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【第1部 朝露を散らす者】14.声のもと

「現地から|警備隊《うち》に通報しなかったのは、ソールが止めたからだな?」  腕を組み、壁際に立ったラジアンが鋭い声を放った。  ラジアンは大柄な体躯に秀麗な容姿の、堂々とした騎士だ。短髪のしたで眉が寄り、眼がわずかに細められる。ソールの昔からの友人でもある。クルトは騎士団の序列に詳しくないが、最初に知り合った頃と比べれば確実に出世したにちがいない。襟の徽章の数が増えているし、態度も前より大きくなったように思う。  だがこの男は感情を素直に放射する。口調は詰問にきこえても、内心はそれほど緊張しているわけでも、不安でいるわけでもない。 「自分に被害がなかったし、襲ったのはどうみても葬儀にまぎれてやってきたよそ者だったから、村を騒がせたくないといったんだ。それとソールは――そいつが単なる追剥ぎではなく自分を狙ったものだとわかっていた。俺があらかじめ気づかなかったのは後悔している。ソールをひとりにしたのも」 「そこまではきみの責任ではない」  ヴェイユがいった。小さなテーブルをはさんでクルトの前に座っている。人差し指がコツコツとテーブルの表面を叩き、リズムをつくる。  三人がいるのは窓のない小さな部屋だった。クルトがソールと一緒に王都に戻ったのは昨日、夜もかなりふけた時刻だったが、待っていたかのようにヴェイユからクルトにだけ呼び出しがかかったのである。  来るように指定されたのは学院ではなく騎士団の詰所だった。そこから若い騎士に騎士団の本部へ案内され、あらわれたラジアンの後をついて階段を上り下りし、長い通路を通ったあげくこの部屋へたどりついたのだ。  しかしここは騎士団の本部ではなく王宮の地下ではないだろうか。自分の方向感覚とかすかに響いてくる人々の思考をもとにクルトはそう見当をつけていた。ひらいた扉の向こうでは厳しい表情をしたヴェイユが待っていた。窓こそないが調度は豪華で、クッションの効いた長椅子とひじかけ椅子があり、カットグラスの水差しがある。騎士団の設備というより高位の貴族や王族のものにみえる。 「ソールも四六時中きみと一緒にいるわけにもいかんだろう。予兆はあったのか?」 「違和感がありました。墓地に向かっているとき、やたらとソールに向かう思念を感じたもので。ただうまく分離できなくて。葬儀には村外からも人が集まりましたし、ソールは……ひさしぶりの帰郷ということで、目立っていましたから」  ヴェイユはうなずいた。 「彼にはつらいことも多かっただろう。容態は?」 「俺が出たときは眠っていましたが、まだ熱は下がりません」  ソールは王都への帰路で体調を崩し、今朝も店を閉めて休んでいる。クルトとしては具合の悪い彼のそばを離れるのは不本意だったが、ソール本人ではなくクルトに質問される方がまだましだとも感じていた。 「襲撃のとき彼がひとりでいたのはたまたまか?」とラジアンが聞く。 「親族の食事会の途中でソールが出たんです。俺はあとを追うのが遅くなって。たぶん隠れて様子をうかがっていたんだと思いますが、それに気づかなかったのも失態でした」 「おまえは治療師だ。襲撃に対する訓練を受けているわけじゃない。足環の魔術が作動したのなら問題はないさ。重要なのはソールを守ることだ」  ラジアンは鼻を鳴らした。神経質にテーブルを叩いていたヴェイユの指が止まる。 「それにきみの判断は正しかった。ソールが通報を嫌がっても私にすぐ〈像〉を送ってきたからな。顔が手配できたから、犯人の行方もわかった」 「わかった?」  予想外の答えに驚いたクルトに、ラジアンが落ちつきはらってうなずく。 「ああ。カルソンと名乗っている。町を渡り歩きながら辻売りをしている流れ者だ。一度酒場で盗みをやって捕まっているが、他に記録はなかった。今は部下に監視させている」 「捕まえないんですか?」  ヴェイユが指をあげた。 「私がもらったきみの報告では、カルソンはソールがといっていた」 「ええ。どういうわけかソールの故郷では……昔の事件はそんな噂になっていたらしくて」 「つまりカルソンは――誤解しているとはいえ、ソールが何か貴重な書物を持っていると思っているわけだ。彼を襲えば手に入ると思ったのか――誰かに思いこまされたのか」 「思いこまされた?」  クルトはおうむがえしに聞き返したが、ヴェイユは直接答えなかった。かわりにこういった。 「何者かが学院の図書室に保管した禁書を狙っている」 「ソールが協力しているという一件ですか?」 「ああ。聞いているかね?」 「稀覯本を狙う者がいる、という話だけです。禁書とは聞いていません。国をまたいで移動する窃盗団がいるとか――」クルトは記憶をさかのぼる。ひとつの言葉が頭に浮かぶ。 「そう、『朝露を散らす者』とかいう名前の」  ヴェイユはうなずいた。 「禁書は図書室の〈奥〉にめくらましをかけて隠してある。ところがそれを手のこんだ回路魔術で暴いて持ち去ろうと計画する連中がいる――と私は考えて、ソールに内密で蔵書の調査を頼んだ。ところで〈奥〉の存在を知るものは学院のなかでは教師だけでね。きみは偶然から知っているわけだが」  さらりと出された言葉の意味を悟ってクルトは愕然とする。 「それは――内部の?」 「まだ可能性だが、用心にこしたことはない。ともあれ私には、誤解とはいえこのタイミングでソールから〈本〉を奪おうとする者が出るのは偶然とは思えない。カルソンは学院の禁書を狙う者とも接触するかもしれない。だから泳がせている」 「『朝露を散らす者』は?」 「その名前はソールに聞いた。調査中だ。私としてはカルソンと一緒に学院の禁書を狙う者も騎士団に検挙してもらいたいと考えている。学院内部の件はすぐ片付きそうにないが、当面の危険は去るからな」  ヴェイユの口調のなにかがひっかかり、クルトは眉をあげた。 「当面の危険というのは――何にとってですか?」 「王国の防備にとってだ。念を押しておくが、禁書に関する事柄は門外不出だ。だからきみをここに連れてきた。実はこの部屋はレムニスケート家が管理する場所でね。王立魔術団が感知できない場所のひとつだ」 「ここは王宮の地下ですね?」  ラジアンが黙ってうなずいたが、クルトの中のひっかかりは消えなかった。 「ヴェイユ師、あなたがたは禁書の――書物のことを気にしていますが、ソールはどうなんです?」 「ソールは……」  ヴェイユはまばたきした。ほんの一瞬、クルトにはこの魔術師の抑えた感情がみえたように感じたが、すぐにわからなくなってしまった。 「ソールは『閉ざされた本』だ。ひらくことは誰にもできない。彼にとっては呪いも同じだが、彼の中で閉じているかぎり〈本〉は学院の禁書のように盗まれたり、奪われることはない。それに私も騎士団もカルソンをずっと泳がせるつもりはない」  教師の言葉は力強かったが、クルトは安心できなかった。 「でもソールは不安を感じています。俺はどうしたらいいんですか? あなたがたのいう通り俺は――ソールの守護魔術師なのに、結局ただの治療師にすぎません」 「ハスケル、落ちこむな」  珍しくラジアンが慰めるようなことをいった。 「おまえはよくやってる」 「きみの特技は癒しの歌だろう。ソールのために歌ってやれ」  クルトはヴェイユをまじまじとみつめた。 「冗談ですか? 魔力は彼には効きません」  教師は真顔で返した。「冗談だ」  クルトは思わず立ち上がった。 「やめてください。笑えないですよ」 「怒るなよ。ふざけてるわけじゃないさ」  ラジアンがとりなすように手を振る。 「ようするにソールは――時々土台があやうくなる砦のようなものだ。あいつをつなぎとめるものが必要だ。魔力が効かなくてもあいつが聞く耳を持たなくても、おまえの歌だの慰めだのは効果があるんだろう。ソールはたまに意固地になるからな。めげずにつきあってやれ」 「知ってますよ」  なんだか馬鹿にされているような気もしたが、クルトは大人しくうなずいた。とはいえラジアンの親しげな口調にはかちんときていて、苛立ちを表に出さなかった自分を内心で誇らしく思った。 「状況が進んだら今度は私がカリーの店に行く。戻ったばかりですまなかった」  ヴェイユがそういって立ち上がった。 「ここから出る道はわかるかね?」 「通ってきた道なら」  クルトは即答する。自身の魔力の副産物か、生まれてこのかた道に迷ったことはないのだ。方向感覚には自信があった。 「ではその通りに戻れ。騎士団の本部で案内に名前をいって出なさい」  ヴェイユは厳格な教師の顔でいった。同時に何の前触れなく念話が放たれる。 『今は余計な好奇心は殺して、』  クルトはわずかに首をすくめた。立ち入ったことのない王宮の地下に誘惑を感じなかったわけではない。しかし今はソールのもとに帰る方が先だった。 ラジアンにわからないよう念話で話したヴェイユの意図はどういうものだろう? とはいえ思念と同時にクルトに伝わったのは押しつけがましい忠告や警告ではなく、あきらかに励ましの心だった。いつも冷静で厳しく、ときに冷笑的ですらあるこの教師がそんなものを送ってきたことにクルトはすこし驚いた。  カリーの店の周囲の路地はいつもと同じように静かだった。石畳を歩くクルトの脳裏に、ソールはたまに意固地になるからな、というラジアンの言葉がこだました。  そんなことはもちろんわかっているとも――とクルトはまたも知った顔の騎士に苛立った。たとえクルトの魔力がソールの心を見通せないとしても、数年のつきあいは無駄ではない。今のクルトはソールの素直でない側面を理解できるようになっていた。問題はわかっているのにどうしたらいいのかわからなくなることだ。ソールがかたくなに自分の意地を押し通そうとしても、彼の本心がそれを望んでいない場合、クルトは何をすればいいのだろう?  通りかかった顔見知りの警備隊員に笑顔で声をかけ、クルトは裏口からカリーの店に入る。店は暗く、しんとしている。階段をのぼると足元でぎいっと板がきしむ。 「クルト」  ソールが乱れた髪をなでつけながらクルトをみあげた。寝台に起き上がり、膝に本を広げているが、顔色は白く覇気がない。クルトは仕事がら病人は見慣れている。なのにソールに関しては別枠だった。きゅっと胸のうちが痛くなるのだ。 「ソール、具合は?」 「かなり良くなった。ヴェイユはなんだって?」 「犯人は特定しているそうだ。話してもいい?」 「ああ」  クルトはヴェイユから聞いた話――襲ってきたカルソンという男のこと、学院の蔵書に起きている異変に彼がつながっている可能性について話した。ソールは黙って聞いていた。 「ヴェイユは僕の〈本〉については何かいっていなかったか?」 「いや」  ソールは『閉ざされた本』だというヴェイユの言葉は頭をよぎったものの、本人も承知のことをくりかえす必要もないだろう。 「カルソンは今王都にいる。そのうち捕まるだろう。ヴェイユ師が知らせに来てくれる。ソール、食事は?」 「食べたくない」 「俺は食べたい。つきあってよ。果物は?」  ソールは膝のうえの本を閉じた。海の波について論じた書物だった。寝台から出ようとする彼を手伝おうと反射的にクルトは手をだした。ソールはわずかに顔をしかめた。 「僕は大丈夫だ」 「まだ熱はあるな」 「よくあることだ。きみも慣れただろう?」  素っ気ない口調にクルトはいささか傷ついた気持ちになった。なんといってもソールは肉親を亡くしたばかりで、その上に災難が重なっている。普通の人間だって体調のひとつやふたつ悪くするだろう。もっとクルトに甘えていいのだ。愛を交わしているときのようにとはいわない。ソールの動きは緩慢でみるからに怠そうだった。辛いのはわかっているのだ。  もっと自分に頼ってほしかった。そうでなければ何のための守護魔術師だろう。今のクルトはソールに出会った当時のような、生意気なだけの学生ではない。わずかだが経験も積んだし、何よりもソールを愛している。  クルトのそんな気持ちはソールとふたりでいるとき、クルト自身が意識する前に態度にあらわれていた。そんな彼の様子を今のソールがどう感じているか、クルトは想像したことがなかった。罪悪感や負い目に無縁なまっすぐな心が重荷になる者もいる。それはクルトの考えを超えたことだった。  ソールは階下へ用を足しに行き、クルトはそのあいだに汗でぬれた敷布をかえる。階下でゴトゴトと椅子を引く音が響く。あわてて降りるとソールはおぼつかない手つきでお茶をいれようとしていた。クルトはソールの隣に立つと果物を切った。自分の食事――隙をみてソールにも食べさせようと思っている――も用意する。そうしながらいつものように鼻歌をうたっていた。 「きみの歌はどこから来るんだ?」  ふいにソールがたずねた。 「え? さあ……」クルトは途惑った。 「どこから来るんだろうな? なんとなくだ。思いついたまま。うるさい?」 「まさか。逆だ」 「俺って歌、うまい?」  一瞬ソールはクルトを真顔でみつめ、ついで急に吹き出した。 「きみにはかなわないな」 「どういう意味だよ」 「なんでもない。果物をくれないか」  クルトは果物の鉢を渡し、ソールと一緒に小さな食卓へついた。

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