55 / 71
第五十五話 それは煌びやかに風景を染める
泊まっていけば良いのに、と唇を尖らせる朱殷 をどうにかなだめて、是が非でも戻ると伝えると、これでもかと土産を持たされた。
「私がお送りしましょう。そのように申しつかっております」
「私は酒樽を待つので精いっぱいだ。助かった!」
「私はお土産を背負うので精いっぱい……お二人と孔雀を運べなくて、どうしようかと思っていたのですが、天翔 には本当に感謝ですね」
「あの、紫苑 様? 私、自分で……」
紫苑の編み上げた大きな鳥籠の中で申し訳なさそうに孔雀が言う。それを大事に抱えた紫苑は天翔の背の上で俺にもたれかかって、俺が作り上げた更に大きな結界の中で孔雀に気にしなくて良いよと伝えている。
孔雀の尾羽が長くて、結局紫苑の鳥籠には収まらなかったので、万が一を考えて紫苑ごと孔雀も俺の包んだ結果、孔雀は二重の結界で保護されて、紫苑は心底安心しているのが現状だ。
「一瞬で抜けてみせましょう。ねぇ、孔雀殿? ここは鬼道……鬼神や妖魔の類が通る道。貴方に何かあったら、解るでしょう? 紫苑様が悲しまれますよ?」
「でも、やっぱり申し訳なくて」
「友を助けるのは当然の事。紫苑様? 速度を上げます。孔雀殿をしっかりと抱いておられませよ?」
ビュッと風が耳元を揺らして、鬼道を作る靄 が渦巻いて目の前で裂けて行く。
結界の中にいる紫苑と孔雀は髪や尾を揺らす事なく、恐ろしく速く過ぎて行く真っ暗な空間を
「うわぁ! すごいねぇ!」
「はわわ……紫苑様、すごいです! 私はこんなに早く飛べませんもの!」
と呑気に眺めている。背後からは飛影 の半ば諦めたような声が微かに聞こえた。
「私達は少し遅れるのだぁ〜主人 、鬼道は閉じないでおいて欲しいのだぁ〜」
俺のゆっくりで良いぞ、と言う命が届いたかは解らないが、まぁ、大丈夫だろう。
見慣れた裏庭に着いた途端、天翔は庭いっぱいを翔けて、あまり長く飛ぶ事が得意ではないと言った孔雀に空からの景色を見せてくれている。
「紫苑様、長 、あの大銀杏の木の元に行きたいのですが、ダメですか?」
「良いぞ。しかし何故だ?」
「あの木から一番強く霊気を感じます。えぇと、いわゆる御神木という存在なのではないかと……」
「行っておいで! 俺達は……うん、遅れて来る飛影と翳狼のお手伝いでもしてるよ」
「あ、お手伝い……私もしなくては」
「大丈夫! お手伝いっていっても、俺も柚葉も裏庭 にいるから。ね? 行っておいで?」
「着地しますよ」
ふわりと地に足をつけた天翔は大きな身体を折り曲げて孔雀と目を合わせると、ニッと目を細めた。
「私はお暇しますが、すぐに会えますよ! なんせ私の主人は長と紫苑様の事が大好きなのですから。長、紫苑様、では私はこれで。あちらはまだ宴も続いておりましょうし、ここだけの話、朱殷様が何かやらかさないか、もう不安で不安で」
「ふふ、確かに! 天翔、ありがと!」
「気を付けてな」
「天翔殿、本当にご迷惑をおかけしました。次から自分で飛べるように紫苑様と長に相談してみます」
同じ鳥なのに運ばれた事に抵抗があるのか、少ししょげた孔雀はペコリと天翔に頭を下げた。
「気にし過ぎですよ! 飛影殿だって私にしがみついて移動する事だってあるのに。さぁ、私は本当に戻らねば。紫苑様? 呼び名の事、孔雀殿に教えてあげてくださいね?」
天翔の羽ばたきと共に舞い上がった風に落ち葉が舞う。風が落ち着いてから孔雀の籠を解いて、紫苑の大好きな庭を歩いてもらった。
「どう? ここは誰も入って来れないんだよ。妖も人間も。俺達だけの場所だよ」
「素晴らしいです! 私がいた森よりもずっとずっと気が澄んでいて……あ、紫苑様、本当にあの銀杏の木へ行っても良いですか?」
「良いよね? 柚葉?」
「もちろん。もう少ししたら飛影達も戻って来るだろうし、好きにして良いぞ」
律儀に頭を下げて大銀杏の木へ向かう孔雀の羽は冬の冴えた月光に照らされて妖しく輝く。
大銀杏を見上げた孔雀はスリッと頰を幹につけて、目を閉じている。
――ぽた。
無音の庭ではその微かな音さえ俺達の耳は拾ってしまった。
「どうしよう、孔雀泣いてる」
「待て、もう少し様子を見よう」
邪魔にならないようにコソコソと耳打ちし合う俺と紫苑はゆっくりと板の間に移動して、手を握り合ったまま微動だにしない孔雀を見守った。
十分近く経った頃、孔雀はくるりと向きを変えて、翼を大きく広げると一瞬で俺と紫苑の間に収まった。
「ヤな事、思い出しちゃった?」
不安そうに聞く紫苑に孔雀はフルフルと頭を振る。そしてポツリと
「御神木に教えていただいておりました。幼い紫苑様がここにいらしていた事や、ずっと待ち続けた長の事を。聞いておりましたら、我知らず涙が出ておりました」
「あいつ、お喋りだな?」
「御神木も紫苑様が笑顔で嬉しいと。幼かった頃の無邪気な笑顔がまた戻って来たようで嬉しくてならない、と」
だから怒らないであげてください、と俺を見上げる孔雀の目は未だに潤んでいて、瞳に映り込んだ己の顔をしげしげと見つめてしまった。
二本の角に長く伸びた髪の俺は、いくら紫苑の側と変わらないと言われても、やはり孔雀にはつらいのではないかと思う。
深呼吸を一つ。
「え? あ、長? 紫苑様も? お姿が」
「どうだ? 先程よりは鬼気は放ってはいない。少しでもお前が楽だと良いんだが」
「うぅーん、すごく長く鬼化 してたから疲れちゃった。まだまだだなぁ……ふ、ふわぁあぁぁ〜」
孔雀を撫でながら紫苑は大欠伸を隠そうともしない。
今日は朝から大忙しだったからそれも仕方ないかと思い、紫苑の頭にそっと手をかけて妖力の補給という名目で長いキスをした。
「んっ! まっ……くじゃ、くんぅう!」
「あ。お幸せそうです! 幸気が溢れて参りました! おかまいなく!」
ふふふ、といたずらっぽく笑うと、孔雀はまた大銀杏の木の方へと飛んで行き、何やら木と話しているようだ。
孔雀が離れた事で安心したのか、はたまた余程妖気に飢えていたのか……積極的に舌を求め絡め出した紫苑の頰を撫でると、ぎゅっと着物の前身頃を握られた。
――もっと欲しい。まだ欲しい。
俺もだ、と答えると紫苑の喉がこくりと鳴り、ほんの少し離れた唇の間を銀の糸が離れた俺達をつうっとつなぐ。
「……ぁ、えと、飛影達、帰ってくるし……」
「そうだな。今はガマンだな?」
「ん。孔雀もいるし。銀杏と仲良くなったのかな?」
「どうだろう? 精霊にどれ程の力があるのか……まぁ、自分からひっついてるんだから悪い影響は受けていないんじゃないかな?」
そか、と短く納得した紫苑の肩を抱きなおして再び軽いキスを繰り返していると、開いたままの鬼道から飛影と翳狼がひょっこり飛び出して来た。
「あ! お帰りなさい!」
「ただいまなのだ! 銀杏にひっついて、どうしたのだ?」
「お話をしてました。今まで見てきた事を教えてもらってました。飛影さ、飛影の事や翳狼の事もたくさん教えてもらいましたよ」
「なんと! 孔雀もお話ができるのだな! はぁ、変な事を言われていなければ良いのだが」
「私は変な事、してませんもの。安心です」
「ふふ、大丈夫です。変な事なんて……飛影も翳狼も忠義厚く素晴らしい、と」
「むふ、銀杏さんに褒められたのだ。主人、しお、ん……あぁ」
いつもの光景だ……と呆れつつも嬉しそうに言う飛影は翳狼を促して、たんまりと持たせてもらった土産を中へ運ぶと言う。
それを聞いた孔雀は自分も手伝うと言って翳狼が持たされている荷物の一つを受け取ろうと首を伸ばした。
「良いのだ。翳狼はともかく、私は見かけによらず力持ちなのだぞ。孔雀は銀杏さんとお話を続けていて欲しい」
「でも、私もお役に立ちたいです」
「では、主人と紫苑様を見張っておいてください。すぐに戻りますから、戻ったら私達ともたっくさんお話をしましょう」
「はい! 楽しみです」
紫苑! と飛影に名を呼ばれた紫苑は片手を三階に向けると結界を解き、掌から蔦 を出して器用に窓を開けた。
「どうかな?」
「さすが! 主人、全部三階の台所に置いて来ても?」
「あぁ、仕分けが必要なら俺と紫苑でやるから、置いておいてくれれば良いぞ」
「さあ、翳狼、もう一踏ん張りだ!」
「ありがとねー!」
いつの間にか俺の膝の上に移動していた紫苑の楽し気な声援に翳狼の尾が大きく揺れ、飛影はピッと胸を張り直した。
「あいつら、やっぱり紫苑に良いトコを見せて褒めて欲しいみたいだな? いや、違うな……」
「え、じゃあ、何?」
きょとんと俺を見上げる紫苑は本当に解っていないようだ。
お前が笑ってくれるからだよ、と言いかけてやめた。
「ところで……孔雀の名はどうする? 早く決めてやらないと“孔雀”で定着してしまうぞ?」
「あ、今、話変えた!」
ぷっと膨れた頰を突くと、何がおかしいのか紫苑は俺の首に腕を回してくすりと笑った。
「俺はきっと変われないよ? 嬉しかったり楽しかったら笑っちゃうし、もし、もし不安な事があったら顔にも出るし、きっと柚葉には解っちゃうよね? 今、俺が解っちゃったみたいにさ」
「なんだ。筒抜けか」
「そうみたい……同じ紋になれたからかな?」
そう言った紫苑は腕を伸ばすと至近距離で俺を覗き込み、ふわりと笑った。
「きっとこれから朱殷と白群 みたいになんでも解っちゃうようになるんだろうね。でも、解っちゃっても、話そうね」
「もちろん。いくら契りを交わし、同じ紋を持っても全てを理解し合えるワケじゃない……あの二人は長いからな。その時間が理解を手助けしている部分はあるだろう。まぁ、焦る必要はないさ。ずっと一緒なんだから。ホラ、見て?」
左手の甲を紫苑に見えやすい位置にかざすと、紫苑は目を大きく開いて口をはくはくとさせた。
「な、なんで!? 色……柚葉の石に色がついてる!」
「紫苑のもな。少し変わったはずだぞ」
三つ並んだダイヤはそれぞれが妖力をたっぷりと溜め込んで、渦巻いている。
俺のは、石の中心部分が深い緑。そしてその緑を薄く青の混ざった紫色が優しく包むようにぐるりぐるりとうねっている。
紫苑のはおそらく俺のと逆だろう。
「すごい……柚葉に護られてる……へへっ嬉しい」
目尻に滲んだ涙を零さないように、無理して笑おうとする紫苑の頭に手をかけて抱き寄せた。
「嬉し泣きなら良いんだ」
「っ嬉しい。嬉しいよ! 嬉しい、嬉しい!」
ぐずっと鼻をすすった紫苑を心配して側に来た孔雀は、紫苑の涙に悪い意味はないと感じたのか、ホッと溜め息をついて足元に座り込んだ。
「俺達が戻る方が早いかな? 大荷物だったしな。よし、紫苑? そのまま」
「ん。掴まってる……柚葉、運んで」
「孔雀は少し飛べるか? さっき紫苑が開けた……ほら、あの窓だ。あの窓から入ると良い」
「大丈夫です! ちゃんと飛べます」
大きく美しい翼を広げると、孔雀は三階の窓をジッと見つめて、ゆっくりと羽を動かし始めた。
「飛影と翳狼にそのまま休めと伝えてくれ」
「はい。畏まりました! お先に参らせていただきます」
孔雀が羽ばたく度にきらりきらりと様々な色彩が辺りに散る。空に舞い上がった孔雀は軌道調整の為か二度旋回し、指し示した三階の窓を目指して飛ぶ姿はまるで虹の矢のようだった。
その光景に紫苑が溜め息を零して、やっぱり綺麗だね、とうっとりとした声音で呟く。
そして歩き出した俺の腕の中で、小さく頷くと
「決めたよ」
と力強く言い切った。
そうか、とだけ答えて三階に顔を出してみると、情けない顔をした飛影とオロオロしている孔雀が慌てて寄って来た。
「主人! 大変なのだ!」
「助けてください! 紫苑様」
「へ!?」
「翳狼が大変なのだ! 私達では最早どうにもならぬ。ここは一つ、お力添えを!」
するりと腕の中から抜け出した紫苑は、飛ぶのも忘れて、ちょこまかと廊下を走る飛影と孔雀の後を追い、駆け出した。
「柚葉! 早く!」
ぐいっと引かれ、たどり着いた先はキッチン。
そしてキッチンの床に蹲った巨体の尾は揺れてもいない。
「翳狼? どうしたの? え、コレ……」
「主人、紫苑様……面目ございません……」
大荷物をくくり付けられた翳狼は、荷物同士を結んだ結界で編まれた紐に見事に絡まっていた。
どうやら途中で解けぬように、と朱殷と白群が気を回した結果、恐ろしく強い結界紐ができあがったようだ。
「荷物を置いたは良いが、紐が解けなくてな。私がこっちの紐をあっちにやって、風呂敷からどうにか外した紐の先をこっちに通して、と色々とやってみたのだが結局……」
「しっかりすっかり絡まってしまって動けないのです。あぁ、私、カッコ悪い……」
ぺたんと寝てしまった耳と悲嘆にくれた翳狼の声を聞いていると孔雀がおずおずと
「私も、引っ張ったりしました」
とまるで悪事に加担したと言わんばかり。なんとも悲壮な声で告白をする。
「うむ。孔雀にも力を借りたのだが、やはり私の初手が悪かったのであろう……なんというか、翳狼があやとりなのだ」
飛影の表現に笑いそうになりながら、それをこらえて右手をかざす。
「じっとしてろよ。一瞬だ……」
紐の中を巡る朱殷と白群の込めた気の力を推し量り、打ち消すのに充分な妖力を込めて一言
「破」
と唱えると、翳狼を苦しめていた結界紐はバラバラと音を立てて床に落ち、役目を終えたそれら残骸は灰となって、すぅっと消えた。
「翳狼、どこも痛くない?」
「大丈夫です、本当に、お恥ずかしい限りで……」
「翳狼よ。次に朱殷と白群が来たら、とりあえずお前の気が済むまで追いかけ回すなり、座布団代わりにするなりすると良い。あいつら、妖力を込めすぎだ。こんなに強く編まれていては例えこの場に天翔がいても解けぬだろうよ」
「……という事は、主人? 翳狼があやとりになってしまったのは私のせいではないという事であろうか?」
相当責任を感じていたらしい飛影はくりんくりんと首を動かし、ゆったりと伸びをして筋肉を解している翳狼と俺とを交互に見る。
「そうだな。要因の一つではあったかも知れないが、原因ではないな。孔雀もだぞ! 翳狼を助けようとしてくれたのだろう? 気に病むなよ?」
「そうだよ、孔雀。ありがと」
紫苑に触れられた孔雀は照れくさそうに目を細めたが、嬉しい気持ちが勝ったのだろう。目の下の南国の深い海のような青が一瞬赤く煌めいたのを見逃さなかった俺はなんだか得をした気がした。
どうせすぐに朱殷達が来るだろうから、持たされた土産は全て三階の冷蔵庫に詰め込んだ。
縹 が気を利かせたのか、わざわざ特大の角樽に入れられた酒は直射日光を避けて床に並べた置いた。
いつかこれが空になったら寝室と紫苑のアトリエに一つずつ飾るのも良いな、と甘ったるい考えが浮かんで我ながら苦笑した。
「ん? なぁに? 柚葉、楽しそう。どうしたの?」
「うん、ちょっとね。お湯はまだかな? 紫苑?」
「沸いたよ。俺はレディグレイ飲みたい。柚葉は?」
紫苑には片付けの目処が立ったと同時にお茶の準備を頼んでいた。
同じ物を、と答えると紫苑はレディグレイの缶を隣に立って畏怖と尊敬の眼差しで鬼火を操る紫苑を見つめる孔雀に見せて、どう思う? と聞き、綺麗ですという答えに
「茶葉もすごく綺麗なんだよ。香りも良くてね、孔雀も飲めたら良いなぁ」
とご機嫌で返している。
「……あのさ、お茶が終わったら、アトリエに行きたいんだけど、良いかな?」
「もちろん。何か菓子でも持って行こう」
慌ただしかった今日の終わりに、大好きな色に囲まれて落ち着きたいのだろうと思って答えた俺に、紫苑はものすごく申し訳なさそうに
「あ、いや、孔雀とね、孔雀と二人になりたいんだけど、ダメかな?」
とポットに湯を注ぐ手を止めて真剣な表情 で俺を見た。
孔雀に伝えたい事のイメージが伝わってくるがまだ紫苑の中でも上手くまとまっていないのだろうと思う。あまりに漠然としたイメージが俺の中を行き来する。
それでも伝えたい想いがあるなら、どんなに時間がかかっても、どんなに言葉に迷っても伝えるべきだ。
「行っておいで」
「ありがと!」
清々しくも華やかなレディグレイの香りに包まれたキッチンに、よりいっそう華やかな紫苑の笑顔が弾けた。
飛影達からここでの暮らしのあれこれを説明されながら、孔雀は驚き通しだった。
なんせ朝は肝試しに来た連中からのお布施の回収から始まるのだ。
その後は全くの自由。森に遊びに行くも、部屋に戻って休むも自由だ。
「私は羽根を紫苑に渡してあるのだ。呼ばれればすぐに戻れるように」
「私は耳がやたらと良いので、森の中ならどこにいてもお声が聞こえます」
「あ、私は……」
「大丈夫だと思うぞ。孔雀も木々とお話できるのなら、教えてもらえる。森の案内は私か翳狼がするし、それに孔雀だって精霊なのだから主人の声を聞く能力はあると思うのだ」
どうであろうか? と視線を向けてくる飛影に俺は無言で頷いた。だが、それにはおそらく紫苑の力が必要だ。
「……じゃあ、話の途中だけど、アトリエ行くね。孔雀も一緒に。行こ?」
「え? アトリエ? アトリエとはなんでしょう? いえ、紫苑様が行かれる場所ならどこにでも共に参ります」
パタンと閉じたドアを飛影と翳狼は不安そうに見つめるだけで、何も言葉を発しなかった。
残された俺達はあえて二人に触れる事なく、天照 の欲しがりから解放されたと喜び合ったり、翳狼が天翔を羽毛扱いしたのだと笑い話をして過ごした。
俺の中には紫苑の感情がたまに流れ込んできて、泣いているのだな、笑っているのだなと……それだけは解った。
笑う理由が解らないのは気にならなかったが、泣く理由が解らないのはつらい。
二人が出て行って約一時間。再びドアが開いた。
泣いた紫苑の目は少しばかり赤らみ、孔雀の目も潤んでいる。
「えっと、ね。みんな。聞いて」
そっと孔雀の首を撫でながら、穏やかな声で紫苑は孔雀に
「自己紹介。ね? して?」
と促している。孔雀はこくりと頷くと、緊張しているのか、うわずった声で
「長く名もなかった私は、紫苑様より名を賜りました。きょ、今日から、私は紫苑様の使い魔、名は……名は……」
と話し出したが、泣き出してしまった。それが嬉し泣きなのは孔雀から立ち上る気を見ればすぐに解った。
ずっと孔雀の首を撫で続ける紫苑は微笑みを浮かべ、慈愛とも言って良いような表情で孔雀を見ている。
「今日から、紫苑様の使い魔となりました。名は……絢風 と申しますっ……皆様、よろしくお願いいたします」
「ほう、良い名だな」
「はいっ!」
孔雀――改め、絢風が零す涙はやはり真珠か水晶のように美しく、床に吸い込まれて儚く消えた。
「絢風の歓迎会をせねばならんと思うのだ!」
「幸い食べ物もいっぱいありますしね! 紫苑様、ダメですか? 今夜はもう少しだけ夜更かしして、絢風とお話したいです」
否があるものか。
「お前達も運ぶのを手伝え」
「絢風、絢風! 一緒に行って食べ物を物色しようぞ! あと、紫苑にマヨネーズ使用の許可を取ってもらいたいのだが……」
「ぷっ……はい、お願いしてみます」
「ダメですよ、飛影。自分の欲に絢風を使うなんて! 私はお肉が食べたいです。絢風は?」
「え、えっと……海老さん?」
ワイワイとキッチンへ向かう三つの影を見送ると、ぽすんと腕の中に紫苑が飛び込んできた。
「良い名をつけたな。俺は好きだ」
「鬼国でも思ったけど、さっき確信したんだ……孔雀が飛ぶと周りの空気や巻き起こる風まで色が変わるって」
絢風とどんな話をしたのかは……今は聞かないでおこう。
キッチンから俺達を呼ぶ浮かれ声がうるさくて仕方がないのだ。
ともだちにシェアしよう!