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【第1部 朝露を散らす者】15.瓦礫の砦

『ソール』  明瞭な声で名を呼ばれた。命令に慣れた声、力ある響き。  その瞬間はおやじに呼ばれたのだと思った。はっとして眼をあける。僕は暗い部屋で横になっていた。天井の板目に月明かりが細い線を描いている。  耳にまだ呼び声がこだましているような気がした。全身にじんわりと汗をかいている。いや、あれはおやじの声じゃない、と僕は思う。彼が僕の名前を呼んだのはいつだっただろう? 最後に会った時も彼は僕の名を呼ばなかった。  夢のなかで響いた声の背後にはブンブンと唸るような響きがあった。あれが故郷の店の機械の音を連想させたのかもしれない。思い浮かぶのは書類を片手に入荷した袋を数えている父親の姿だ。まだ幼い僕は自分の背よりも高く積み上げられた商品の陰からそっと覗いている。父親を恐れる人夫たちの感情が店の外からも響いてくる。  僕は首をふった。亡くなったいまになっても、最初に思い浮かぶ父の記憶が子供のころのままとはどういうことだろう。そうしながら手が無意識に敷布を探った。近くにいるはずのクルトの温もりをさがすが、みつからない。僕は焦って周囲を見渡し、寝台の横の敷物の上に毛布をかぶった丸い影をみとめる。  そうだった。僕が体調を崩したおかげで、寝台が狭いだろうとクルトはここ数日床で眠っていたのだ。だいたいこの寝台はふたりで使うには窮屈すぎる。このまま冬を王都で過ごすにしても。 「ソール?」  毛布の影が動き、眠そうな声が呼ぶ。 「まだ夜中だ。水を飲んでくる」  僕はそっと寝台から降り、クルトの足元を回って階段を下りた。ランプの明かりをつけて用を足し、小さな台所でコップに水をくむ。店の方をみやると書架の列がものいわぬ人のようにまっすぐ立ちならんでいる。作業机の上で何かがちかりと光ったような気がした。僕はまばたきした。  コップをおいて机を凝視する。小さな金属棒がランプの光を反射した。遺物の金属活字だ。しまっておいたつもりだったが、勘違いだったか。  僕は椅子をひき、腰をおろした。光沢にひきよせられるように金属の表面を指でなぞる。他の遺物の由来は届いてすぐに調査をすませ、レナードの屋敷に手紙を送っていた。この活字については誰がいつ作ったのか謎のままだ。たとえ古代文字でないとしても、この国にある印刷機械の仕様には合わない。指の腹がかすかな凹凸に当たった。生産者の刻印らしきもの――あるいは単なる飾りの意匠が刻まれているのだが、僕が調べられる範囲の文献にはあらわれないパターンだった。飾りだとしても微細すぎる。どちらかといえば回路魔術の基板を連想させる。そう、僕の足環に刻まれているような微小なパターンだ。  回路魔術のパターンはどこまで小さくなるのだろうか?   なめらかな金属棒を指の腹でこすると、また呼ばれたような錯覚を覚えた。何の脈絡もなく僕はふたたび父のことを考えた。最後に会ったとき彼は僕のことがわかったはずだ。わかっていて、いないものだといった。  僕は眼のあいだを指で押さえる。頭蓋のなかに重いものがたまっているような気がする。唐突に『彼』のことを考えた。僕のせいで失った友人。名前も顔も意識にのぼらせることができないのに、僕は『彼』のことを思って時々泣いたものだった。しかし父が死んだいま、僕には悲しいという感情がよくわからない。ただ自分がみじめで、その気持ちで頭の奥がおしつぶされそうだ。  僕はランプを消し、足音をしのばせて階上に戻った。夜明けはまだ遠かった。  翌日クルトは王立魔術団に呼ばれて王宮へ行き、僕はカリーの店を開けた。クルトにはまだ休んでいろといわれたが、熱は下がったし、働かないといつまでも本調子に戻れないと思った。  王立学院は試験の直前で、いつもなら店番を頼んでいる学生たちには休みを出していたから、僕はひとりで店にいた。書店には冷やかしの客もあらわれず、溜まっていた問い合わせの手紙に返事を書くだけで時間が過ぎていく。王都のカリーの店で仕事に没頭するのは簡単だ。隣国の海辺の村では子供たちや村人の相手をしたり、あいまに浜辺を歩いたりして、ひとりで長時間集中することも少ない。ところが王都では散歩に行ける場所も限られている。  ペンを走らせながらも僕の気分はしずみがちだった。今朝、僕を心配するクルトに向かって、必要以上にすげない言葉を投げてしまったのではないかと気がかりだった。ひとつの気がかりにとらわれると、いつまでもくよくよと思考がその周辺をさまようのが僕のだめなところだ。  この頃僕はあまりクルトを思いやることができていない気がする。彼は反対に僕にとても優しくて、僕のつまらない苛立ちをしんぼうづよく飲みこんでいる。僕は彼より十歳年上だというのに、これでは逆だ。  僕の中にはクルトの思いやりや優しさを素直に受け取りたい自分と、クルトは僕にかまっているどころじゃないと言い張る自分がいて、まるで戦争をしているようだった。クルトと出会って僕の人生はその前とはずいぶん変わった。しかし変化というなら、彼の方がはるかに大きな影響があっただろう。進路を変えて治療師になったこと、宙ぶらりんのままのハスケル家の家督。  この上もし、僕の中に潜む〈本〉のためにクルトが自分の将来を曲げるようなことでもあったら? いま王立魔術団が白い精霊魔術師の位階をクルトに授けるなら、彼は王宮で役割を得る可能性が高い。大事な時なのに、なにやら勘違いして僕を襲う輩も出ているとなると……  包囲された砦にいるような気分だ。足元はぐらつき、物見から眺めても、周囲は霧に覆われて見通しがきかず、不安に押しつぶされそうだ。  唐突に店の扉が開いた。僕はびくつき、ペンを落としそうになった。 「ソール」 「ヴェイユ。来てくれたのか」  あわてて立ちあがり手を差し出す。今日のヴェイユはローブを着ておらず、目立たないありふれた街着姿だった。珍しいこともあるものだ。 「お父上については残念だった」ヴェイユは静かにいった。 「いや。どうもありがとう」 「ハスケルに王城で経過を話したが、今日は襲撃者について報告に来たんだが。かまわないだろうか」 「ああ。客もいないし、ここでいいか?」  ヴェイユはちらっと店の隅に視線を走らせてうなずく。僕はお茶をいれて椅子をすすめる。 「昨日の夕方騎士団がカルソンを捕縛し、私が〈探査〉した」 「きみが?」 「ああ。この件はレムニスケートの専決になっている。私はここ数年彼らを手伝っているから、そのつながりでね」  ヴェイユは事もなげにいって僕の疑問を封じた。 「カルソンだが、彼をそそのかした者がいるのがわかった。彼はかなり前から賭博の借金がたまって、小商いだけでは首が回らなくなっていた。稀覯本を盗むことで借金を精算しろと命令した連中がいて、彼らにリストを渡されたといっている。その中にソールの名前があった」 「僕の名前?」 「書名ではなく名前だ。リストといってもいい加減で、ここの目録のような立派なものではないな」  ヴェイユは机の背後に並べたカリーの店の目録を指さした。 「書名ひとつとっても略称しか載っていないものもあった。人名が並んでいるだけの項目もあって、著者とも所有者ともわからない。そこにソール・と出ていた。お父上のメイヤー・プラテックは地元では有名だろう」 「それで――僕が十七年ぶりに故郷に帰った時に、たまたまみつけた?」 「少なくともカルソンはそう信じている」  ヴェイユは淡々といった。 「私の〈探査〉では嘘はついていない。頭がきちんと働く男じゃないからなにか間違って思いこんでいたふしもある。それはそうとして、重要なことがもうひとつ。彼の証言から学院の図書室の蔵書に細工した者がわかった」 「なんだって?」  僕は思わず声をあげた。ヴェイユはうなずいた。 「ああ。写本師だった。タブラという男だ。知っているか?」 「名前は聞いたことがある。修復も引き受けているはずだ。僕は頼んだことはないな。腕がいいとは聞かない」 「だろうな。近年印刷本が増えたせいで仕事が減って、金に困っているようだ。騎士団がいま彼の工房へ向かっている。カルソンは他の名前も吐いた。稀覯本の組織的な盗難が行われているということで、レムニスケートは審判の塔をせっつくだろう。これで騎士団が先手をとって動けるようになる」  ヴェイユの話はすでに政治の事柄になっていた。僕が理解していない、王城内の組織の力学にかかわるものだ。だから僕はそれには触れず、ただ知っている言葉をあげた。 「組織的な盗難というと『朝露を散らす者』?」 「かもしれん」ヴェイユは無表情でうなずいた。 「おかげで話が大きくなって、残念ながら私が内密で動けるのも終わりかもしれない。ソール、この前頼んだ調査はどうなってる?」  僕は肩をすくめた。 「ここを離れていたからあと半分というところだよ。申し訳ない」 「いや。もう止めてもらってかまわない。気づいたことでもあったら教えてくれるとありがたいが」 「もちろんそうする。ヴェイユ、その――」  僕はモヤモヤした思考を整理した言葉にしようと焦った。 「カルソンが持っていたというリストだが、いつから、どのくらい出回っている?」  ヴェイユの返事は冷静で簡潔だった。 「今の時点ではなんともいえない。ただソール・プラテックという名前を憶えている者は王都には少ない。プラテックとカリーの名を結びつける者もだ。今回は足環も機能した。ハスケルも活躍した。心配するな。大丈夫だよ」  僕はうなずいた。ヴェイユはお茶を飲みおわるとアダマール師やほかの教師たちの近況を話し、店を出た。  大丈夫だ、みんながそういう。クルトもヴェイユも、足環を調整してくれるセッキもそうだ。焦るなとか心配するなとも。たしかにその通りなのだろう。  蔵書に細工していた写本師がわかったのはいいことだし、カルソンという男が持っていたというリストも解決の手掛かりになるはずだ。そして僕にやれることはなくなってしまった。ヴェイユに頼まれた調査もしなくてよいとなると、僕ができるのはせいぜいこの店でじっとしていることくらいだ。  もどかしい気分だった。いっそ最終的な解決ができればいいのに。そんな思考がつい動きそうになる。カルソンは僕が〈本〉を隠し持っている――宝石のように肌身離さず持ち歩いていると思いこんでいたが、〈本〉は僕の内側にあって切り離せない以上、最終的な解決なんてただひとつしか思いつかない。もちろんそんなことはできないし、ありえない。  その日はふつうの客はさっぱりあらわれなかった。午後になって扉がひらいたと思ったら、今度はレナード・ニールスだった。 「ソール、ご尊父について伺いました」  レナードは貴族の態度とは思えないほど僕をていねいに扱うのだが、今回はとくにそうだった。お悔やみをいわれ、見舞いだといって箱を差し出される。体調を崩したことはサイモンから聞いたという。  帰省のための馬車も御者につけてもらったサイモンもニールス家の手配なのだから、僕としては恐縮するほどだった。僕はレナードにお茶を入れなおし、葬儀や故郷の様子についてすこし話をした。観察して得た情報を提供するくらいしか僕にはできないが、襲撃に関わることは話さなかった。  もっともレナードはレムニスケート家ともつながりがあるようだし、いずれ知ることもあるのかもしれない。僕の〈本〉のことだって――すべてではないにせよ――彼は知っているはずだ。 「ところでソール。大変なときに何ですが、遺物についての報告を読ませていただきました」  話題が急に変わったのはありがたいタイミングで、僕はすぐに飛びついた。 「ああ。いかがでしたか? 僕は遺物の専門家ではありませんが、陶片の模様についてはだいたい推測があっているかと」 「ええ、ほかの学者にも依頼していますが、同じ結論のようです。ただ解釈については異論が出ていて、年代は……」  レナードは嬉しそうに眸を輝かせながら話をつづけ、聞いている僕の気分もつられるように上がった。まさにこんな会話を求めていたのだ。これまで知らなかった知識を得ること、同時に新しい物事の見方を知ること。 「これまで古文書でしかみられなかった紋章が陶片でみつかるというのは素晴らしい発見です」 「そういってくださいますか。いやまったくありがたい。今回の発掘は回路魔術の最新技術を使いましたが、古いものをそうやって掘り出すことに疑問を呈する輩もいますからね」 「そうですね。少し前までは歴史を研究するとは過去に書かれた文献を参照して解釈を与えなおすだけだという教師もいましたから。しかし新しい事実の発見ですべてがくつがえることもありますし」  僕はふと言葉を止めた。遺物にまじって引き揚げられた金属活字についての疑問が心の底をかすめたのだ。印刷術は比較的新しい技術だから、僕は最初からあれは古いものではなく、どこからか流れついたものだと決めてかかっていた。もしそうでないとしたら…… 「ソール?」 「あ……」  僕はいまの思いつきをレナードに話すべきか迷ったが、あとにしようと思いなおした。 「あ、いえ。学院のヴェイユは、古代語については新しい教科書も書かれていないといっていました。古典の教育はいまだに写本と参照文献に頼っています。遺物の発見をきっかけに新しい本が出版されれば、教師にとっても僕のような書店にも嬉しい話です」 「いずれはそういった援助を考えましょう。引き続きこの研究をお手伝いしていただけますか?」 「もちろんです」  僕は勢いこんで答えた。しずんでいた気分はあがったが、そのおかげでレナードにひとつ質問するのを忘れていた。夏の発掘時に盗みを働こうとして死んだ男についてたずねようと思っていたのに、うっかりしていた。  レナードが店を出たあとも客は訪れず、僕は机に肘をついたまま、例の金属活字について夢想していた。もしあれが海底に沈んだ都市の年代に即したものだったら? 古代とはいわないまでも、たとえば以前サージュがいった『力の書』を復元しようと望む〈再生者〉がいた時代にあれが作られていたとしたら? 誰かが魔術書の古代文字を別の方法で再現しようとしたのなら?  勢いよく扉が外へひらいた。ようやく客が来たのだろうか。  戸口をみた僕は意外な顔をみとめて眉をあげた。深緑をした学院の制服の、肩で切りそろえた金髪がゆれる。クルトの係累は美形ぞろいなのだろうか。何度見てもおどろくほどきれいな子だ。 「授業で本が必要なのか? それともクルトに用事かな、マンセル」  人形のように整った顔をした少年は、僕に会ってもあまり嬉しそうではなかった。

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