紫苑です。よろしくお願いします」 「私は天照。もう言ったな。よろしゅう、伴侶殿」 「俺は空狐。名前は(えんじゅ)。木偏に鬼と書く。変な所で鬼の縁ってわけでよろしくなっ!」 律儀なこったな、と苦笑いしつつ俺と同じように頭を下げてくれた空狐・槐は悪い神様じゃないと思う。何より柚葉の友達だし、悪い神様のはずがないよね。 「紫苑、キツネにだけは頭は下げるな」 「なんで?」 苦虫を噛み潰したような柚葉が唇の隙間から抜ける息と共に 「なんかムカつく。紫苑の一礼がもったいない」 と吐き出して、俺はきょとんとして柚葉を見上げ、槐は 「相も変わらず嫉妬魔か!? てか、もったいないってなんだ! 失礼な! 酒、お代わりくれ!」 と大笑いで喚いている。ちらりと柚葉を見上げれば、怒っている風でもない。 ただ、耳が少し赤いのはお酒のせいだけってわけではなさそう。 「もったいないだろう? お前、昔は好き勝手に暴れまわっていたくせに。そんな無法者に俺の紫苑が頭を下げるなど、もったいなくて腹が立つ」 「若かったんだよ! 若いと持て余すだろう? 色々と!」 「持て余して人里を潰されてはなぁ。ほんにあの時お前を捕まえるのには骨を折ったぞ? 常闇の助力がなければ、あともう五つは人里をめちゃくちゃにしたであろうな」 コロコロと鈴を転がすような天照の笑い声と、あうぅ、と頭を掻く槐の呻き声と、ふん、と鼻を鳴らす柚葉。 槐がそんなに暴れん坊だったなんて意外だけど、なんのかんので三人の関係性は悪くないようだ。 槐は社が変わったから柚葉と会う機会がなくなっただけらしいし、天照は柚葉に出雲に来て欲しいみたいだし。 わざわざお祝いに来てくれたんだから、とお酌をしようと徳利を持つと天照はゆっくりと首を左右に振り 「なんとも美味であった。景気付けの一杯にはもってこいの美酒であったぞ。では、舞わせていただこうかの」 と言って立ち上がると 「舞が終わったら、もう一献。その時は伴侶殿の手からいただきたい。良いか?」 と真っ直ぐに俺を見て首を傾げた。その問いに頷くと、天照は光を残して庭に降り、手を叩いて連れて来たと言っていた楽師達を呼んだ。 ちりん、と鈴が鳴る。 それを合図に一つ二つと楽器の音が重なり、どこか懐かしいような胸に沁み入る旋律を具現化するように光が舞う。 天照が身を翻すと、膝まで伸びた真っ直ぐな黒髪がキラキラと美しく広がり、ふわりと舞い上がった着物も太陽の光を浴びて虹色に輝く。 幻想的な天照の舞はその場にいた全員を魅了した。 突然降り出した細雪が天照の舞に華を添え、末席の鬼神達は少しでも良い場所で見ようと与えられた膳を離れ、身体を寄せ合い押し合いしながら、固唾を飲んで凝視している。 「……永久(とこしえ)に幸あれと願うのみぞ……」 始まりとは逆に一つ二つと楽器の音が減っていく。 最後にちりん、と鈴の音が聞こえて辺りを静寂が包んだ。

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