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【第1部 朝露を散らす者】17.言葉を収めた部屋

 好きだよ、と彼はいう。  いったい何度この言葉をささやかれたことだろう。何年もまえ、最初にこう告げられたとき、僕は信じないと答えたのだった。しかしクルトは退かなかった。  そして今、僕はこの言葉にすがっている。このさき何が起きようとも、僕がどんな人間であったとしても――それでもクルトにとって僕は価値があるのだと、この言葉を盾に思いこもうとしている。  僕はまた不眠気味のようだ。夜中に目覚めてそのまま眠れなくなってしまう。海辺の村なら波の音を聞きながらまた眠りに戻れた。ここでは横になったままぼんやりした思考と格闘し、気がつくと窓の外で鳩が啼いている。  最近目覚める瞬間に、いつも誰かに呼ばれたように感じる。でもどんな声が僕を呼んだのか、目覚めた瞬間さっぱりわからなくなる。  となりでクルトが寝返りをうった。寝苦しくないだろうか。この寝台はふたりで眠るには狭すぎる。なのに彼の寝息は穏やかだ。僕をいつも安心させる。  もっとも今夜のクルトは……僕は夕食後の性急なセックスを思い出した。今日にかぎっていえば、この時間に僕が目覚めてしまった理由はいつもより早く眠ったからなのだろう。その気がなくても彼に求められると僕の体はこたえてしまう。クルトの指や唇に煽られ、彼自身に貫かれると、僕のなかで解決しないままもつれているさまざまな物事が主張をやめ、わずかな時間深い眠りがおとずれる。  そして夜中にひとりで目覚めたとき、これでいいのだろうかと僕は思うのだった。こんなに他人に――クルトにもたれかかっていいはずはない。いつか彼は僕を重荷だと考えはじめるのではないだろうか。彼がそうなったとき、僕は……  僕がひとりの思考にしずんでいるのと並行して、クルトの方も考え事があるようだった。翌朝の彼は口数も少なく、いつもの鼻歌もなかった。朝食後、僕が店を開ける準備をしていると、急に王城へ行くといった。 「できるだけ早く戻る」裏口を出ながらクルトはいった。「話したいこともある」  僕はどきりとした。いったい何の話だろう? 思い当たることならある。クルトが王立魔術団に召喚された理由がローブの与えなおしなら、その結果が出たのではないだろうか。僕の故郷に帰る前、クルトは連日試験を受けていた。あるいは事態はとっくに進展しているのに、僕に気をつかって話していない、ということは?  クルトが出かけると僕はカリーの店を開け、いつもの仕事をはじめた。今日も学生が来る予定はないが、作業が山積みというわけでもない。帳簿は整理されているし、顧客への手紙はかなり片付けた。紙と本にかこまれた書店は薄暗くて静かだ。安全な僕の城、僕の砦。ここでは僕は待つだけでいい。客や数少ない友人が訪ねてきたり、クルトが帰るのを。  ふいに胸の奥がしめつけられるような感覚に襲われ、僕は帳簿をめくる手をとめた。  この気分、かつてよく肌になじんでいたこの感覚。急にはっきりとわかった。僕は寂しいのだ。ここには僕の仕事があり、クルトもそばにいるというのに、どういうわけだろう?  海辺の村にいたときも状況は同じだった。でもあそこではこんな気分にならなかった。子供たちや村人と毎日話していたせいだろうか。それともあそこでは僕もクルトも同じように一時の滞在者として扱われていたからか?  王城へ頻繁に出かけているクルトは、知人や友人によく会っているにちがいない。学生時代の彼はとても人気者だった。美貌で得をしている部分もあるとはいえ、基本的に面倒見がよくて公平なのだ。クルトがひとに好かれるゆえんだ。  なのに貴族の少年、マンセルがあからさまにクルトを慕っていたのを思い出して、僕はふと嫌な気持ちになった。植物の小さな刺に見えないところをひっかかれたような、その程度のものだったが、そんな気分になる自分にもうんざりする。クルトとマンセル――冗談みたいな美形と美少年で、ならぶとほんとうに絵のようだった。容貌も階級も――それに魔力もお似合いだ。  眼鏡をかけていなくてよかったと僕は皮肉に考えた。彼らの魔力の輝きをみたら僕はどう感じたことだろう? 彼らは念話で話しただろうか? あのふたりの間でどんな会話があったとしても、僕にはわからない。  昼時をすぎた。スープでふやかしたパンをどうにか腹に入れて、僕は机の前にぼうっと座っていた。何もやる気がおきなかった。読書すらやりたくない。肘をついてなかばうとうとしていたとき、きしみながら扉が開いた。はっと眼がさめる。 「よう」  聞き間違いようのないしわがれた声がいった。サージュだった。 「暇そうだな」 「客が来なくてね。今日はきみが最初だ」と僕は答えた。 「隣国に戻っていたのか?」サージュは僕をしげしげとみつめた。 「前に寄った時、この店は開いていたがあんたはいなかった」 「所用で南に行っていた」 「なんだ。てっきりアルベルトの手伝いでもしているのかと思ったぞ」 「アルベルトか。彼とどのくらいのつきあいなんだ?」  好奇心にかられて僕はたずねた。隣国の海辺の岬に住む老学者は、採集や観察のためにしばらく留守にしていたかと思うと、いつのまにか大量の資料とともに戻ってきてしばらく研究と書き物に没頭する。そしてまたふらりといなくなる。 「ガキの頃に拾われて、それから十年ほどか?」  サージュはあっさり答えた。 「あいつの使い走りはもうごめんだな。近年ますますわがままになってる。あんたが甘やかしているんだろう」 「僕はそれほど仕事を頼まれていないよ。きみも著作に関してはずいぶん彼の面倒をみているようだが」 「最低限だ。ランディがあのじじいを買いすぎでね」  僕は思わず笑った。 「そういうことにしておこう。今日は探し物でも?」 「いや、意見が聞きたい。こいつについて――」  サージュが立ったままふところから包みを取り出したので、僕は椅子をすすめる。 「座りたまえ。お茶は?」 「ありがたい」  包みの中は小さな革表紙の綴りが三冊。サージュは売りにきたわけではなく、内容をどう思うか聞きたいという。流麗な文字で書かれた論文の内容は古代都市に関するものだった。著者は出版を望んでいて、出資者を探しているところらしい。  ざっと数ページめくっただけでも目新しい論点が飛びこんできた。ひろげた綴りを前にサージュと顔を突きあわせて検討しているうち、いつのまにか僕は憂鬱な気分を忘れて熱中していた。あらかじめ綴りを読みこんでいたサージュの指摘は的確なところも多く、興味深かったが、その場で要点を読んだだけの僕にも話せることはいくつもあった。  こんな会話に長いあいだ飢えていたのを僕は突然思い出した。昔は――それこそ学院にいたころは毎晩『彼』とこんなふうに話してすごしたものだ。『彼』とヴェイユと―― 「どうした?」  僕はぼうっとしていたらしい。サージュが怪訝な表情でみているのにはっとする。 「いや――関係ないことを思い出していた」 「何を」 「きみは記憶や認識について考えたことがあるか? どうしても思い出せない事柄について……」 「思い出せないことくらい誰にだってある。当たり前の話だろう」  サージュは眉をしかめたが、僕は首をふる。 「僕はそうじゃない」 「そういえばあんた、なんでも暗誦できるらしいな。記憶術を学んだか」 「いや、これは技術じゃない。ただの能力だ。魔力を亡くした事故のあと、こうなった」  サージュはまた眉をしかめた。 「あんたの魔力ね。事故か」 「火事でね」 「生きのびるために使い果たしたか」  サージュの枯れた声に奇妙な響きが混じっている。 「代償として憶えていられるようになったわけだ」 「そうでもない」  僕は唇がゆがむのを止められなかった。 「ひとつだけ、どうやっても、ふつうの意味でも思い出せない――人がいる。思い出せないというか――憶えているのに認識できないんだ。彼の顔や名前だけ……穴があいたように像が欠けて」  サージュは黙って僕をみた。視線に誘われるように僕は学院で起こした事件のことを話していた。友人と夜半に図書室に忍びこみ、ある書物を開いたこと。そして火事が起きたこと。 「書物」サージュがくりかえした。 「ああ。燃えてしまった」 「全部?」 「ああ。たぶんね」 「たぶん?」  僕は首をすくめた。 「僕はそいつを読んだからな」 「憶えている?」  僕は首をすくめた。 「――友人と同じだ。認識できない。以来僕はどうしようもないのさ。魔力もないし、体もポンコツ」 「そうかね」  サージュは首をすくめるような仕草をした。 「べつにかまわんだろう。この店の蔵書は有名だし、あんたには例の魔術師もついてるじゃないか」 「クルトは……」今度は気弱な笑いがもれるのを止められなかった。「僕のせいで時間を無駄にしているんじゃないか。たまに不安になる」  サージュは鼻を鳴らす。 「それ、あんたが決めることじゃないだろう」 「悪い。個人的な話をするつもりはなかった。どうしてだろうな」 「関係ないからさ。他人の方が話しやすいこともある」  サージュは喉に手をやった。 「こっちこそ悪いんだが――飲み物をもらえないか」 「ああ、気づかなかった」  僕は立ち上がって台所に行き、二杯目のお茶をそそいだ。 「きみは大丈夫なのか?」  サージュは怪訝な眼つきをする。 「何の話だ」 「前に発作を起こしていただろう。例の薬、ほんとうにやめたのか? この国じゃ入手先がほとんどない。副作用で喉がやられるのは可愛いもんだ。禁断症状はつらいぞ」  サージュはじろりと僕をみやった。 「詳しいな。あんたも経験者か」 「経験? 効くわけがないのに?」  僕はサージュに背を向ける。まともに働く頭であれば、魔力を増幅する薬物というものは、増幅できる魔力がなにひとつ残っていないときは意味がないと考えるだろう。施療院ではこの手の薬物を治療に使う場合がまれにあるが、僕には処方されなかった。  誘惑に逆らえなかった一時の自分の記憶は、愚かさの証拠として死ぬまで抱えていなければならないのだろう。学生の時から抱いていた好奇心が背中を押したというのは単なるいいわけだ。  魔力がなくても何の影響も起きないならまだよかった。あの薬は魔力を一時的に増幅し、感覚を拡げる以外にも心理的な作用を及ぼす。実際は魔力など戻らないのに、高揚感や力が戻ったような錯覚は生まれるからだ。もちろん長くは続かない。希望のなかで眠りに落ち、目覚めたときには絶望が待っている。  それでもあの高揚がほしかった。あのころの自分の渇望を僕はいまだに忘れていない。

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