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【第1部 朝露を散らす者】19.槍の庭
「ソール」
ページをめくって彼がくすくす笑う。
「見ろよ。この書きこみ……笑える」
僕は横から彼の前の本をのぞきこむ。
「きみの教科書だろ? いったい何――なんだよ、これ」
「カリーの店で買ったんだ。この筆跡見覚えないか? ねじったマルとハネ……」
即座に僕はそっくりの文字を書く学院の教師を思い浮かべた。
「え、そんな偶然あるか? それにあの先生がこの本使ってたのって……二十年は前だろ?」
「三十年かもな。そのあと何度も学生に売られたり買われたり……にしても、あっさり売るのはもったいないぜ。いくら古代文字が退屈だからって」
そういって彼は別のページをめくり、僕はちがう筆跡の書きこみを見出す。余白に綴られた小さな文字はこれまでこの本を使った学生たちの記録だ。文法のとある項目に、こんなのお手上げ、という落書きがみえる。僕は笑いながら続きをめくろうとする。彼の手が僕の手を阻む。
「まだだ。ソールは速すぎる」
「なあ、あとで僕にも貸してくれ」
扉の向こうから「まだ起きてるのか? 消灯だぞ」という声が響く。今回の寮監督はやたらと規則にうるさいのだ。僕と彼は同時に口をつぐむ。子供じゃあるまいしと僕は思う。彼も同じように感じているのがわかる。明かりを消してそれぞれの寝台にもぐりこむが、まだちっとも眠くならない。
僕らは同時に上掛けをはねのけ、起き上がる。まったく同じ行動をとったことが可笑しくなる。同じタイミングで声を殺して笑い、それがさらにくすくす笑いを増長する。明かりを消した部屋は暗く、もう書物を読むことはできない。それでも魔力の輝きでおたがいの存在がはっきりとわかる。
どさっと音がして、彼の重みで僕の寝台がきしむ。
『ソール、古代語だけどさ……』
僕らは並んで座り、念話でたがいの「ノート」を伝えあう。彼と僕は誰にも教えられないうちにこの方法を見出した。いつの間にか習得したのだ。ふたつの心がそれぞれの文字、それぞれの像を共有し、理解する。僕が彼の論点に抜けを発見して念話で突っこみをいれると、彼も僕の適当な前提をあげつらう。僕らはまた声を殺して笑う。喜びの感覚が胸のうちに広がり、彼も僕と同じように感じているのがわかる。
僕らはただ座っているだけだ。それ以上のことは必要がない。
「どうした? 急に黙って」とサージュがいった。
「ああ……いや」
僕は慌てて手を動かした。突然よみがえった記憶に囚われていたのは一瞬のことだった。これは夢だ、と僕は自分にいいきかせる。実体はない。
『彼』と過ごした時間はときたま、予期せぬタイミングで僕の頭に再現されるが、この記憶は他の記憶とはすこしちがった。もっとも僕の「記憶」――それは図書室の火事のあといつの間にか身についていたものだが――自体、ほかのひとが「憶えている」場合とはすこしちがうらしい。記憶とは僕にとって本のページのように固定されたものだった。僕が「思い出す」とき、僕が経験した出来事はすべて時の一点一点で静止した像をもっている。僕はその像を自在にさかのぼり、止め、進められる。まさしく書物のページをめくるように。
しかし『彼』の記憶だけはちがった。『彼』そのひとを指す部分にかぎってそうなのだ。『彼』の顔も声も僕の記憶の中で固定した像を結ぶことはなく、塗りつぶされ、ぼやけている。揺れ動くその影はときたまべつの人の顔や声にすりかわることもあって、僕を混乱させる。にもかかわらず、記憶のなかにある場所に彼がいたことだけは僕にとって鮮やかな事実なのだ。
そんな調子だから『彼』のあらわれる記憶に僕は確信が持てなかった。これは夢の一種で、しかも目覚めたとたん、槍の尖端に突き刺されている自分に気づくような夢だった。
きっと本当に重要なものはこの記憶から欠けている。もどかしさのあまり、僕の心は欠けた部分を勝手におぎない、着色し、都合よく変えているにちがいない。念話の記憶が特にそうだ。あの幸福感と充実した感じ、自らの力の根源から〈力のみち〉をつくりあげ、他者と交わらせるときの愉悦と高揚感。
あの高揚感は特別なものだった。取り戻すのをあきらめるまでどのくらい時間がかかっただろう。カリーの店を引き継いでからも僕はやみくもに文献を読み漁り、手掛かりがないかと探していた。魔力増幅薬の可能性に思い至ったのはそのころだ。当時施療院で処方された薬に閉口していたせいもあっただろう。
もっと効く薬、もとの自分に戻れる薬はないのかという願いは、不安定な心によって簡単に妄想へ転化する。もっと効く薬はあるはずだ、あるのに自分から隠されている、と。
それにあの薬の誘惑はその前から存在した。
学院で僕と『彼』はずっと知識と力の限界を拡げること、挑戦することに魅せられていた。ふたりとも学院にいる間しかできないことをやりとげたかった。『彼』の進路は最初から決まっていた。卒業したら治療師になって出身地へ戻るのだ。僕らはそれまでに知りたかったし、確かめておきたかった。いったいどこまで〈視る〉ことができるのか。魔力がよってきたる場所とは、ほんとうはどこか。
結局のところ僕はあさはかで愚かだったのだ。好奇心と知識欲はいいわけにもならない。到達したことのない領域へ行けるのなら、多少の副作用など問題ではない――そう思いはじめたころ、あの〈本〉はあらわれた。〈本〉にその秘密が記されていると僕が――僕らが確信したのはなぜだろう? かの〈本〉を開くまでの詳細な記憶は『彼』と同様、もはや確信の持てないものになってしまった。
湯気のたつカップをサージュの前に押し出しながら、僕はいつのまにか眉をよせていた。先日彼がここで起こした発作を思い出したせいだが、サージュは変わった様子もなくお茶をすすっている。
魔力を増幅する薬物は今のところ三種類知られている。効き目は使用者の魔力が大きいほど早く、また長く続くが、回数を重ねるうちに使用者に耐性が生まれ、量も頻度も増えていく。それにともなって最初はわずかだった副作用も顕著になる。薬の成分そのものに中毒性はないと主張する文献もある。しかし魔力が増えようが増えまいが、この薬が与える高揚感は使う者をとりこにする。
サージュが使っていたのはどの薬だろうか? 発作のあとで彼は「もう現役じゃない」といったが、本当に?
もっとも王国で違法にこれらの薬を手に入れようとしたら、最悪の場合、施療院や学院の奥へ盗みに入らなければならない。サージュはそれほど愚かにはみえなかった。僕の心は確証のない思考の渦に落ちこんでぐるぐる回った。もうすこし突っこんでたずねようと思ったそのとき、サージュがいった。
「あんたが読んだといった、燃えた本――魔術書だな?」
「どうかな」
僕は曖昧に返した。だがサージュは見透かしたような眼つきを僕に据えていいつのる。
「そのはずだ。あんたのような人間が本のある場所で火を使えるもんか。勝手に燃えたんだろう」
「だったらなんだ」
「読んだのなら再現したらどうだ」
唐突な提案に僕はすこし呆れた。いったいこの男は何をいっているのだろう。
「無理だよ。いっただろう、たしかに僕はあれを読んだが、認識できないんだ。他の――記憶とちがう」
「無理だって思いこんでいるだけかもしれないぜ」
僕は笑い出した。喉の奥からもれた声は自分の耳にも奇妙に高く響いた。
「サージュ。あの本は古代文字の手稿本だった。たとえ燃えなかったとしても、複製だって作れやしないさ」
「手稿本ね」
サージュはつぶやいた。動揺している僕とは裏腹に、何かを納得したようにうなずいている。
「あんたからはきれいさっぱり魔力が消えているのに、こうして座っていられる理由がわかった。『力の書』だろう」
僕は椅子を揺らして立ち上がった。
「サージュ。忘れてくれ」
「大丈夫だ。落ちつけよ」
サージュはなだめるような笑みをむける。
「あんたのことは友達と思ってる。秘密にしておくさ。それであんた、中身は何もわからないのか? 『力の書』だぜ? 読んだのに?」
「ああ。〈本〉それ自体の魔術か、他に理由があるのかも不明だ」
「そんなものを抱えていてよく平気だな。この王国は魔術も魔術書もほっとかないだろう? 何もかもを王国の支配に置きたがる」
「ああ、そうだよ。何が悪い? 不要な危険が及ばないように管理しているんだ」
いいはなった僕をサージュはじっとみつめていた。さぐるような眼つきだった。
「なるほど、だからあんたには魔術師がついているんだな。何年その状態で?」
「十年と……三年だ」
僕は首を巡らせたが、彼は僕から眼をそらさない。彼の視線の強さに僕はあきらめてまた腰をおろした。サージュの眸は静かで、浅黒い顔にうかぶ表情は僕を嘲笑っているようにも、同情しているようにも見えなかった。
「サージュ、そんな眼つきをするなよ。もとはといえば僕の自業自得なんだ。いずれは時間か、問題があればそれ以外の手段でもいい、とにかく最終的な解決はある」
「最終的な解決って?」
僕は肩をすくめ、親指で喉を横切る仕草をした。サージュの表情は変わらなかった。
「それにこんな古い精霊魔術はもう時代遅れになるべきだ」と僕はいう。
「結社だの秘儀だのに意味があればみんなが共有しているさ。いまは回路魔術もあるし……」
「時代遅れか。そうともかぎらん。『再生者』の意思を継ぐのなら……歴史記録や伝説に残る魔術を追求する学者もいる。精霊魔術に頼るだけでなく、回路魔術を応用してな」
「『再生者』の意思ね。そんな学者がどこにいる?」
僕の疑いの口調はあからさまだったはずだ。しかしサージュは落ちつきはらっていた。
「北西の半島近くだ。湾に浮かぶ島に天体観測所がある」
「北方の連合王国か? きみは行ったことが?」
サージュは軽くうなずいた。
「あんただって、諦めてばかりではきついだろう」
北方の連合王国か。大陸、大洋、南方とならんで僕にとっては大いなる未知の場所だ。もちろん書物でなら知っている。歴史書、博物誌や旅行記、物語や伝説――だが僕に冒険の旅は縁がない。夏の島での休暇は例外だった。
不可能な物事に対しては憧れだけが強くなる。失った魔力も旅もおなじことだ。もし自分がその観測所へ行くことがあったら――そう僕は想像しかけて、あわてて打ち消した。あまりにも非現実的だ。
「その天体観測所って、名前は?」
「正式名称は北方の古い言葉で、ちと長たらしい。島の住民は『果ての塔』と呼んでいる」
サージュがそういったとき、店の扉がひらいた。
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