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第4話

 春臣の話かたが呆れた物云いに聞こえたのだが、気のせいだろうか。首を傾げた神野は、脚を崩すと背中を壁に寄りかからせて力を抜いた。  こうして(くつろ)いでいても、隣の部屋に意識を持っていかれるはどうしようもない。  今ごろ遼太郎は恋人とダイニングで温かいコーヒーでも飲んでいるのだろうか。顔を近づけた恋人同士の会話は弾み、あいまに軽いキスを交わしたりして。  そのさきは? と、野暮な想像までした神野の頬はうっすらピンクになっていた。 (そこまでしている時間はない……かな?)  遼太郎は昼から出勤だ。ふたりにはきっと、お茶を飲んで少しお話する程度の時間しかないだろう。神野は火照った頬に手団扇(てうちわ)しながら、肩を竦めた。 (どこまでも想像しちゃって、俺って恥ずかしい……)  いままで他人のことを必要以上に知りたいなどと思ったことはなかったし、ましてや詮索するだなんてことはまずあり得なかったのだが……。 (でも、遼太郎さんだけは特別なんだ)  なにせ、彼は神野のはじめてできた恋人の元カレなのだから。  だから遼太郎のことは、どうしても気になってしまう。彼については体面上ではなく、本当のところを知っておきたかった。彼自身がどんなひとで、そして彼がどんなひとを好ましいと思うのか。  だから春臣から遼太郎が連れてきたさっきの男が彼の恋人なのだと聞いたら、いてもたってもいられなくなったのだ。  ぜんぶ篠山に出会ってからだ。篠山に恋をしてから、神野は好きなひとができると人間(ひと)はいろいろと変わるものなんだと知った。  精神のうえでは、我がことよりも恋人の健康や生活が心配になり、彼をとりまく人間関係が気にかかる。そして彼の声や言葉、さりげない動作に心がときめき、それを誘い水にして肉体が熱く濡れていくのだ。  もうそれは去年の今ごろの自分と現在の自分が、まったくの別人ではないかと思えるくらいにだ。うまく表現できないが、自分が人間としてより深く愛情深いものに成長していて、そしてまた、まだまだ自分にはのびしろがあるのだろうと予想させる。その感覚は心の奥から満ち溢れてくるもので、光り輝き四方へと広がり続けるイメージがある。  このまま篠山を愛しながら彼と一緒に過ごしていたら、来年には自分はまた違った自分になってるのだろう。神野にはそれがすこし楽しみだ。 「でも、これ以上嫉妬深くならないようにだけは気をつけないと……」  そのためにも遼太郎にははやく篠山以外の恋人とうまくいってもらって、二度と篠山とどうこうならないようにしてもらわなければならない。自分の嫉妬心が緩和するのがまだまださきに思えてならない自分には、さしあたりは遼太郎の排除が必要だった。 (彼氏さん、どんなひとなんだろう? やさしいひとなのかな。篠山さんよりも?)  篠山は気持ちがとてもおおらかだ。そして自分とは大違いで他人(ひと)との距離がとても近く、初対面だったときの自分にもそうだったように、周囲のひとと気軽に肌を触れあわせる。  同僚の末広の六歳の娘を、まるで我が子のようにして抱きあげる篠山を思い浮かべた神野は微笑み、つぎに篠山が何気なく春臣や遼太郎の頭を撫でまわしたり腰に手を添えたりする光景までをも思い出して不愉快になって顔を歪めた。あの手の早さを矯正できないのかと心底思う。  肉体の距離感も近いがそのぶん心の交流にも長けた彼は、いままでにたくさん神野の心に寄り添い、辛抱強く力になり続けてくれた。それに精神的にだけではない、金銭面でも助力してもらっている。それらは神野が篠山の恋人の位置に収まるまえからのことで、そのことからも彼のキャパシティの広さが窺えるだろう。  そんな篠山とつきあっていた遼太郎が、つぎに選んだ男だ。 (あのひと、篠山さんより魅力があるのかな?)  いや、魅力が無くては困るのだ。篠山よりも包容力があって、遼太郎の身も心も助け支えになってくれないと。それに金銭感覚も価値観も大事だ。  もし男に遼太郎にとって必須のなにかしらが欠けていたりしたりして、遼太郎がやっぱり篠山がいいと云いだしたらたいへんだ。 (でも篠山さんよりいい男なんてそうそういないよ。見た感じじゃ、絶対篠山さんのほうがかっこいいし、仕事もできそうだし……)  惚れた欲目の神野には、どこからどうみてもあの男――坂下、が篠山をしのいでいるとは思えず、彼らの仲が持続せず遼太郎が簡単に男を捨ててしまうのではないだろうかと思えてならない。だいたいにして遼太郎が男のことを好いているようには見えなかったのだ。 「遼太郎さん、ほんとうはまだ篠山さんのことが好きで、それなのにあのひととおつきあいしている、とか?」  顎を引いて険しく眉を寄せるが、 「……いや、でもそれだったらなんで?」  と、次第(しだい)がつけられない。そもそもなんで篠山と遼太郎は別れることになったんだろうと、今更のことに考えが及んだ神野は、緩く握った左手の親指のつけ根をそっと唇に当てて「うーん」と瞳を巡らせた。

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