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第五十七話 警告音
※紫苑視点になります
とくん、とくん……規則正しいリズムは柚葉 の心臓の音。少し重いのはきっと柚葉の腕で、こんなにあったかいのはしっかり抱きしめていてくれるから。
いつ寝たのかなんて正直覚えていないけど、飛影 に酔っ払いさんってからかわれたのはなんとなく覚えている。
「ゆず、おは、よ……」
「う、ん? 起きた? おはよう、紫苑 」
寝起きの掠れた声もいつも通り。
「……迷惑かけちゃった?」
飛影にからかわれて、そんな事ないって言った後どうしたっけ?
絢風 はどうしたんだろう?
記憶が、ない。
「いや、紫苑はひとしきりケタケタ笑って、こてんと寝たから。絢風なら大丈夫。ただ飛影が眠気がくるまでお喋りすると言っていたから寝不足かもな?」
「それは……絢風、大丈夫かな?」
「まぁ早速洗礼を受けた、といったところか? でも翳狼 もいるし、飛影だって相当気に入った様子だったからな、無理はさせないと思う」
多分な、とほんの少し苦々しく言葉を付け足した柚葉に笑いながら擦り寄るとすぐさま額にキスが一つ落ちてきた。
いつもの事なのにやけに嬉しくて、俺からは柚葉の鎖骨に痕がしっかりと残る程に吸いついてやった。
「あの、さ……その、スる?」
「え? お誘い?」
「だって」
どうやら全裸みたいだけど、俺の身体は柚葉に抱かれたって言っていない。起きたら溢れ返ってしまいそうな程に補給されている妖力もいつもに比べれば少ないし、何より俺の意志を無視して一方的に欲望を満たす柚葉なんて考えられない。
「初夜なのに、寝ちゃった、し……」
申し訳なくて蚊の鳴くような声で告げたのに、柚葉は心底おかしそうに笑い出して俺の髪をくしゃくしゃに撫で乱した。
「その辺は古風なんだな?」
「だって、あんな立派な式挙げられたら意識しちゃうよ」
真っ白な着物が儀式の終わりと共に真っ黒に染まって、同じ紋が浮かんで。
天照 までお祝いに駆けつけてくれるなんて、つい最近まで人間だった俺には畏れ多いというか申し訳ないというか。
「あの水面は本当に美しかった。真白な紫苑も綺麗だったし、初めてカメラという物が欲しいと思ったよ」
「朱殷 に渡したら、きっとパシャパシャ撮りまくって……」
「国中に配り歩くだろうな」
本当にやりかねないから、想像するまでもなく柚葉の言葉に吹き出して同意した。
でも、やっぱり必要ないかも。
「あの美しさは胸 にしかないから絶対に忘れないし、いつでも鮮明に思い出せるけど、写真が残ってると思ったらどうかな? それに安心しちゃって大切なあの瞬間が色褪せたらって思うと、すごくイヤだし、怖い」
「怖い?」
腑に落ちないといったような声音の柚葉に寄り添ったまま大きく頷く。
俺だかもしれないけど、今まで写真を撮って、例えばアルバムみたいな物を作ったとしてもそれを引っ張り出して見返した記憶はあまりない。印象に残っている場所や出来事はアルバムを開かなくても思い出せるけど、それ以外の物の記憶は曖昧だ。
写真を撮ったという事実に満足して忘れてしまったのだとしたらもったいないし、柚葉にもそう思われたくなかった。
曖昧なのは、曖昧な存在になるのは、とても怖い。
「夢じゃないかって。本当は俺、事故かなんかで意識不明になってて、目を覚ますのがイヤでイヤで今 を作ってるんじゃないかって、そんな風に思ったりもした。夢って、悪い夢は目が覚めても割とよく覚えているけど、良い夢は高確率で忘れちゃうでしょう? そんな感じで写真撮っても俺の中からも柚葉の中からもあの景色が薄れたらと思うと……それはすごく怖い。解ってくれる?」
「紫苑にとっては今は、夢?」
「夢みたいに幸せだけど、ちゃんと現実。ほっぺたつねったら痛いもん!」
今度は柚葉が吹き出した。優しく撫でるようだった手の動きがぴたりと止まり、キュと頬の肉を摘んで上下左右に引っ張って
「ちゃんと痛い?」
って確認する柚葉は初めて見る表情 をしていた。
「……どうしたの? なんかヘン」
朝っぱらから誘ったのがダメだったのか、単にそんな気分じゃなかったのか、今の柚葉からは色欲が感じられない。もちろん愛情はたっぷり感じるけど。シたく、ないのかな?
「うーん、今はやめておいた方が良い。シたらきっと紫苑は後悔するよ?」
「え? なんで? 俺今まで一度だって後悔した事なんか……!」
「ごめん、後悔は言葉が違った。慌てる、いたたまれなくなる、かな? 昨日は肝試しも少なかったから掃除も早く終わるだろう。うん、ちょうど良い」
一人納得してベッドから出た柚葉は見上げた俺の唇が不満そうだと笑ってゆっくりと安心させるようにキスをしてくれた。
そのキスから流れ込む感情もいつも通りで、結局柚葉が何を考えているのかは掴めないままだ。
でも柚葉がそう言うなら、シないのが今は正しい選択なんだろうと思う。
だから変にダダをこねたり、どうして? なんて追及はしない。
「飛影は寝過ごすかもと言っていたからどうしようか。楽しく夜更かししたのなら寝かせておくか? 起きたら起きたでうるさいし」
「それはそれで絢風が気に病みそうだから声だけかけてみる」
名を与えた事で柚葉が羽根を使わなくても飛影を呼べるように、俺も絢風を呼べるようになった。
名には力があり、それを与え、受け入れる事で主従関係が確立されるのだと教えてくれた柚葉は、はいっ! と嬉しそうに返事をする絢風を見て目を細めて縹 特製のお酒の入った杯を傾けていたっけ。
「絢風? 起きてたら返事をして?」
すぐに頭の中に元気いっぱいの
「はいっ!」
が聞こえて、俺がおはようと声をかける前に
「すぐに参ります! あっ飛影が二度寝して……翳狼、起こしてください。すぐに参りますからね、紫苑様!」
待っててくださいね、とずいぶん打ち解けた雰囲気の楽し気な声が続いた。
「起きてた?」
「うん。すぐ来るって。でもね、飛影が二度寝してて……うん、楽しそうだった」
「良かったな」
背後から伸びてきた腕に身体ごと絡めとられて、たくましい胸に頭を預けると漠然とした恐怖や不安なんてものはたちどころに消える。
「服、着とかなきゃ。あ、着物ぐちゃぐちゃだ」
足元に小さな山を作っている着物はどうしたら良いんだろう?
手洗い? そもそも洗濯なんてしても良いのかな?
「気にするな。次に朱殷が来たら渡しておこう。いつも鬼国 で保管させてるから俺も管理に関しては詳しくないんだ」
「そうなの? 今度たたみ方とか教えてもらっとこ。あ、服はとりあえずこれで良いかな?」
柚葉を贅沢にも背もたれに使ったまま掌から蔦 を出して、部屋の隅のラックに掛けておいた二人分の部屋着を取り寄せて渡す。
相変わらず、服を身につけた方が寒いと思ってしまうあたり、相当柚葉に依存してしまっているんだろう。
手早く身支度を整えて、ベッドの上で抑えが効かなくなる手前の状態を保ちつつイチャついているとドアの向こうが俄然騒がしくなった。
「ココが主人 達の寝室。こうやって……コンコンッと……ノックして、あとは扉が開くのを待つのだ」
「コンコンッと。ふむふむ、なるほど。私ものっくとやらをしてみても良いでしょうか?」
「軽くやらないとダメなのだぞ。嘴で扉が傷んでしまうから、力配分が難しいのだ。翳狼はいつもどうしている?」
「私は扉を叩く事はしない」
「じゃあ私も紫苑様が開けてくださるのを待ちます!」
気の長い事だ! と飛影が嘆いたところで柚葉が俺を抱き上げたままドアを開けた。
「お前はノックして待つ、なんて殊勝な事はした事がないだろう? いつもいつもベランダから開けろと催促するくせに」
「そうなんですか? なんと窓辺から!」
「あぅっ! それはナイショ! 絢風に良いところを見せたかったのだ……ごめんなさいぃ」
絢風の手前、ぴょこっと頭を下げた飛影は柚葉に抱き上げられたままの俺を見て首をくりんと回した。
「よぉく眠らせてもらえたか? きしし」
「ん? 勝手に目が覚めるまで熟睡の爆睡だったよ?」
「なんと、あ、主人……貴方という方は有言実行、鋼鉄の理性。そしてついに脱色魔! 色に惑う妖に爪の垢でも煎じて……イテッ」
なんの話をしているのかさっぱり解らない俺は、柚葉と飛影を横目に絢風を傍に呼んでその目を覗き込んだ。濁りはないし、疲れている気配もない。
……これから疲れるかもしれないけど。
「絢風も大丈夫そう。まずは掃除に行こうか。ね?」
「はいっ! 紫苑様!」
瓶を取って来る! と飛び立った飛影に先に行くと伝えて、絢風を抱き直すのを柚葉は待っていてくれたのか、絢風がしっかり俺の腕におさまるのを見届けてから右手を掲げて窓の結界を解いた。
「あ、待って。コート」
「待ってて。取って来る」
そっと床に降ろされて初めて床の冷たさを感じた。
「靴下も履かなきゃ」
くすりと洩れた笑いに絢風が首を傾げる。
だって、俺、床が冷たいの今気付いたんだよ? それってずっと柚葉の腕の中で……一番温かい場所で守られてたって事でしょう?
「絢風、ちょっと待ってて。着込んで来るね。柚葉ぁ、靴下も!」
ベッドの上に絢風を降ろして、柚葉の後を追う。
いつか俺も柚葉を温めてあげられたら良いのにな……なんて思ったりして。
「お帰りなさい、紫苑様。あったかそうですね」
「バッチリ! いくら風邪引かないからって、それでも寒いのは嫌だし」
「ま、確かに寒いのはな。でも紫苑の鼻の頭が赤くなるのは可愛くて良いな」
ざっくりとした厚手のニットのロングカーディガンを羽織った柚葉が軽口を叩きながら俺の首にマフラーを巻きつけてくれる。
ラフな格好なのにすごくサマになってて、腕捲りした姿は雑誌から抜け出たんじゃないかって思ってしまう。
そんな柚葉が壁の落書きをデッキブラシで落とす姿が俺には妙にツボ。
だから柚葉の軽口も、ぐるぐる巻きにされるマフラーも嬉しくてそのままにしてしまう。
「ふふ、紫苑の防寒は完璧だ」
柚葉の腕に再び戻った俺と絢風を抱き上げてベランダに立った柚葉を飛影が呼ぶ。翳狼はあちこちに投げ捨てられた空き缶を口に咥えて、せっせと一ヶ所に集めてくれていた。
「俺達もがんばらなきゃ」
「紫苑は枯れ草や吸殻を集めて。俺は」
「壁磨き!」
「落書きされていればね。俺は先にちょっと森の結界を弄ろうと思う。絢風を連れて行きたいんだけど良いかな?」
こういうところ、本当に律儀だ。
「ん。絢風は柚葉と一緒に行って、ちゃんと聞かれた事には遠慮せずに正直に答えるんだよ?」
「はいっ。長 に嘘などつきませんっ」
「さ、行こう。肩にでも停まっていろ」
「はいっ! 失礼します! 紫苑様、行って参ります!」
絢風の長い尾羽を膝の辺りに揺らして歩み去って行く柚葉の後ろ姿がこれまた恐ろしい程サマになっていて、俺は一人悶えた。
「紫苑、サボりすぎなのだ」
「だって」
あんなにかっこ良いの、反則じゃない? そうマフラーの中でモゴモゴ呟いた俺にトンッと翳狼が肩を当ててきた。
「今なら私にも紫苑様の幸気が見えそうです」
「えぇっ!」
「ほっほぅ! 紫苑の幸気は耳を真っ赤っ赤に染めるのだな! 惚 けていないで、ほれ、箒」
「う、うるさいな」
「良いではないか。らぶらぶでアッチッチなのは私達にとってもふわふわでぬくぬくなのだから」
ムフッと鼻息荒く胸を膨らませた飛影から無言で箒を受け取って、照れ臭さを隠す為に勢い良く地面の上を滑らせると慌てて飛影と翳狼が宙に舞う。ザァッと乾いた音を立てて枯れ草も宙を舞う。
「なんと! 紫苑様がご乱心!」
「落ち着くのだ、紫苑! あれ程までに見事な千古不易の契りを交わしたのだぞ? 想い昂ぶって抑えられぬのは当然!」
「うーるーさー……あれ?」
チリンと微かに頭の中に響いた音は林の結界を誰かが通り抜けた合図だ。
柚葉からは何もない。
館に戻れ、という事だろうか?
「とりあえず掃除道具を片付けよう。飛影は瓶を忘れないようにね」
大急ぎで片付けて、崩れかけた門扉の陰に身を隠すと、間を置かずに森へ入ったと報せるガラスが割れるような警告音が頭の中に響く。
突き刺すような悪意も胸が悪くなるような怨念も感じないから、恐らく敵意を持った妖じゃない。
どうしよう……。
このまま中に入ってしまおうか……でも管理者としてそれはどうなんだ?
今俺が姿を隠したら、柚葉の顔に泥を塗る事になるんじゃないだろうか。
でも、人間だったら?
飛影はともかくとして、翳狼や俺は姿を見られるわけにはいかない。
答えが出せないまま、近付いて来る気を探り続けた。
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