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【第1部 朝露を散らす者】20.凪と嵐

 すでにこの世にいない人間と張りあうことはできない。  クルトもそんなことは百も承知である。かつて『彼』がソールにとってどれほど大きな存在だったとしても、クルトは『彼』と対峙できない。  ひとが失った存在に囚われるのはめずらしいことではなく、ひいては肉体に支障をきたすこともある。クルトも施療院でそんな病人に接したことがあった。だが、たとえ病人の心が視えたとしても、治療師が心そのものを弄ることは禁じられている。  精霊魔術のなかに心を操作する技術がないわけではない。しかし、ひとの心は日々変容する模様を織りなす繊細なタペストリー、さもなければ迷路を基礎においた建築物のようなものだ。どれほど魔力が強い魔術師であろうとも、自分自身で他人の心にひそむ謎を解消できると考えること自体、力の驕りにほかならない。治療師は薄灰のローブを授けられる前に師からそんなふうに叩きこまれる。そして心への早道はむしろ肉体に近づくことだと学ぶのだ。  そうだ。『彼』はソールに触れられるわけじゃない。  ソールにとっていまだ『彼』がどれほど重要な存在であるとしても、今ソールにもっとも近いところにいるのは自分で、ソールの慰めになるのも自分だけだ。  そう思ってみたものの、カリーの店へ急ぐクルトの内心は穏やかではなかった。ヴェイユが余計なことをいわなければいいのにとすら思ってしまう。水を向けたのはクルトの方だというのに。  いまの自分が考えることは他にあるはずだ。クルトは気持ちを切り替えようとした。ソールと海辺の村に戻るにはどんな手順が必要か、早くレナードに確認しなければならない。審判の塔はソールの所在をつねに把握しておきたがるから、王都を出ることによい顔をしないにちがいない。だが今は隣国の町にもレナードとソールが共同で経営する書店がある。カリーの店の支店にはクルトも出資しているのだ。海辺の村に戻ることに文句をいわれる筋合いはない。素早く隠密にことを運んでしまえばいい。明日にでもレナードをつかまえて相談することにしよう。  そんなことを考えながら店の扉を開けた瞬間、しわがれた声の余韻が耳に届き、クルトは思わず正面をにらみつけてしまった。ぴたりと話し声が止まった。  やや気まずい沈黙のなか、ソールの前に座った男がふりむいてクルトをみた。  サージュ。どうしてこいつはまたここにいるのか。  浅黒い顔に白い歯がちらりとみえた。ほんの一瞬――ほんとうにわずかな時間――魔力が炎のようにのびて男の全身を包んだのを感じ、クルトは眼を瞬かせた。しかし次の一瞬には、男が放射する魔力はごくありきたりのそれに戻っている。  クルトは眉をひそめた。 「……クルト?」  ソールの声が聞こえた。クルトは書棚の前を進んだが、妙にぎこちない気配が漂っている気がしてならなかった。秘密の会話がかわされていたところに突然割りこんでしまったかのように。いや、気のせいなのだろう。クルトが近づくとサージュは椅子をごとりと引いて立った。長身に見下ろされるのは気に入らなかった。 「じゃあな、ソール。俺は行く」 「……ああ。そうか」  ソールの声に妙に名残惜し気な響きを感じ、クルトの腹の中がすこし騒いだ。サージュがソールを呼び捨てにしたのも嫌な気分だった。サージュはここで本を買ったわけでもなさそうだ。なのにソールは頬をゆるめ「また話を聞かせてくれ」といった。カリーの店を利用する学生や魔術師の客に対しては、よほどの常連でなければソールはこんな気安い表情を見せない。  ここまでの道すがら『彼』とソールの親密さについて考えていただけに、クルトの腹の中はますます騒いだ。サージュがブーツを鳴らしてクルトの前を通りすぎた。一瞬だけきつい吊り目と視線が合ったが、相手は口元をかすかに歪ませただけだ。理由もなく小馬鹿にされた気がして、クルトはまたも嫌な気分になった。 「何しに来たんだ?」  店の扉が閉まってからいささか語気粗くソールにたずねると、彼は途惑った表情で「サージュが?」と聞き返す。 「本を探しに来たようには見えない」  クルトの口調は書架のあいだで尖って響いた。ソールは怪訝そうに眉をひそめた。 「預かっている草稿について相談に来たんだ。著者が出版を望んでいるらしい」 「どうしてここに?」 「さあ。僕がああいった論文を読み慣れているからだろう」 「それだけか?」 「それだけって……」 「あいつは港湾都市の版元の編集者なんだろう? 編集者ってのはそんなに他所の店にいりびたるものなのか?」  ソールはますます怪訝な面持ちになった。 「そりゃ……そうだよ。情報交換っていうものがある。それにサージュは港湾都市のランディ専属っていうわけでもないらしい」 「だったらなおさら……」 「なおさら?」  まったく警戒していないソールの様子にクルトは苛立った。 「ソール、あいつが怪しいとは思わないのか? 何の目的で王都にいる? いったい何をしているんだ? どうして何度もこの店に来る?」 「いきなり何をいってるんだ」  ソールは呆れたような眼つきでクルトをみつめ、首を振って立ち上がった。机の上に広げた書物を閉じ、書類を重ねて束にする。 「やることなんていろいろあるだろう。ここだけじゃない、他の書店も回っているだろうし、印刷屋や写本師に顔をつないだり、草稿を持ってる著者に会うとか、出資者のつてを探すとか。ここは王都なんだぞ。サージュの何が怪しいんだ?」 「何がって……」  ソールの言葉にクルトの苛立ちはますます大きくなった。持ち出すつもりのなかった事柄が口から飛び出したのはそのせいだろうか。 「あいつは魔力を隠している」  ソールの手が止まった。 「隠す?」 「ふつうの人間に見えるように――魔術師に見えないように制御している。俺にはわかる。魔力の放射の制御は簡単じゃないのに。それにあいつの魔力はなんだか……変だ。今日も一瞬……」  ソールはクルトをみつめた。ぽつりといった。 「安定していない?」 「ああ。そうだ。まさしく」 「それはたぶん――」  ソールは何かいいかけて黙った。 「僕は眼鏡なしでは魔力が見えないからな。今度サージュが来たら見てみるよ。サージュは声や眼つきは悪いが、別におかしなやつじゃない。もちろんあちこち渡り歩いていればそれなりの経験は積んでるだろうがね、その分知識は多いし、よく考えてる。アルベルトの校正の時からそう思っていたんだ」  かばうような口調だった。クルトの腹の中がまたざわざわと騒いだ。 「でも、ソール。あいつの何を知ってるというんだ? 隣国の版元とつながりがあって、アルベルト師と昔関わりがあったくらいしかわからないんだ。身元も居場所もはっきりしない上に魔力もおかしい。そんなやつをあっさり信用するなんて」 「身元も居場所もはっきりしない?」ソールは自嘲するように笑った。 「何をいってるんだ。隣国では僕も似たようなものだよ。僕の身元なんてレナードの保証くらいしかない。何を心配しているんだ」 「だけど」 「サージュは友人だよ。しかも同業だから話がしやすい」  友人だって?  ソールの口からそんな言葉が出たことがクルトには信じられなかった。あんなに警戒心の強いソールが誰かをあっさり友人というなんて。 「へえ。いつから?」  ソールはクルトの口調にまじった刺を聞き逃さなかった。 「なぜそんな聞き方をするんだ? いつからなんて、そんなこと――わからないだろう。僕が友達だと思っているだけだ。サージュだって……」  クルトは腕を組む。「ふうん。そうなのか」 「彼は僕と同じ学者崩れだ。似た者同士で気が合うというだけだよ」 「似た者同士ね」  クルトの腹の中はだんだん煮えてきたが、ソールはそんな彼を気にしている様子にもみえない。 「何が気に入らないんだ? 僕は友人をつくっちゃいけないとでも?」  顔をしかめていいはなったソールに、クルトは平静を保とうと努力した。 「そんなことはいってない。最近いろいろあるから、近づいてくる怪しい連中には用心してほしいだけだ」 「そんなの――」ソールは絶句した。 「誰でも怪しいなんて思うのも変だろう。だいたいサージュ以外にきみが文句をいったことがあるか? 僕は黙って店をやってるわけじゃない。よく手紙をやりとりする客もいるし、話しこんでいく常連だっている。ここは魔術本専門なんだ。常連客は魔術師ばかりだし、その中には自分の魔力を制御できる人だっているさ」 「それは……」  クルトは言葉につまった。 「ソールが……似た者同士だなんていうからだ」  ソールは眼を細めた。 「それをいうならきみとあの子だってそうだろう」 「あの子?」 「マンセル。きみと同じように貴族で、魔力も多くて、見た目だって――きみらが並ぶと」  ソールが不意に言葉を切ったのはなぜだろう。クルトにはわからなかった。マンセルを持ち出されたのは意外だった。 「そんなの――ただの外見や生まれや……たまたま同じというだけだ。マンセルは親戚だし」 「ただの外見や生まれ、か」  ソールはつぶやいた。クルトには多少馬鹿にしたような口調に聞こえたし、話をサージュからそらそうとしているようにも思えた。何から何まで気に入らなかったが、ソールはクルトから眼をそらして書類の束を机の上でそろえはじめた。急にこれまでの話すべてに関心を失ったようだった。はりつめた沈黙のなかで紙束をそろえるトントンという音だけが響き、クルトは話の接ぎ穂を失った。 「……着替えてくる」  ソールは聞いているのかいないのか。階上へあがったクルトが窓から外を眺めていると、制服の学生が連れ立って路地をやってくる。この店が目当てらしい。クルトが薄灰のローブを壁にかけて階段の上に戻ったとき「ソールさん、試験が終わりましたよ」と話す声が響いてきた。どうやら常連の学生たちらしい。 「そうか。首尾は?」とソールは気楽な口調でたずねている。  クルトは部屋に引き返し、寝台にどさりと座った。たしかにソールのいう通り、学生たちや常連客の魔術師とソールは親しくやりとりをするし、クルトは彼らを気にかけたことは一度もなかった。だがさっきクルトにとって一番衝撃だったのは、ソールがサージュを友人と呼んだことだ。 (僕と同じ学者崩れだ)  学者崩れ。クルトはソールのことをそんな風に思ったことは一度もない。ないはずだ。いや、出会った最初のころはどうだっただろう?  その日は閉店まで学生やほかの客が来て、ひさしぶりに店は賑やかだった。だがクルトとソールのあいだにはぎこちない空気が漂ったままで、夕食のときも変わらなかった。ふたりは黙ってテーブルに向かいあい、野菜と腸詰のスープを口に運んでいた。ソールは皿に取り出した腸詰を作法通りナイフで切っている。 「そういえば話があるんだ。王都への召喚の理由を正式に告げられた」  クルトは何とかさりげなく聞こえるよう、話を切り出した。ソールは手をとめ、皿から眼をあげる。先をうながすようにクルトをみつめる。 「ダーラム師からだ。俺を白の位階に再任命するという話だった」 「ダーラム師というと『八の燭台』の?」  ソールは眼をみひらく。「直々に? それは……すごいな」 「ただ条件がある。白いローブを受け取ったら王城での勤務につくよう要請されている。俺は受けるつもりはない」 「なんだって?」  食器が鳴った。ソールがめずらしく手をすべらせたのだ。 「俺は今のままで十分だ。返事は保留になっているが、断るつもりで……」 「せっかくの機会なのに? ローブを与え直すなんてふつうのことじゃない。それも八の燭台から直接話が来るなんて――ありえないぞ。ここで受けなかったら将来がまったく――」 「いや。俺は今のままがいいんだ」  クルトは微笑もうとしたが、どういうわけか堅い口ぶりになってしまった。ソールの口調に引きずられたのかもしれなかった。 「だけど、クルト……こんな千載一遇の機会……」 「受けたら王都にずっと留まることになる。それは困る」 「クルト」ソールが顔をしかめる。 「僕のせいだな?」 「ちがう。俺は治療師のままがいいんだ」 「僕に気をつかうことはない」 「ちがうっていってるだろう」 「こんなことが二度あるとでも? あとで気が変わったらどうするんだ?」 「俺の気は変わらない」  クルトは語気鋭くいいはなった。ソールは鼻白んだ様子で口を閉じた。 「ローブなんて白だろうが灰色だろうがかまうことじゃない。今回の召喚で俺の能力に王城からお墨付きをもらえたと思えば、それだけで十分だ」  ソールは黙ってクルトをみつめていた。表情は堅く、顔色は白かった。大丈夫だろうかとクルトは思った。うまく伝えられていない気がする。もっときちんと順序立てて話すべきだったが、ダーラムのいったことをすべて伝えるのはどうかと思ったからでもある。新しい審議部やメストリン王子の件は、知っていれば下手なことに巻きこまれかねない情報だった。 「僕は……」  ソールがためらいがちに口をひらいた。 「僕にはわからない」 「何が?」 「きみが……迷いなくそういえるのが」 「ソール」クルトは笑おうとした。 「大丈夫だ。俺の気は変わらない。俺はソールと一緒にいたいだけだ」  笑ってくれるかと思ったのに、ソールの表情はあいかわらず堅い。 「そうか。でも……僕にはやっぱり――わからない」  会話はそこで立ち消えた。ソールの食欲はなくなったようだった。フォークの先に刺した腸詰を眺め、ひとかけら齧って手をとめてしまう。そしてお茶もろくに飲まずに階上へあがってしまった。  やはり伝え方が悪かったのだ。サージュの話で妙な雰囲気になっていたのもまずかった。居心地の悪いままクルトは後悔したものの、ソールに対して腹立たしいような気持ちも感じていた。クルトはソールと一緒にいるとはっきり宣言したのだ。ソールの体に王都の環境が合わないことは、なによりも本人が一番よくわかっているはずである。どうしてこんなに頑ななのか。もっと素直に自分の話を聞けばいいのに。  もう少しちゃんと話をしよう。そう決意してクルトは階上にあがった。ソールは寝台に入り、背板にもたれて本を読んでいた。声をかけようとしてクルトは迷った。ソールは本を読んでいる。深く耽溺する独特の読み方だった。ページの中に沈んでしまったかのように静かだった。  こうなると揺り動かしでもしないかぎり彼は周囲に気づかない。クルトが隣に座っても、集中した視線は書物から離れることがない。  クルトはため息をついた。ソールの読書が一段落するまで自分も何か読もう。手ごろな読み物、でなければ詩集でも。  書棚から一冊抜き出してクルトはソールの隣に横たわった。ページを開き、文字の列を眺める。そしていつのまにか眠りに落ちていた。

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