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【第1部 朝露を散らす者】18.沙漠にいたる鍵
クルトの目覚めはいつも素早い。
寝起きの悪いソールとは対照的である。ソールは眠りが浅いのだ。クルトはソールが深夜に目覚めていることに意識下で気づいていないわけではなかった。彼が身につけた足環の魔力が動くからである。しかし明け方、ソールが短い眠りに落ちこんだあとでクルトの意識ははっきりと目覚める。
ソールを起こしてしまわないよう、そっと寝台を出てクルトは考えをめぐらせた。ダーラムの打診についてソールに話さなければならなかった。返事は保留となっているが、クルトの中でもう意思は決まっている。ソールのそばを離れるつもりは毛頭ないし、ソールの健康に王都が合わないのなら、早く隣国の海辺の村に戻りたかった。レナードに相談すれば早めに実現することができるだろう。癪にさわるとはいえ、王宮から他国の商業ギルドまで網羅する彼の政治力は頼りになる。
もっとも昨夜寝る前、クルトはもう一度そのことをじっくり考えていた。ここ数年のあいだクルトはゆっくり学習したのだが、ソールの思考はクルトより三歩ほど先を進んでいることが多いうえ、クルトの楽観的な予測とは反対の方向に走るのが常だった。そのくせ自分の体はないがしろにする傾向がある。いくらクルトの意思が決まっているといったところで、ソールの体が心配で王都を離れたいなどと口にしようものなら、むきになって反対するかもしれない。
加えてダーラムがにおわせた政治的な含みも気にかかっていた。クルトが誘われた新しい審議部とは、結局のところメストリン王子直轄の情報部を創設するという話に他ならない。メストリン王子は本当に王宮の旧来の勢力であるレムニスケート家と騎士団に対抗するつもりなのだろうか。そこへクルトの父、つまりハスケル家はすでに巻きこまれているのか?
レムニスケート家やその他の王宮内の動きについて情報が欲しかった。とはいえ、こういった繊細な事柄を尋ねられる相手として思いあたる人物は少なかった。
まず思いつくのはレナード・ニールス。家令のハミルトンも情報通だが、レナードの代理で各地を旅していることが多く、すぐに連絡がつくかあやしいものだ。王都にいるレナードは王城で探せば会えるだろうが、ダーラムやメストリン王子側の誰かに見とがめられるのは避けたかった。とすると思いつくのはもうひとり。
いつもの鼻歌も忘れて朝食をすませると、クルトはある人物に念を飛ばした。
『ハスケル。どうした?』
『朝からすみません、ヴェイユ師――相談があるんですが』
王城の南東門は学院にいちばん近く、道を曲がった先にある。ほかの門より小さく、横手に警備隊員がふたり立っているだけだ。門が見えるか見えないかのところでクルトの隣に白いローブがならんだ。
『こっちだ』
クルトはヴェイユの魔力の触手がふわりと自分を包んだのを感じた。警備隊にヴェイユは軽くうなずき、門を通り抜ける。そのまま城壁ぞいをすこし進み、壁龕のようにくぼんだ場所へ足を踏み入れて壁の一点を押した。
とたんに小さな石段がせりあがる。ヴェイユは黙って昇っていき、クルトもそのあとに続いた。からくり仕掛けの階段と回路魔術の組み合わせらしい。気がつくとクルトを包んでいた魔力の感触が消えている。
『めくらましですか』
確認するようにクルトが念話をとばすとぶっきらぼうな返事が戻ってきた。
『静かな場所がいいといっただろう。ここは眼や耳がない』
城壁の上は石畳が敷かれた小路のようで、長く先まで続いていた。クルトはこれまでなんとなく、王城を囲む城壁は単なる一枚の壁にすぎず、全体をのっぺりと囲んでいるだけと思いこんでいた。ところが上に登るとまったくちがう光景があった。城壁は多重の層になって、その一部は王宮をとりかこむように伸び、別の一部は他の塔や騎士団の方へと続いているのだ。
クルトは知覚を拡げ、魔力の網を上空に飛ばした。見下ろす城壁の全体はまるで入り組んだ迷路のようだ。ところどころに歩哨に立つ警備隊員がいて、うちひとりの感情がクルトの網にひっかかる。寒さに不平をもらしている。城壁の道の端には茶色く枯れた葉が溜まっていた。風で吹き上げられてくるらしい。
「きみは迷う心配がないな。手間が省ける」
ヴェイユがぼそりとつぶやいた。
「歩きながら話そう。何があった?」
たしかにここは静かだ。クルトはゆっくり歩きながら、白のローブの授与とその条件のように出された新しい「審議部」の話をする。ダーラムの名を聞いてもヴェイユは何もいわなかった。しかしメストリン王子の名前の名を出すと小さく頬が動いた。
「どう思われます?」
「どう、とは?」
「俺は断るつもりです。知りたいのはこれがどこまで――進行中の話なのか、ということです。ダーラム師はもちろん八の燭台のおひとりですから――信頼してしかるべきでしょうが」
「それならどうして私に話す?」
「俺は馬鹿じゃありませんよ。ソールの身柄が審判の塔と騎士団、それにレムニスケート家の管理下にあることくらいわかっています。もちろんすべては〈本〉のせいです」
城壁のうえで言葉は反響せず、風に乗って散るように消えた。ヴェイユは黙っている。続きを待っているのだ。
「俺たちが隣国に住んでいられるのもレナード・ニールスがレムニスケートと繋がっているからだ。彼は中立となっていますが、俺の父よりもレムニスケートに近い。もしメストリン王子が表立ってレムニスケートに対抗するなら、俺が何を選んでもソールに影響する。俺はソールを守るために最適な選択をしなければなりません」
高いところを黒い翼が羽ばたいた。鴉の群れが舞っているのだ。
「きみは難しい立場ではある」とヴェイユがいった。
「メストリン王子にお目通りしたことはあるかね?」
「子供のころに一度だけ」
「八の燭台のなかでもダーラムは野心家だ。表には出さないが――昔、学院の運営をめぐってアダマール師と対立したのを知っているかね?」
「いえ?」
クルトは意外な名前に驚いた。ヴェイユがここでかの老師に言及するとは思っていなかった。
「ダーラムがすべてを代弁しているとは思わない方がいいだろう。信じるなとまではいえないが、はかりごとに無縁な人ではない。メストリン王子は継承二位で、王太子はアピアン殿下。殿下はレムニスケート家のセルダンと長年懇意だが、ダーラムはセルダンとわだかまりがある」
ありがたい情報だった。なんの脈絡もなくクルトの中に問いがひとつ浮かんだ。以前からクルトの中に潜んでいた疑問だ。
「ヴェイユ師――あなたは何ですか」
「何とは?」
「誰のために働いているんです?」
ヴェイユはゆっくり歩き続けた。まっすぐ前をみつめたままいった。
「私はアダマール師の弟子だ」
「でもあなたは――どうも……」
「ソールの事件はいくつかのことを変えた。私自身も例外ではない」
ヴェイユはさらに歩き続け、北の方向へ曲がった。遠くに師団の塔がみえた。鴉がまとわりついている。
「私が回路魔術を使えるようになったのも師団の塔と繋がるようになったのも、アダマール師による。きみが想像する以上に学院は王宮に影響を与えている。手勢はすくないがね。ところで、ソールは大丈夫か?」
唐突に話が変わってクルトはいささか鼻白んだが、おとなしく答える。
「あいかわらず調子は悪そうです。よく眠れていないようですし。やはり王都は合わないのかと」
「海辺とはちがうかね」
「ええ。機嫌も悪いですし……」
「それでもきみと暮らしているのは大きな進歩ではある」
「どういうことです?」
意味がわからず、クルトは思わずヴェイユの横顔をみつめた。ヴェイユはちらっとクルトの方をみた。呆れたような眼つきだった。
「知らないのか? ソールは事件のあと長いあいだ精霊魔術師を避けていた。殻に閉じこもったような様子で――私もどうしたらいいのかわからなかった。例外はアダマール師と施療院のカルタンくらいだろう」
「カリーの店をはじめてからも?」
「ああ。ラジアンと親しくなれたのも彼が魔力に鈍い騎士だからにきまってる。そのあとは薬をめぐる問題があった」
「薬? 時々飲んでいる施療院の?」
「いや。魔力増幅薬だ」
知らないことばかりだと眉をあげたクルトにヴェイユは平坦な声で追い打ちをかけた。
「短い期間だが、ソールは違法に手に入れて試している。アダマール師がうちうちにおさめて、記録には残っていない」
クルトは思い出した。夏に発掘に行った島で、クルトが薬物の助けを借りて死者の記憶をさぐろうと提案したときのことだ。あのときソールは激しい調子でクルトを止め、使ったことがあるのかとたずねた。
「魔力増幅薬――すこしは効いたんですか?」
「もう終わった話だよ。薬は完全に失敗だったようだ。施療院は最初から予想して処方しなかった。害の方が大きいという理由でね。ソールは諦められなかったんだろう。自分が突然すべての魔力を失うなど、想像したことがあるかね?」
何と答えていいかわからず、クルトは黙った。ヴェイユも黙りこみ、いくらか気まずい、重い沈黙がおちた。クルトは城壁の先に眼をやる。この先はどうやら行き止まりのようだ。
「さっきもいいましたが、俺はダーラム師の話を断って、早めに王都を出るつもりです。ニールス家に協力を仰がざるをえませんが、俺自身の財産もありますし」
「ソールには話したか?」
「これからです」
ヴェイユは突然立ちどまった。袋小路になった城壁の端へたどりついたのだ。教師は壁に背を向けてクルトをみつめた。白いローブが軽く揺れる。
「きみの意思は買う。横やりが入らないうちに内密に王都を出る方がいいだろうな。私としては――田舎でソールを襲った馬鹿者に加え、学院の蔵書も狙っていた窃盗団組織を把握してからの方が安心はするが。ソールの件は別だ」
「ヴェイユ師」
今日は珍しくこの厳格な教師がクルトに向けて心をひらいているような気がした。クルトは意を決してたずねてみようと思った。
「教えてください。ソールの〈本〉と亡くなった『彼』について」
「なんだね」
「ソールは『彼』の名前を思い出す――認識できるときが来るんでしょうか? 『彼』の名前はソールと〈本〉にとって何なんでしょうか?」
「個人的にあたためている仮説しかいえないが」
「かまいません」
ヴェイユは首をふった。まなざしの奥にクルトにはほとんど読みとれない影が落ちた。
「『彼』の名前は――」口に出された言葉が突然念話に切り替わる。『ソールに封印された〈本〉とそれにつながる力の鍵だ。ソールの心には魔力を阻む防壁があるが、『彼』の名前はその中にある。何らかの衝撃で防壁の一部が外れればソールは『彼』を思い出せる。一度だけ、きみがかかわった事件でそれが起きた』
クルトも自然に念話を返していた。
『では『彼』さえ思い出せばソールは魔力を取り戻し、彼の中にある〈本〉も操れるんでしょうか?』
「そう思うかね?」ヴェイユは声に出していった。また首をふる。
『強大な力には代償がつきものだ。なぜ学院が禁書を隠し、触れられないよう管理していると思う? 燃えてしまったソールの〈本〉はまともな調査をする時間もなかった。しかし私はあの〈本〉は古い記録にある、これまで幾人もの所有者を呑みこんで意思を失わせた『力の書』と同じものだとにらんでいる。とすると封印の鍵となる『彼』をソールが思い出せないのは『彼』による守護なのかもしれない。『彼』という鍵は〈本〉の力からソールを遠ざけ、同時にソールの命をつないでいる。とはいえ、鍵である以上解除法はあるだろう。問題は解除していいのか、ということだ』
それきりヴェイユは黙りこんだ。クルトはヴェイユの言葉を胸のうちで反芻し、またたずねた。
「彼はどんな人だったんですか? ソールと仲が良かったと」
「外見はともかくとして、ソールによく似ていたよ」
ヴェイユは遠くをみるような眼をした。
「興味や立場がね。ふたりとものめりこむ性質だった。一緒に悪だくみをしている子供のようにみえるときもあった。学院で私はソールと彼と……三人でよく一緒にいたが、あのふたりは特別だった。最初に出会ったときから仲が良かったらしい。疲れもせずに何時間もふたりで念話をして……たがいにとって唯一無二という雰囲気だった。ランダウとソール。彼らは……」
ヴェイユの言葉はしりすぼみに止まった。長らく口に出さなかった名前が自分の唇からもれたことに、自分で衝撃を受けているように見えた。
「ヴェイユ師、彼らは」
クルトは教師のあとを引き取るように質問を投げようとして、ふとためらった。ひょっとするとこれは聞く必要がない問い、それだけでなく答えを聞きたくない問いではないだろうか。
中途半端に言葉を切ったクルトをヴェイユは怪訝な眼つきでみやった。クルトは首をふった。
(彼らは恋人同士だったんですか?)
いまさらそんなことをたずねても何の意味もない。『彼』はもういないのだ。自分こそがソールのすぐそばにいる。
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