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第五十六話 お酒はほどほどに
名を呼ぶ度
「はいっ!」
と律儀に、それでも嬉しそうに返事をしてくれるのが嬉しいらしく、俺に呼び過ぎだと言われるくらいに紫苑 は絢風 の名を呼んだ。
しかし実は俺も紫苑と同じくらいの回数は呼んでいると思う。
名を呼ばれる喜びを知っているからか、つい呼んでしまうのだ。
「絢風?」
「はいっ!」
「次は何食べる?」
「次は……人参が食べたいです。紫苑様」
「すごいな、絢風は人参が好きなのか。紫苑は人参が苦手でな」
「もう! それは子供の頃の話だってば! 今はちゃんと食べられるよ」
俺の横槍にムッとしつつ、コタツの上に所狭しと並んだ料理の中から絢風と同じ人参摘んでを口に放り込む紫苑。
「絢風! お宝発見なのだ! こっちのお重は海老さんばかりだぞ!」
「海老さん! 紫苑様、あの」
飛影 の言葉にパッと顔を上げて紫苑を呼ぶ絢風と
「剥いてあげるからね」
と言われて、すりすりと頰を寄せて甘える絢風とされるがままの紫苑が可愛くて仕方がない。
「俺も食べたい! 柚葉 も食べるでしょ?」
みんな同じ数だけ。翳狼 は身体が大きいからたくさん食べれば良いのだが、主人 より多く食べるなんて畏れ多い言う。なんともマジメな事だ。
「えっびマヨ! あ、そぉれぇ〜、えっびマヨ!」
「変な歌、歌うな。絢風に阿呆 が感染 る」
辛辣な言葉に飛影は失礼なのだ、と文句を言いつつも口を噤んだ。あまり文句を言って歌い続けると、お宝がもらえなくなると思ったのだろう。賢明だ。
薄い薄い酒を少し飲んで、既にしっかりご機嫌な紫苑は口元に笑みを浮かべて、ゆっくりと丁寧に海老を剥いている。
「ほら、剥けたよ。紫苑、口開けて?」
「んぐ、美味しい。ありがと、柚葉」
「きっと次は紫苑が主人に“あーん”をすると思うのだ。絢風、こういうのをアッチッチというのだぞ」
「あっちっち? 熱いというよりは、ほんわかで……ぬくぬくだと思います」
「そうだよ。柚葉の腕の中はいつもほんわかあったかくて、ぬくぬくなんだよ! へへっ、はい、柚葉。美味しいよ?」
「美味いな。自分の手で食べるよりも数倍美味い」
「えへへ~、次も食べさせてあげるね、柚葉!」
酔った紫苑はいつもより饒舌で、少し積極的だ。この場に朱殷 達がいないのも幸いした。臆面もなく惚気 て、甘えて、嬉しそうに俺の口元に剥きたての海老を差し出してくれる。
「なんと、溢れ出す、この幸気の麗しさ!」
絢風は眩しそうに紫苑を見上げ、無意識か首の色を一瞬変えて美しい尾羽を広げた。紫苑は、ん? と首を傾げて海老の殻を剥く手を早めた。
「絢風の目には、その幸気というのはどう見えているんですか?」
「え、と、翳狼や飛影には見えていないんですか? うぅん、こう、光とたくさんの色が混ざり合って……」
「絢風みたいですね」
翳狼にそう言われた絢風は首を回して自分の身体を確認すると、自信満々に
「お二人から溢れ出す幸気はこんなものじゃありません。もっともっとたくさんの色と光が溢れていて、とても美しいです。失礼ながら、本当に鬼神様かと疑いたくなる程に純粋で美しい幸気なのです。まるで虹と光の奔流です!」
と言い切り、目を細めて紫苑の手から海老を啄む。翳狼は何を納得したのか頷くと、絢風に寄り添って座り直すと目を閉じた。
「私は今、紫苑様の幸気を浴びているのですね……確かに……そう、なんとも言えぬ穏やかな気持ちになります」
それは純粋にお前が紫苑の事が大好きなだけだろう? と思わなくもないが。
ふぁさふぁさと揺れる尾を見ればそんな不粋なチャチャを入れる気も失せる。
「くぅうぅ! やはり海老マヨは最高なのだ!」
「飛影は本当に海老マヨが好きみたいです。幸気が美味しそうです」
大げさに身を震わせて喜ぶ飛影を見て絢風がくすりと笑う。
「阿呆ばかりやってないで食べろよ、飛影」
「むぅ、阿呆な事ではないのだ。この世にはこんなに素晴らしい調味料があるのだと絢風に教えておるのだ」
「……でも長 も紫苑様もやめておけ、と」
「あぅ、美味しいのに! 試してみても良いと思うのだ。食わず嫌いは良くないぞ、絢風」
一人でも仲間が欲しい飛影はどうにか絢風を引き込もうと、兄貴風を吹かせてみたり、とにかく美味しいのだ! と力説してみたり、せめて一度だけ! と懇願してみたりと必死だ。
「あ、はい……紫苑様? 私も……」
「ん。いつかね。ゆっくりでないと、お腹痛くなっちゃうかも知れないし。飛影も、絢風に楽しい事や美味しい物はいっぱい教えてあげて欲しいんだけど、やっぱりそれも」
「ゆっくり、なのだな! 解った!」
紫苑に諌められた飛影は機嫌を損ねるでもなく、絢風に急かしてすまなかった、と詫びる始末。あの口達者な飛影をよく黙らせたものだと感心してしまう。
「ゆーず、あーん」
「ん? あぁ、剥いてくれたの? ありがとう、紫苑」
指先は海老の汁でベタベタ。垂れてくる汁から着物の袖を守ろうと肘上で挟んだ紫苑はなんとも動きにくそうだ。
滅多に見られない紫苑の和装と刻まれた同じ紋を少しでも長く見ていたくて、着替えは後回しにしてしまった俺のせい。
「紫苑は手を拭いて。残りは俺がやろう」
ん、と喉の奥で返事をした紫苑は自分の指を咥えると
「海老と同じ味になっちゃったぁ!」
とへらりと笑った。
いつもと変らぬ配分で縹 に持たされた杏の酒を作ったはずなのだが……いつもより酔っている?
「誰か紫苑の為に冷蔵庫から水かコーラを取って来てくれないか?」
「畏まりました。紫苑様、お待ちを」
熱い身体を預けてくる紫苑に飲み過ぎか?と問うと、緩慢な動きで左右に首を振った後に縦に振り直した。
「鬼国でもちょこちょこ飲んでたんだけど、あの時は緊張しててそんなに酔わなくて。でもここに帰って来て、絢風ともちゃんと話したらなんか安心しちゃって、ふわぁああああって……」
「ごめんなさい! 私のせいでっ」
「違うよ〜? 絢風のせいじゃないよ。お酒に弱い俺のせい!」
絢風に手を伸ばした紫苑は残念そうに手を引っ込めて、丹念に手を拭く。拭き終わると指先を鼻につけて、また拭く。何度もそれを繰り返し、拗ねたように唇を尖らせてオシボリをテーブルに置いた。
「拭いても拭いても海老だ! これで絢風に触ったら、絢風が海老になる!」
むぅ、と唸ってヨジヨジと俺の膝から立ち上がろうとする紫苑の頭の中はどうやら手を洗う事でいっぱいのようだ。
「紫苑、もう少し待って? あと少しで終わるから一緒に手を洗いに行こう」
「ん」
「紫苑様、コーラを持ってきましたよ」
器用に咥えた赤い缶を紫苑の手にそっと落とすと、翳狼は心配そうに赤らんだ頬を舐め上げる。
数回喉を鳴らし、ぷはっと息をつく紫苑の気はとても楽し気で、幸気が見える絢風に本当に大丈夫だと言われて翳狼はやっと残りの海老を食べる気になったようだった。
「ありがとね、翳狼」
「いいえ。とんでもない」
「どこに何があるのか……少しずつ覚えていかなくては。私も」
役に立ちたい、と決意に燃える絢風と
「さっき来たばっかりだよ? ゆっくりで良いんだって。ほら、絢風! 海老食べよ!」
「お正月なのだぞ、ゆっくりするのだ。あれやこれやはそのうち身につく」
「もちろん私達もお手伝いしますしね。解らない事があればなんだって。頼ってくださいね」
「あ。一階と二階は行っちゃダメだよ? 一応結界張ってあるけど、絶対絢風には良くない場所だからね? 約束ね」
「森に出るのはまだ待て。新しい妖魔の頭に話をつけて、結界の質も少し変えてやろう」
なんのかんので絢風を甘やかしたい俺達。
長まで……と首を竦めた絢風の口元に剥いた海老を差し出し、紫苑は絢風の名を呼んだ。
「はいっ!」
「俺もね、まだまだ解んない事だらけなんだぁ。一緒に覚えていこうね」
「は、ぃっんごっ」
「ふへへ。海老さんおいしーね!」
絢風の口に小さくちぎった海老を押し込んで御満悦な紫苑はさんざん酔っ払いだとからかう飛影と軽口を叩き合っていたかと思うと、突然ぷつりと糸が切れた人形のように力が抜け、こてんと寝入ってしまった。
「ふむ。やはり典型的な酔っ払いさんなのだ」
「疲れたんだろう。今日の紫苑は初めて尽くしだったからな」
初めての鬼国で、楽しみにしていたのに縹の酒蔵に連れて行ってやれなかった。
約束を破った事になるんだろうかと思いつつ、すぅすぅと腕の中で寝息を立てる紫苑の顔にかかった髪を払う。
「主人。私達でできるだけのお片付けをしておくので、早く紫苑を休ませてあげて欲しいのだ」
頭を左右に揺らしながら、紫苑を覗き込む飛影の声音はとても穏やかだった。
「紫苑、ゆっくり休むのだぞ。絢風の事は任せておけ」
「ぅう、ん……ん。ひ、かげの、マヨネー、ズ……」
「くふふ! 私の夢を!」
照れくさそうに両の羽で顔をすっぽり覆った飛影は
「あやか、食べちゃダメ……逃げて……」
「なんと! 前言撤回! 絢風の夢なのだ!」
紫苑の寝言第二波でかなりの衝撃を受けたのか、絵と同じポーズで固まってしまった。
「ん? 逃げて? 逃げて!?」
「はい、飛影。固まっていないで片付けましょう? 絢風も」
「あ、はいっ。紫苑様が夢の中でまで私を案じてくださっているなんて……うふ、嬉しい」
いそいそと重箱の蓋を嘴に挟んで長い首を伸ばす絢風の気は喜びに溢れ、身体を覆う羽がいっそう美しく輝く。
「やれやれ、紫苑は本当に絢風が大事なのだな。ゆっくり、と約束したのだ。私は無理強いなぞ絶対にしないぞ? 今夜だって、ちゃんと絢風にお部屋を教えてあげて、眠くなるまでお喋りに興じるつもりなのに」
「絢風は疲れているんだから、ちゃんと寝かせてやれよ?」
「うむ。少しお寝坊さんしてしまうやもしれぬが。主人こそ、紫苑をちゃあんと眠らせてあげるのだぞ! むふっ」
ニッと細められた飛影の目に浮かんだ好色。両手が塞がっていなかったら思いっきり窓の外に投げてやるのだが。
「阿呆が。さっさと翳狼と絢風を手伝え」
寝入った相手を抱き起こす程、俺の理性は脆くはないぞと飛影に耳打ちしてたどり着いた寝室。
そっと紫苑をベッドに寝かせて、思わず天井を見上げた。
さすがに少々着崩れた和服の合わせから覗く鎖骨の影や、暗い部屋の中ではだけた裾から月明かりを浴びて白く浮かび上がる細く形の良い脚は俺の劣情を充分に刺激した。
「う、ん……」
「苦しいか?」
帯に手をかけ、力なく指を動かし唸る紫苑からは返事はない。帯を解いて、起こさないように黒に染まった紋付を脱がしてやると、ふぅっと薄く開いた唇から一呼吸が洩れ落ちた。満足気に持ち上がった濡れた唇の両端すら艶かしいと思ってしまう。
「全く、目の毒だな?」
柔らかな髪に指を通して額に唇を落としつつ、これは起きないなと確信して手早く紫苑を和服の締めつけから解放して、冷えを感じる前に布団をかけてやる。
もぞもぞと布団の中で寝返りを打ち、無意識に俺を探して腕を伸ばす衣擦れの音に急かされているような気がして、自分の着物を脱ぐのに時間はかけられなかった。
全て脱ぎ捨てて、紫苑の隣に潜り込むといつもより少し熱い額が胸に当たる。探し当てた温もりに安心したのはお互い様、か。
「おやすみ、紫苑」
明日はお年玉をあげよう。
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