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第五十八話 御年玉

「……もし人間だったら。見られたら記憶を消そう」 「妖の類ならば?」 「なんの為に来たのか聞かなくちゃ。その上で戦いになるなら柚葉(ゆずは)が戻るまで踏ん張らなきゃね」 「紫苑(しおん)様が負けるとは思えませんけど」 「飛影(ひかげ)翳狼(かげろう)もいるしね。でも相手の狙いが解らないから、そこは厄介かも。柚葉ならどうするんだろう。てか、なんで柚葉から声が届かないんだろ」 結界を弄るって言って森へ入った柚葉が、まさか襲われて……なんてありえないか。 「どうだ? 何か掴めるか?」 「うーん、悪意はないね。それに一人……人間みたいだ。廃墟マニアさんかな? あ、走り出した!」 「お天道様が出ていても出ていなくても来るのだな。全くズカズカと……お金持ちなら良いのだが」 「またそんなこと言って」 「私は早く温泉に行きたいのだ! しかし主人(あるじ)は何をしているのだ」 「お前らこそ、コソコソと何をしているんだ?」 頭上が陰るのと目の端に虹が輝くのが同時。俺達が身を隠した門柱の少し崩れかけた天辺を足場に、ふわりと忍者のように降り立った柚葉が不思議そうな表情(カオ)で俺を見る。再び柚葉の肩に乗った絢風(あやかぜ)もきょとんとしている。 「あ、あれ?」 「遅いのだ、主人! 何者かがやって来たのだぞ? 妖だったら戦うと紫苑は言うし、主人からは何も言葉はないし、私は肝がキリキリしたのだぞ!」 「大事なお客様だぞと(おさ)に言われて戻りましたのに、飛影は肝が痛い? え? 紫苑様、戦うんですか!? ならば私も後方支援を!」 「いや、人間相手なら戦わないし、妖相手でも必要がないなら戦いたくないんだけど」 「ほら、紫苑、行くぞ?」 トンッと軽い着地音を響かせて舞い降りた柚葉が身を屈めてそのまま俺の額に唇を落とすのを絢風が嬉しそうに見つめている。 「紫苑様、行きましょう? 紫苑様の肩に乗っても良いですか?」 長い首を思いっきり伸ばしてねだる絢風に頷いて、柚葉の肩から飛び立った美しい虹を乗せると照れくさいような誇らしいような、なんとも言えず胸の奥がくすぐったくなった。 柚葉の大事なお客様は相当急いでいるのか、ずいぶんと早足で駆けて来る。そろそろものすごい勢いで飛び出して来そうだ。もうはっきりと足音が聞こえる――。 「神様! 来たよ! お兄ちゃん!」 ぜいぜいと荒い呼吸を振りまきながら、頰を寒さに赤く染めた優希が胸を軽く叩きながら、それでも満面の笑みで駆けて来る。 「え? ウソ……」 「お兄ちゃん、会いたかった! あ、そだ。明けましておめでと!」 ぎゅっと抱きついてくる腕のきつさは本物だ。 動かない俺を不審に思ったのか、優希が俺を見上げて 「どうしたの? お兄ちゃん。その孔雀、すごく綺麗だね。慣れてるし!」 と笑みをたたえて言うのをぽかんと口を開けて見下ろした。 どうして。 記憶は消したのに、どうして。 「元気そうだな。数学と英語はどうだった?」 「もう、すっごくがんばった! なんでだろう? とにかくがんばんなきゃって思って……」 そうかと言いながら優希の頭を撫でる柚葉は見惚れる程綺麗な微笑みを浮かべ、赤く染まった優希と俺の頰に交互に手を当てて 「お茶にしようか。いや、優希は何か食べたか?」 と俺達を中へと促す。 羽を広げた絢風を追って、以前と同じように優希を抱き上げて五階のベランダに飛び上がると、優希は小さな声で 「やっぱ、お兄ちゃんすごい」 と呟き、また腕に力を込めた。 「ごめん。怖かった?」 「ううん! ピュンってすごかった! カッコ良い!」 「そか。寒いね、あったかい物食べよ?」 とりあえずお湯を沸かす為にキッチンへ行って、優希の目の前で鬼火を操る。 関心と興味の混じり合った優希の視線が熱い。 俺は朝食もまだだし、うどんが良いなぁ。ワカメと卵乗っけたヤツ……なんて現実逃避をしていると、颯爽と柚葉が入って来て、俺の額にキスを落とした。 「紫苑はうどんが食べたいみたいだぞ。優希は?」 「え、食べたい! お兄ちゃん、うどん好きだよね!」 くすくすと機嫌よく笑う優希にギクシャクと頷くと、優希が不思議そうに首を傾げた。 「お兄ちゃん?」 「え、あ、えっと、なんで? その、色々と思い出したの?」 「なんて言うか……前に来た時の事を思い出したのは、森に入ってからなんだ。一ヶ月前くらいからかな、どうしても今日ここに来たいなって思い始めて。もう昨日は絶対幽霊屋敷に行くんだから早く寝なきゃって八時にはベッドに入ったんだよ! 本当は泊まりたかったけど、母さんが外泊は高校生になってからって許してくれなくてって、あれ? なんで泊まれると思ったんだろ? 神様のせいかな?」 不満そうに尖った唇がふっと柔らかい弧を描く。 「だからね、早起きして来ちゃった! お兄ちゃん、俺が来たの、怒ってる?」 「怒ってなんか……ただね、すごくびっくりしてる。またこうして話せるなんて思ってなかったから、だから、嬉し、いよ?」 優希がここへ来るように仕組んだのは、柚葉だ。その柚葉は俺達の会話の邪魔にならないように無言で、空腹を満たす為にうどんを作ってくれている真っ最中だ。 まな板の端にちょこんと置かれたワカメ。これは俺のリクエスト。 もう一つの小皿にはとろろ昆布。俺が何気ない会話の中で柚葉に話して聞かせた優希の好物。 それを見ていたら、どうして教えてくれなかったんだっていう不満よりもまた会わせてくれた柚葉への感謝と、相変わらず俺には甘えん坊全開の笑顔への愛しさで胸が苦しくなり、視界が滲んだ。 「神様! どうしよう、お兄ちゃん泣いちゃった!」 「長! どうしましょう! 紫苑様が!」 俺を心配してくれる声が二つ重なって、優希が驚きの声を上げた。慌てて目を擦って涙を引っ込めた俺に優希が更に興奮して話しかける。 「すごいっ! 喋った! え? 言葉解るの?」 「その美しい孔雀の名は」 紹介しようと割り込んできた柚葉の声を得意げに胸を張った絢風が遮った。 「絢風と申します。紫苑様につけていただきました。えぇと、私は紫苑様の使い魔でございます!」 「私は飛影。そしてこちらの身体は大きく気は優しい狼は」 「翳狼と申します。弟君(おとうとぎみ)、どうぞよろしくお願い申し上げます」 「うわぁ! すごい! みんな喋った! てか、ホントおっきい! カッコ良いっ!」 目を輝かせてはしゃぐ優希の前に歩み出た飛影が反り返る程ぐんっと胸を張り、首周りの毛も膨らませて 「私は身体は小さいが、偵察に報告にとなかなかお役立ちなのだ。ゴミ捨てだって私が運んでいるのだぞ? 紫苑が幼い頃の優希は本当に赤子でな。あの頃紫苑に向けていた笑顔となんら変わらぬのだな。うむ。安心安心! それにしても大きくなった。紫苑の後をハイハイで追いかけていた頃の記憶はないだろうが、紫苑にとても可愛がられておったのだぞ! それはなんとも愛らしい兄弟だったのだ。大人のエゴで亀裂が生まれた事は不憫でならんと思っていたのだが、こうしてまた楽しくお喋りできる日が来るとはなんと素晴らしい事か!」 と一息に喋ると、一瞬沈黙した優希がプッと吹き出した。 「お兄ちゃん、この烏、すっげぇ喋る!」 「なっ! 失礼なのだ!」 「うわ、ホントに? 神様が喋らせてるんじゃなくて?」 「俺はこいつの口を塞ぎたいんだが?」 「ごめん、飛影。興奮してるみたいで、悪気はないから許してやって?」 「むむっ、紫苑がそう言うならば、まぁ今回ばかりは。うむ。ちゃんと名前で呼ぶならば許すぞ!」 フンッと鼻を鳴らす飛影が舞い降りた先は優希の頭の上で、驚いて首を縮こませた優希の髪をツンツンと引く。 翳狼も絢風も柔らかな眼差しで優希を見てくれている。 俺達兄弟を受け入れてくれる唯一の場所はここにしかないんだと思う。 「いたっ、ごめんなさいっ! お兄ちゃん助けてっ」 「飛影、はしゃぎ過ぎだぞ。ほら紫苑も優希もうどん食べろ。俺の力作が伸びてしまう」 湯気の上がる丼を覗き込んで、小鼻をピクピクさせながら隣に座った優希と顔を見合わせて、美味しそうだねと囁き合う。 顔の前でぺちんと勢い良く手を合わせた優希は柚葉を見つめて 「神様、ありがと。いただきます!」 と大きな声で宣言してすぐに引き上げた麺に息を吹きかけ始めた。 「はい、良くできました。あんまり焦って食べるなよ? 火傷するからな」 「ふぅーっ……ふ、はーい! 神様遅いよ。早く一緒に食べよ? 良い匂い」 「俺のはもう少しかかる。急いては美味いうどんは作れないんだよ。だから先に食べてろ。な?」 「うん!」 ほっこりする会話にまた涙腺が緩んだ。 こんな会話が聞きたかった。こんな会話が飛び交う空間にいたかった……それを今、柚葉と優希が叶えてくれている。そしてこの場の空気に飛影達が花を添えてくれている。 「……うどんとかラーメン食べると鼻水出るよね?」 また泣いたの? ってからかわれないようにごまかしたけど、柚葉にはしっかりバレているみたい。俺を包む気がほんの少し温かくなって、まるで柚葉の腕の中にいるようだ。 「なぁ? 食べながらで良いから聞いてくれるか? 優希からここの記憶を消したのは、俺だ。そして今日ここへ来るように勝手をしたのも俺だ。俺は紫苑から大事な弟を奪った。その逆も然り。俺は鬼らしく酷い事をした」 「俺のせいじゃん。柚葉は俺を助けようとしてくれただけ」 「……そうだよね。あんなのおかしい。それに、お兄ちゃんは神様といるのがホント幸せそうだもん!」 ね? と俺を見て微笑む優希は首を伸ばして俺の丼を覗き込むと、羨ましそうに厚めに切られたカマボコを見つめた。 「お兄ちゃん、一切れちょうだい?」 「良いよ」 「やった!」 言うが早いか、ヒョイっと箸で摘んでそのまま口にカマボコを放り込んだ優希は抜け目なく正面に座った柚葉の丼の中も覗き込んだ。 「優希、お行儀悪いよ?」 「ごめーん……だって気になるじゃん! 神様特製のうどんだよ?」 「俺のは紫苑と同じだよ。で、俺の話はまだ終わってないんだが。ほれ」 柚葉の丼からカマボコが一切れ優希の丼へと移動する。 「それで。前に優希が来た時、思ったんだ。記憶を消してしまったら、俺はまた紫苑から奪う事になるって。でもだからって記憶を残したままにして、頻繁に会わせてあげるっていうのも神と人との境界と(ことわり)を曖昧にし過ぎる。特に俺達は鬼神だし。そこでとりあえず三年。三年ごとにここへ来るように優希には術を掛けた。あぁ、今日は特別」 「三年?」 うん、とうどんを口にしたまま喉の奥で返事をした柚葉は、一気にうどんを啜ると口元を軽く握った手の甲で押さえた。 「そのくらいが一番良いかな、と思ってね。迷ったんだけどね。例えば人間が百まで生きたとして、優希はもうそのうちの十年は生きているだろう? となると残り九十年。十年に一度だと、九回。五年に一度だと十八回。三年に一度だと……」 「三十回、だよね」 「だな。もちろん例外として“死にたい程苦しくてどうして良いか解らず、自分を見失ってしまった時”はここを思い出すようにはしている。けど、どうだ? 正直、俺には人の世の時間の流れの速さが実感として解らない。だから適切なのか教えて欲しい」 まっすぐに俺を見て問いかける柚葉の表情はあの時の暗く苦し気なものではないのが嬉しかった。 あの瞬間にどれだけの事を考えて優希の額に手を当てたのか。どれだけ俺の事を考えてくれたのか。 ――俺も少し勝手をさせてもらった。 その勝手の意味がやっと解った。 「毎年じゃダメなの? 毎年お兄ちゃんや神様、ここにいるみんなに会いたいよ」 「甘えてはならんぞ! 中学校は三年。その上の高校とやらも三年なのだ。その三年の間に色々と学び悩み成長していくものなのだ。毎年主人や紫苑に会っていたら、いつまで経っても優希は甘えん坊のままなのだぞ!?」 飛影の意見に優希はうどんを手繰る手を止めて眉間に縦皺を刻み、うぅん、と唸った。 「飛影はいつもお兄ちゃんと一緒なんでしょ? お兄ちゃんは俺のお兄ちゃんなんだよ?」 「それは解っておる! だが、紫苑は深い孤独と哀しみを独り乗り越えたのだ。きっと優希にもできるはずだ。それに紫苑はどれだけ時間が経とうとも、立場は違えども、優希の兄である事に変わりはないではないか」 「解ってるけど……」 なんかズルい……と呟いた優希はちゅるっとうどんを吸い込んだ。 「いや……俺の事はもう良いんだけどさ。ね? まずは試してみない? 本当なら俺はそっと優希を見守るだけで、こうして話す事もできなかったはずなんだ。それを柚葉がどうにかしてくれた。それだけでもすごくありがたいって思う。その柚葉が三年を最適だと感じたなら、多分そうなんだよ。三年できっとたくさんの事があるよ? 高校生になって、その次の進路に迷ったり。そういうタイミングで会ってちゃんと話ができるのは、なんかすごく嬉しいな」 「うぅん……そうだけど。そうだけどさ、神様また俺の記憶消しちゃうんでしょ?」 「消すけど……全てがなかった事になるわけじゃない。ちゃんと魂に残る」 「会えた時はワガママ聞いてくれる?」 柚葉と俺の顔に視線を振り、眉を八の字に下げた優希。 「ワガママの程度にもよるが、聞いてやる。例えばどんなのだ?」 「また神様にうどん作ってもらいたい。んで、高校生になったら泊まって良いらしいから、泊めて欲しい。んでお兄ちゃんと一緒に寝たい」 ずいぶん可愛らしいワガママだと目を細めた柚葉に 「あと! 翳狼に乗ってみたい、んだけど……」 とおずおずと付け足した優希の頬を近寄って来た翳狼が一舐めした。 「私は構いませんよ? 裏庭を駆けてあげましょう」 「ホントに!?」 「はい。紫苑様とお二人を乗せて差し上げます」 「ならば私は……そうだな、色々と語って聞かせてやろう!」 「私は……私は……紫苑様! どうしましょう?」 心底困ったと目で訴える絢風に、空を舞って見せてやってくれと提案したのは柚葉。俺もあの素晴らしい光景は是非とも優希に見せたいから大賛成だ。 「空を舞うならば天翔(てんしょう)もいた方が迫力が違うと思うのだ」 「てんしょー?」 「とーっても大きなワシの妖でな、副頭領の使い魔なのだ。天翔の羽ばたき一つで私なぞ簡単にピューッと飛ばされてしまうのだぞ」 自分が吹き飛ばされてしまうという話なのに、天翔を語る飛影はどこか誇らし気だった。鬼国で一緒に空を飛んだのがかなり楽しかったらしく、絢風が舞う姿はどんな絵画よりも美しいと褒めそやし、耐えきれなくなった絢風の羽に包まれるまでその話は続いた。 「へぇー、会ってみたいなぁ。俺の知らない世界だもん、なんだかワクワクする」 「で、どうだ、優希。このまま術を掛け直さなくても良いか?」 「うん。三年だよね? 三年経ったら絶対また会えるんだよね?」 優希は肩の力を抜いて笑って少し伸びたうどんを啜る。柚葉もそんな優希の様子に安心したのか再び箸を動かし始めた。 「がんばるよ。がんばる」 その独り言はとても力強く響く独り言だった。

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